たとえばこんな、春の形
意外と呆気ないもんだな、というのが率直な感想だった。3月にしてはあたたかな気温は、まさしく卒業式日和というやつで、唯一残念なのは空が少し曇っていることくらいだ。知らんおじさん(偉いらしい)のありがた〜いお話を聞くだけの淡々とした式が終わったあと、学部やゼミの友達何人かと、祝いと別れの挨拶をした。なんだかんだ最後には私も泣くんだろう、なんて思っていたのに、実際にその場面になってみると、込み上げてくるものなんてほとんどなかった。改めて、私は自分で思っていたよりもずっと薄情な人間なのだと思い知る。4年間も通いながら、この場所に思い入れなど微塵もなかったのだ。……ただひとりを除いては。
(あーやだやだ、やめてよ)
考えないようにしていたのに。脳裏によぎったものを追い出すように、ブンブンと頭を振った。そのひとりも、もう今日で忘れる。さようならだ。この学校も、学部も、ゼミも、先生も、あいつも、全部全部。私は今日、卒業するのだ。
更衣室に入り、ゼミの卒業パーティのためにドレスに着替える。派手すぎず、さり気ないフリルと、左胸にコサージュのついたよくある質素なデザインだ。やや短すぎる丈が少々気になるが、私だって一応うら若き乙女(寒)なのだ、これくらいしたってきっと許されるはずだ。帯を解いて袴を脱げば、たちまち解放感で満たされる。締め付けられていた部分が窮屈でずっと苦しかったのだ。あんなに必死に選んだ袴も、脱ぐときがいちばん待ち遠しいなんてとんだ皮肉だ、などとくだらないことを思った。代わりに、初めて袖を通したドレスは、とても身軽だった。
pm 8:00。こんな早い時間の解散に驚いているのは、誰よりも私自身である。卒業パーティのあと、友達を何人か誘って二次会に行くこともできたが、別に、深酒する気にはならなかった。する必要もなかった。というのも、意外に卒業パーティが楽しかったからでもある。どうせあんまり飲めるわけでもなし、形式ばかりの退屈な会だろうと高を括っていたのだが、意外や意外、楽しさとは酒の量では決まらないのだと逆に学んでしまったのだ。甘くて酔えない酒を啜りながら、他愛もない、当たり障りのない話をする。そんな、ずっと馬鹿にしてきた"大人の飲み方"も悪くはないと思ってしまった。朝まで飲んで吐くまで酔うような、今までの幼稚な飲み方はもうしなくていい。まあ、そんなことする相手はもう居ないのだけど。そう、斉藤なんていなくても、私は楽しく過ごしていけると、わかったから。
自宅の最寄り駅に着いたときにはすでに、左足の靴擦れは我慢の限界を迎えていた。あと少し、もう少し頑張って歩けば家に着く。けど、履き慣れないヒールはこうなるものだとよく聞くし、こういった大人っぽい悩みに共感ができて、成長した気さえしていた。とはいえ痛いものは痛い。やけに遠く感じる帰路に足首の痛みは増すばかりだった。pm 9:00。昼間の曇り空は幾分かましになり、雲と雲の狭い隙間からほんの少し月が覗いていた。月明かりを頼りに歩くには心許ないくらいに、ほんの少しだけれど。ようやく辿り着いたアパートの外階段の手すりはひどく冷たく、掴んだてのひらの熱を奪っていく。それに比例するかのように足はじんじんと熱を帯びていた。滲んだ血がストッキングを汚していくのを見ないふりして、引き摺るようにして3階を目指す。こんなとき、エレベーター付きの物件にしなかったことを後悔するのだ。
「おかえり」
「…………は、」
目を疑った。居るはずのない人間が、そこにいる。しかも、よりにもよって、私の家のドアの前に、寄っかかるようにして、いや、たぶん絶対おそらくきっと私に用があるんだから私の家のドアの前なのは当たり前なんだけど、えっと違う、そうじゃなくて。
「……なんで、いんの」
「あはは、びっくりしましたー?って、ま、そりゃそうか」
へらへらと、いつもよりも力なく笑う彼を見て、自然と「さいとう、」と声が溢れた。
「足、どうした」
「何でいんのって聞いてんだけど」
「俺、絆創膏持ってますから、ちょっと見せてください」
「ねえ、斉藤、なんで」
一歩近づいてきた斉藤を避けるように、一歩後ずさる。
「なんでって、」
「今日私がいつ帰ってくるかもわからないのに、連絡もしないで、寒い中、ずっと、ずっとここで待ってたの?ねえなんで?」
