「ああもう、何様なのかしら」
──ヴィル・シェーンハイトの部屋。
サインと承認印を捺しながら、ヴィルは半分怒りの溜め息をこぼしていた。
「お怒りかい?ヴィル」
「いいえ……怒ってないわ、呆れてるの。エデンのことを知らない奴らが何て噂してたと思う?『何にもできないお姫様』ですって。笑っちゃう」
「オーララ!それは由々しき事態だ。ムシュー・白薔薇はそれを言うなら
各寮長の承認待ちだったその紙の束をルーク・ハントが受けとると、マジカルペンを振り、次の寮へ転送する。
ふわ、と浮いた紙束が、ぱちん!という音と共に消えた。今頃ディアソムニアに届いているだろう。
「だからかい?」
「何が?」
「先程、エデンにサバナクローへの使いを頼んだのだろう?売られた喧嘩は実力を見せ付けるにはお誂え向きだからね」
「サバナクローへ?」
「おや?違うのかな」
マジカルペンを回しながらルークが振り返れば、デスクに肘を着いて項垂れた美しい人が目に入ってきた。手に持った特注の万年筆が軋んでいる。
余程握り締めているらしい。
「アタシは!全っ然急がない書類を、部活でほとんど毎日植物園に行くエデンに、レオナに『会ったら』渡して、って、言ったのよ?」
時折抜けているが、基本的にエデン・グランドフロラは気が利く方だ。1週間後の寮長会議まで会えなかったら、それなりのタイミングで自分のところに書類を戻してくるだろうと、ヴィルはそう踏んでいた。
「……談話室で会った時には、獅子の君に会いに行ってくる、と言っていたよ?エデンは」
「よくもいけしゃあしゃあと……!」
もちろん「急がない」という話を聞いていた上で会いに行ったのだろう。
ヴィルとしてはこの後、久しぶりにゆっくりお茶でもしようと考えていたのにコレだ。
「尊く美しき友情も考えものだね、毒の君」
「冗談じゃない。あのぐうたら第2王子、エデンのこと卒業後にかっ拐って行くつもりよ。そうなったらあの子、深く考えずに『レオナのとこが就職先なら安泰だ』とか言って付いていくのが簡単に想像できるわ」
「それは、そう考えると……少々しくじってしまったか……」
「何?何かやったの、」
「美しく優雅な猫になっているよ」
「は?」
どぱーーーーん!!!
……重いものが水面に叩きつけられた音。
レオナさんの部屋から談話室に向かう途中、大きな音が響いて咄嗟に振り向けば、当の寮長は呆れたような顔でニヤニヤ笑っている。
なんなんスかね!?寮内で乱闘騒ぎが起こってるっていうのにこの人!
「おいラギー、慌てても結果は変わらねえぞ」
「いやいや普通は慌てるっスわ」
数分前、部屋でグースカ眠りこけていたレオナさんのところに、どたばたと走り込んできた寮生に「寮長に会いたいとか言いやがって」「手が付けられない」と泣き付かれた。
正直レオナさんも俺も「知らねえ」としか言いようが無かったけど、グースカしてても仮にも寮長、仮にも寮内。渋々ここまで来れば、ものすごい音が響いて来たんだから、ぎょっとするのも仕方ないスよね?
脚を早めて談話室に入れば、滝の音や植物の葉から水が滴り落ちるパタパタパタパタという音が響くだけで、その他は静まり返っていた。
「つ、つべたい……。ごほっ、」
そんなことを呟いた犯人は手で制服に付いた水を払ってるけど、水際に立ってるんだから、水飛沫をモロに浴びてそんな程度ではなんともならないでしょ。
頭の上に白い三角の耳が見える。
……ん?三角の耳?
