イミテーション・ラヴィット

女の住むアパートメントは見るからに随分と多くの築年数を重ねていて、外観からのイメージ通り壁もまるで薄いベニヤを間仕切りにしただけなのではというほどひどく薄かった。なるほど先ほどの押し殺したようなひそかなセックスの音すらも当然全て外や隣に漏れるわけだと、つい思うほどに。

今回捕まえた女は、最悪ではないものの、正直ハズレだなと思っていた。
女はやけに半間の細かく行動を制限する女だった。最初は生活におけるお小言程度のものだったが、最近は束縛するような発言が見られるし、喘ぎ声もいやにでかい。室内でタバコを吸うと烈火の如く怒るので、仕方なく錆まみれのフラワーボックスに肘をついて、ギシギシ言わせながらふかすのが日常になった。
ベランダもねえくせに、と思わないでもないが、今日の寝床と自動で出てくる飯がなくなるのはもっと面倒なのだ。何より半間はあまり外でブラつくわけにもいかなかった。
半間は所謂追われる立場の人間であった。ゆえにひとところに留まれないのだという旨は、女にも真っ先に告げているはずなのだ。自分達は男女の関係ではなく、ここはただのヤドリギだ。
何を勘違いしたのか、近頃女がそれを歪めてしまおうとしている。それは全くもって、半間にとっては不都合だった。
何せ、半間が用があるのは女ではなく、女の持ち物。つまりは木本体ではなく根本にあるものなのだから。
さっさと次の目星をつけて、こんなつまらないところなど立ち去ってしまおうか。
半間は己の体躯をまたフラワーボックスに預け、パンを齧った。それは女が昨日の深夜に買ってきたものだった。何枚かのシールの上に、恐らく閉店間際の最終割引なのだろう半額のシールが貼られていて、そしてこの部屋には、そういうものに塗れていた。女の私物は人間一人を囲うことができるほどの人間のものには遠く及ばず、女は半間をこの場所に繋ぎ止めるために必死に日々の生活をギリギリで切り詰めている。最近はそれが目に見えてわかるほどになっていた。
少し前までは金曜を迎えれば嬉しそうに飲んでいた発泡酒も、街で見かけたから一緒に食べようとカラフルな袋から取り出した甘い菓子も近頃見かけなくなり、空になった洒落た形の香水の瓶は空のまま鏡の前に転がり、ドラッグストアの大容量のボトルのスキンケアがそれを隠すように聳えていた。
女と半間とは、顔を合わせればセックスをするか、帰ってくるなり死んだように床で眠る女を脇で眺めるかだけのを生活になりつつあった。
恐らく女は今日も終電間際で帰ってきて、厚塗りのファンデーションの皮でようやく留められているぼろぼろの肌に大粒の涙をいくつも這わせて、在りもしない熱を半間に乞うのだろう。
半間は昨晩のその様をぼうと思い出していた。居住まいが悪い肘を置き直すとギシと悲鳴をあげる錆とほこりまみれのフラワーボックスは、昨晩抱いた女のようだった。手酷く抱いても文句ひとつ言わない女は、悲鳴にも似た嬌声だけで半間の動きに応え、終わると痛む身体を押し殺して虚ろに愛を囁き、事が終われば気絶するように眠りについた。
齧り付いたメロンパンのクッキー生地が咥内に張り付いて、唾液に濡れてほぐれていく。紛い物の名前ばかりのメロン生地が剝がれると、やけにきついイーストだかなんだかのにおいとパサついたパン生地だけが残される。うまくはないが、空腹を紛らわせるくらいであればまあ、妥協点だろう。

「おにーちゃん、おおきいねえ」
「ア?」

それは聞こえるはずもない声だった。この部屋の家主である女は模範的な社会人らしく働きに出ていて半間しかいないはずであるし、女のアパートメントは二階だ。
やけに明るい気配を纏ったそれを目だけで追えば、どうやら隣の部屋のフラワーボックスから自分と同じような格好で伸びる小さな影があり、どうやらそれは隣人の少女だったようだ。少女は何かを足場にして窓枠に乗り上げるようにしているのか、子供特有の頭でっかちから伸びた髪から落ちていきそうになっていた。一般的な良識のある大人であれば少女の行動を真っ青になって止めるのだろうが、半間はそうではなかった。そもそもそういう発想すらもないのだ。
少女の身体がそこから転げ落ちたところで半間が困ることはなく、ああでもそうだな、警察がくるのは自分にとっては都合が悪いな、と思う程度のものであった。

「こんにちは、おっきいおにいちゃん」
「おー、コンニチハ。チビすけなオジョーチャン」
「うふふ!」

うふふ。なにがおかしいのか、幼い少女はちいさな手を口元にあてて、嬉しくて仕方のないのだとでもいうようにころころと高い声をあげた。幼い子供となど接した経験も、自らの幼い時分の時も同年代の少女と交流を持つこともなかった半間はその感情をよく理解し得なかったが、まあ特にそれが不快なものになるわけでもなし、さて置いた。別段興味も引かれなかったというのが最も大きな理由であったが。