「……」
「今更、何しに来たの?」
逆光で良かった、と思った。私の顔は見えない。きっと泣くのを我慢して、ひっどい顔をしているから。斉藤のひっどい顔は私から丸見えで、フェアじゃないこの状況にさえもどこか喜んでしまう不謹慎な自分がいた。ああ、私はまだ、期待してるんだ。斉藤は数メートル離れたところで、近づきも離れもしない。私との距離を丁寧に測るように、まっすぐ見ている。そこにはもう、へらへらした憎たらしい笑顔はなかった。
「忘れ物、したんで」
「……え?」
「バカでヘタレだから」
斉藤が、一歩、一歩と私との距離を縮める。
「俺が、バカでヘタレだから、忘れ物したんです」
「なに、言って……っ」
その瞬間に、ぐいっと腕を引かれる。「うぎゃ」なんて、我ながら色気のない悲鳴だと思う。私はバランスを崩して、そのまま、斉藤の腕の中にぽすっ、と収まった。……て、え。まって、え?うそこれ、なに。
「名前さん、俺、」
聞き慣れたはずの低い声が、頭の上から、骨から、伝って鼓膜を揺らす。私は、動揺が伝わらないように、熱い頬が彼に触れてしまわないように、つっかえた肺で浅い呼吸を繰り返していた。何かを誤魔化すように、私を包む逞しい両腕に力が入る。「あーー、なんつーか、えーと」と言い淀んでいる斉藤の、熱やら鼓動の音やらが全身に伝わってきて、ああ、こんなの、嫌でもわかってしまう。
「……あはは、やば、だっせぇよなぁ俺」
腕に込められた力が弱まったかと思うと、肩を押されてぐっと引き離される。びっくりして顔を上げるとそこには、深く鮮やかなアンバーがまっすぐに私を捉えていた。射貫くような眼光から、目を逸らすことができない。
「あの、名前さん。今から俺、すげぇ勇気出すんで、よく聞いてください」
「………あ、」
…………忘れてた。そういえば、ここ、アパートの通路だわ!!!
「あ、あの……ちょちょ、ちょっと待って!」
「待たねぇよ」
「いや違、そういう意味じゃなくてだね、」
「俺、今ここでまた逃げちまうわけにはいかないんで」
「あの、いや。ちがくて。わかったから、一回どこか入らない!?うちでいいから!」
「名前さん。あの、俺、」
「まって外だからここ!!うちに入ろうってば!!!」
そんなこと言っている間に、斉藤は私の瞳を見つめたまま、大きく息を吸った。……えってか、そんなにいっぱい空気いる?なんか嫌な予感が、いやちょっと。まさかと思うけど、まてまてまて!
「好きです!!!」
あああやっぱりね!!嫌な予感がしたんです!!ここ外だっていうのにまだ隣人も起きてる時間なのに、器用なくせして頭良いくせしてずるいくせしていつも逃げてばっかなくせしてすぐへらへらしやがるくせして変なところで意地っ張りでこうと決めたら周りが見えなくなるくらい馬鹿真っ直ぐでそういうところも全部ぜんぶぜんぶムカつくしムカつくしムカつくんですけど!!
「ああもう!私だってクソ好きだよばーーーか!!!」
ああ、きっと、明日には騒音の苦情が来るだろう。安アパートの通路で似合わないドレスと血まみれの足。最低で最悪な告白。何もかもが最悪すぎて、酔っ払って吐きまくった朝のような、地獄みたいに最高な気分だった。ふわり、ともう一度包み込むあたたかな体温と、「あ、あはは、…………よかった、」と情けなく笑う声があんまりに斉藤らしくなくって、思わず力が抜ける。崩れ落ちないよう支えてくれたこの腕は逞しくって、ああこいつは男の人だったっけ、とこんな場違いなタイミングで再確認するのだった。
「足、手当しましょ」
「……うん」
あ、でも、その前に。玄関の鍵を開けて、パンプスを脱ぎ捨てる。鞄をがさごそ漁って見つけた財布を、玄関の外で待つ斉藤にずい、と手渡した。
「コンビニでお酒、いっぱい買ってきて!!」
「……ははっ、たく、アンタって人は」
嫌いじゃないでしょ?と笑うと、「好きですよ」なんて返してきたもんだから、ムカついてドアを閉めた。ドアの向こうで「はあ!?」ってツッコむ声がでかい。うるさい!お前はとっととコンビニ行け!こんな顔、見られてたまるか!あーあ、早く斉藤と飲み直したい。バカみたいに酔っ払って、迷惑かけてやるんだ。ばーか。
(2022/4/3)
