この夜の永さを知らないままで


「ちょっとぉ、大丈夫ですか〜?まさか終電のこと忘れてません?」

騒がしかった店内は、いつのまにか私たちふたりを除いてがらんとしていた。私はというと、あ〜やっぱ斉藤と飲むの楽しいな〜帰りたくないな〜〜とかいう、世界でいちばん単純でバカみたいな気持ちでいっぱいだった。終電のことも、本当は隣のお客さんが帰った時からちゃんと考えてたけど。

「うわ、あっぶなっ!忘れてた」
「はは、出た〜」

つい、気づかないふりをしてしまった。ああ、きっとこれが、「好き」というやつなのかなあ。へえ、なるほど。好きねえ。うんうん。こどもが覚えたての言葉を繰り返すみたいに、好き、の形を何度もなぞる。ええ、そうです、浮かれてるのだと思います、たぶん。

「明日は朝早いんです?」
「そーなのーー。最悪だよ、1限の時間までに提出しなきゃいけないやつがあんの」
「へえ、そりゃまた4年にもなって難儀な」
「でも私が悪いんだ、ほんとは先週出さなきゃいけなかったやつだから」
「おい。アンタらしさしかねえな」

「終電逃して朝まで居たいけどさ」と言ったのは、私の本音だ。でも、帰らなくちゃいけないのも本当で。書類を提出するはずだった先週の己の行動を思い返しては、後悔するばかりだった(後悔なんてしないとか言ったの、前言撤回ね)。
いつものように、ざっくり割り勘でお会計を済ませて店を出る。外は思っていたよりも風が強くて、コートの中で肩を縮こませた。斉藤は「駅まで送りますよ」と私の前を歩き出した。帰りたくなんてないけど、「家泊めてよ」って、いつもみたいには今日はちょっと言えなかった。
斉藤の家は大学のある駅から徒歩15分くらいのところにある。少し歩くのが難点だけど、1Kで9畳という広めの間取りやバストイレ別などなかなかの好物件で、飲んだ日にはよくお世話になっていた。意外にも彼の家は散らかっていて、ズボラな私には居心地が良かった。他人の世話は焼くくせに、存外自分には焼けないタイプだ。

「あ、ちなみに」

数歩前を歩く斉藤が私を振り返る。街頭に照らされて、へらっとした笑い顔がよく見えた。

「今日は僕の家泊まれないですよ〜。散らかってるんで」

どきりとした。どうしてこう、考えてることがバレてしまうのだろう。「泊めてなんて言ってない」とか、「散らかってるのはいつもじゃん」とか。どう答えようか迷って、結局、咄嗟に口から出たのは「わかってる」という曖昧な言葉だった。今日は泊まるべきじゃないことも、斉藤の家がいつでも散らかってることも、わかってるのだ。斉藤も、今日は私が泊まらないことを、きっとわかっている。「ならよかった」と言って前を向き直した。よかった、って、何が。

「なーんか、いつもの名前さんに戻って安心しました」

斉藤は、ずるい。それってまるで、私が「いつも」から逸脱しないように牽制してるみたいだ、と思った。

「最初の方ぎこちない感じだったから、大丈夫かなーなんて思ってたんですけど」
「……たしかに、最初ちょっと変だった、かもね」

ぎこちなかったことも、浮かれたことも、私にとっては何もかもが新しくて、眩しくて、楽しかったのだ。電球の切れかけた街灯がビカビカと不規則に点滅するたびに、心臓の奥がちくりと痛む。

「斉藤は、いつもどおりだったね」
「……俺は、」

顔は見えない。斉藤の歩くスピードがほんの少しだけ落ちて、私も合わせてペースを落とす。

「俺は、ずるい男ですから」

ああ、そういうこと言っちゃうところも本当に、ずるい、と思う。器用でずるくて、でも好きで、むかつく。どうしようもなく嫌になる。私は返す言葉が見つからないまま、ただ黙って背中を追いかけた。私が返さなかったばかりに会話はそこで途切れてしまい、ふたりの不揃いな靴音がやけに大きく聞こえていた。いつもは心地よい斉藤との沈黙も、今は刺すように痛かった。
ああ、もう少しで駅についてしまう。私はこのまま、普通に別れて、普通に電車に乗って、普通に改札を抜けて、普通に眠りにつくのだろうか。……その先は?いつも通りに眠って、起きて、それを7回繰り返したら卒業式があって、それから、それから。斉藤とは、またいつか会える?いつも通りの顔をして。「いつも通り」を探してたくせに、「いつも通り」じゃ嫌なんて、私は本当にわがままだ。でも、こんなときまで「いつも通り」でいたがってる斉藤の方がずっと、わがまま、だ。

「あのさ、斉藤」

少しだけ声を張り上げて、立ち止まる。斉藤はそれ気づいて3、4歩進んだところで振り返った。

「どうかしました?」
「……私ね、来週卒業なの。知ってた?」

ほんの少しの間。斉藤の瞳が、微かに揺れたのがわかった。

「……もちろん、知ってますよ」
「私、卒業なんだよ。だから……一緒にこうやって飲むのも、たぶん、今日が最後」

斉藤は、斉藤らしくない、すごく困った顔をしていた。けど、今だけは合わせてあげたくない。もっともっと困って欲しいって、意地悪なことを思っている。

「……あー、うん、名前さんも忙しくなりますもんねぇ。でもまあ、落ち着いたらまた、飲みにでも行きましょ〜」
「ねえ、だからっ」

思わず詰め寄って、斉藤のジャケットの袖を掴む。

「これで最後なんだよ、斉藤」

真っ直ぐ目を見ても、視線が合うことはない。困ったように眉を潜めてただ口を閉ざす斉藤を見て、はっとした。私は、ごめん、と言って掴んでいた袖を離した。斉藤は何も言わない。

「…………駅だから、じゃあね」

もう目を見ることはできなかった。俯いたまま、立ち尽くす斉藤の横を通り過ぎる。「まって、」と焦った声が聞こえるのと同時に、右腕が強く後ろに引かれて、振り返る。

「…………あー、あの、えーと……」
「…………なに」
「えーー、あーー、…………や、やっぱ、なんでも。あはは、すいません、いきなり掴んだりしちゃって」

ぱっと手を離した斉藤は、何でもないみたいに、へらりと笑った。

「名前さんもお元気で。僕のモーニングコールがなくてもがんばって朝起きるんですよー?飲み過ぎたりしないで、社会人ちゃんと頑張ってくださいね〜!」

いつもなら頭に浮かぶツッコミや罵倒の言葉は、なぜだかひとつも出てこなかった。代わりに、「わかった」とだけ、小さく呟いた。「あ、」と声をこぼした斉藤は、泣き出してしまいそうなほど顔を歪めて、行き場を失った拳を握りしめていた。私は、それに気づかないふりをして背を向ける。振り返らないよう、ぐっと力を入れて、駅に向かって歩き出す。
ロータリーの木々を揺らす風はひどく冷たかった。サラリーマンや学生とすれ違うたびに何度転びそうになったって、別に、誰も追ってきたりなんてしない。

「……バカ、ヘタレ野郎」

小さく呟いた声が、反響して自分の鼓膜に深く突き刺さる。3月の冷気に晒された耳は、裂けるように痛かった。

(2021/12/25)
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