「おにいちゃんはおねえさんのコイビトなの?」
「ちげーけど、まー似たようなモンじゃね?」
「ちがうの?」
「コイビトじゃねーし」
「ふーん、おねえさん、あんなにおにいちゃんのことスキなのに」
「そーか? まあ、乳はでけーから、そこはイイかもな」
「えー、いいなあ、あたしもおっぱいおっきくなりたい」
「揉めばなるんじゃね?」
「そんなのウソだって、あたしもう知ってるんだからね!」

少女もまた子供らしく、そんな半間を別段気にするでもなく話を続けた。
少女は、半間の目には十を迎えたかどうかというほどに映った。細い体躯に、この部屋の持ち主だか誰かの大人のものを借りたのであろう、襟首が伸びきった大きなシャツを着ていた。いかにも少女らしい三つ編みが顔の横でふわふわと揺れる。染めていない美しい頭髪は綺麗に編み込まれ、裾には大きなリボンが付いていた。
それは少女を少女たらんとし、そうあれと求められているようで、そしてまるで誂えたように彼女にしっくりとしていた。

「んー、なんかおなかすいちゃったなあ」
「食うモン、なんも置いてねーの?」
「うん、今日のパパ、すっごく朝いそいでたみたい」
「ダメなパパだなァ」
「ね。あたしがこんなにおなかを空かせてるのに!」

空腹の不快感からか、唇を吊り上げてわかりやすく自分は怒っていますのポーズを取る少女を、半間はおかしげに見ながら紫煙を吐いた。
狭苦しい1Kのアパートメントの窓同士で会話をしていると風下である少女の元にその独特の匂いがすっかり届いてしまっているのであろうが、少女は気にした風もない。きっとすっかりそういうものには慣れているのだという様子である。子ウサギのような柔い薄皮の下に毒が入り込んでいくことに、一つの躊躇もないのだろう。

「じゃー仕方ねーからこれやるよ」
「いいの?」
「あんまうまくねェからいらね」
「そーゆーの、食べるまえに言うの、たぶんモテないよ」
「バハッ」

半間が差し出した食べかけのメロンパンの半分を、少女は何を躊躇うこともなく手に取り、口に含んだ。薄い唇を案外豪快に開いて、臆することもなく齧り付く。
恐らく彼女の咥内にはいま、先ほどの半間と同じように紛い物のメロンクッキーがぺったりと貼りついて、いやにきつい薬品のようなにおいに支配されているに違いない。それでも空腹には敵わないのか、それともあまり気にしない性質なのか、少女はぺろりとそれを平らげ、ビニール袋をくしゃくしゃにした。

「ほんとにあんまりおいしくなかった」
「だろ?」
「おねえさん、すっごくがんばってるのにね」
「センスねーよな」
「うふふ」

また少女は口に手を当てて笑う。声を大きく漏れないようにする時のくせなのか、すると少しだけくぐもった笑い声になった。
どこかマセた雰囲気の少女だ。女という生き物はまだほんの幼いころからそういう面があるものだが、やけにその少女はそれを匂わせた。いっそわざとらしいほどで、先ほどから向けられる視線ひとつ、自分の使い方をよくわかっているようにさえ半間には映った。
なるほどよく訓練されている、というのが半間の感想であった。

「お、パパ帰ってきたぜ」
「ほんと?」

半間の耳に、金属を叩く音が届く。半間の部屋は、少女が顔を出す部屋とは反対の壁側にアパートメントを上がる外階段がある造りで、その足音で誰が帰ってきたのかわかるのだ。軽くてバランスの悪そうなヒールが擦れる軽い音なら半間のヤドリギである女、古い階段をぶち抜いてしまわないかという重い音なら少女のパパ。少女のパパの部屋の反対側のは空き部屋なので、それ以外の音ならこのアパートメントの住人ではないということになる。

「あたし、おかえりなさいしなくっちゃ」
「ちゃんとおかえりできてエライなあ」
「でしょ。あたし、とってもできた女なの」

半間の言葉を聞いた少女は「さよなら、おにいちゃん」とあのころころとした高い声を転がしながら窓を閉め切った。少女が軽やかな足音を立ててパパを迎え、今日は何があったのだ、お土産はないのかと聞こうとする明るい声が壁越しに追ってやってきた。薄いベニヤはほとんど壁の意味を成さず、会話の内容までを筒抜けにしてしまう。
半間はそれを流し聞きながら、小さくなった煙草をフラワーボックスの柵に押し付けて消した。窓を開けて換気をすることもない家主の女は、この僅かばかりの隙間がとっくに吸い殻だらけにされていることにも気付いていないだろう。
半間は窓を閉じて、そう中身の入っていない財布をポケットに押し込んだ。
煙草を咥えると最後の一本になっていたのでキッチン転がっていたゴミ袋に押し込んで、靴をつっかけると部屋を出た。壁の向こうから、幼い少女のくぐもった少女の声が聞こえた。

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