「おい、派手にやったなァ?」
「レオナ!ご機嫌好う。お昼寝の邪魔をしてしまったかな」
ぱっ、と振り返ったその人。
「あれ?エデンさんじゃないっスか!」
「ご機嫌好う、ラギー。すごいね、この……プール?滝壺?いつもこんなに冷たいんだ?」
「そうらしいっスよ」
そんな飛び込んだりしないっスから、わかんないけど。
びしょびしょのジャケットを脱いで、倒れている寮生を跨ぎながら此方にやってくる。水の中に入ったのか靴の中も水浸しっぽくて、いつも獣レベルで小さい足音もびちゃっ、ぐちゃっ、と鳴らしてる。違和感がスゲエ。
こっちも近付けば、意識のある奴らはレオナさんの正規の客人だとようやく分かったらしくて、青ざめて逃げ出した。
レオナさんを対面で呼び捨てにする人なんて早々いないっスから、更に。
シシッ!周り見てないからこうなるんスよ。
「エデン、こっち来い、」
「うん?」
レオナさんは目の前に来た先輩の額にびったりと張りつく前髪を掻き上げて、眉間に音もなくマジカルペンを当てる。
ブワッと下から風が当たったような感じで髪が舞い上がった直後、しゅあ、と水が蒸発する音が聞こえた。べちゃべちゃだった髪は乾いて、緩くウェーブが掛かってる程度になってる。
「お。おお〜、ありがとう。流石レオナ」
「お前な、恒例行事にするんじゃねえ」
「う〜ん……そんなつもりは無いのだけれど、騒いでごめんね」
今度はエデン先輩がペンを振って、荒れた談話室内を元に戻した。死屍累々って感じの寮生……ほぼ1年生っスね、そいつらは浮かせてご丁寧に端に並べて置いてる。大半は逃げてったけど、嫌な絵面すぎでしょ。
「ん?恒例行事、……ってまさか、去年の今頃も騒ぎがあったらしいっスけど、それもエデンさんだったんスか?!」
「ああ、このお高く留まってそうな見た目に騙されて、迂闊に喧嘩を売る馬鹿が返り討ちにされる行事だ。噂話としては出回らないがな」
「よく覚えているね、ラギー。売った手前、負けると悔しいのかな、と思うよ」
「まー、そりゃ負けてたらそうっスよね」
だから大っぴらには噂にならない、と。
乱れた衣服を整えているエデン先輩は、筋肉があるタイプでも無さそうな体つきをしてると思う。バランス型っぽい。なのに、この乱闘はほぼ魔法無しだったんじゃないかっていうのがなんとなく分かるのが、得体が知れなくて怖すぎ。その上多分だけど全員無傷だ。
先輩のユニーク魔法は知らねえけど、そこら辺をちょちょっとやってるんスかね。
「まあいい、遅かれ早かれ気付くことだからな。それでお前、その頭どうした」
「ああ、寮を出てくる前に、ルークがやってくれたんだ。器用だろう?獅子の君のところに行くならお揃いでどうかな、って」
いつもフワフワ動かしている両手を、それのあたりでくるりとまた動かす。
三角の耳……もとい、白い髪で出来た三角の、何て言うんスかね?お団子ヘア?
白いリボンで全部纏めているはずの髪は殆どが下ろされて本来の耳を隠してて、遠目から見れば猫の獣人っぽい。
「似合ってるっスよ!」
「ありがとう。やっぱりいつもより後ろの髪が邪魔なんだけれど、そう言って貰えると嬉しいな」
「……お揃いねえ…。やるんならココまでちゃんとやれよ」
顔の横にある髪を1束掬われて横目で確認する顔が、総勢何人だか知らないスけど、数分前に売られた喧嘩を全部買って返してた人とは思えない。
俺は三つ編み出来ないんだよ、とか言ってる。
「そう言えば、ちょうどレオナに会えたし、今、時間いいかな?」
どっかに転移させておいたのか、エデンさんの左手に白い革製のクリップホルダーが現れた。
「あ?……ああ、何かあんのか?そこ、座れ」
談話室内の椅子を顎で指して、自分は隣のテーブルから椅子を持っていくレオナさん。他の輩が来ようもんなら自分が先に座る癖に、エデンさんに対しては比較的ちゃんとしてんな、と思う。
「じゃあ、飲みもんとか持ってくるッス」
振り向いたレオナさんの視線を受け取って駆け出そうとすると、エデンさんの手がわたわたひらひらしてんのが視界に入った。
「ラギー、ラギー大丈夫。俺はヴィルのお使いだから、すぐに帰るよ。お気遣いをありがとう」
「エデン、お前どうせ『植物園で渡せばいい』って言われたもんを態々持ってきたんだろ?そんなに暇してんだったら、茶くらい付き合えよ」
「確かに時間はあるけれど、ラギーに持ってきて貰うのは悪いじゃないか」
気遣ったような笑顔と未だにおろおろする右手。
頭の上の擬似猫耳が垂れてるような気もする。完全に幻覚っスけど。
「はあ〜、エデンさん優しい……別に気にしなくていいっスよ。レオナさん、ついでにドーナツ買ってきていいスよね」
「好きにしろ」
「ほらね!」
「そ、そう……?だったら、寝起きの王様のお茶会にお呼ばれしようかな。レオナ、ドーナツは俺も食べていい?」
「っは、最初からそう言え」
「シシシッ!了解っス〜、行ってきます!」
その前にとりあえず寮のキッチンへ。
工芸茶のティーセットを持って戻れば、自分等で淹れるからとエデンさんが受け取ってくれる。
お客さんに淹れさせてどーすんだか。と思ったスけど、ドーナツはエデンさんのご希望でもあるんで、お言葉に甘えて今度こそ駆け出した。
「レオナ、これ、お湯もっと沸騰させて」
なんていう、サバナクローの王様を雑に扱う声を後ろに聞きながら。
ドーナツを買って戻れば、2人はどうやら話は終わってて雑談でもしてるっぽい。
「はいはーい、お待たせしましたっス!」
「ありがとう、ラギー。疲れただろう、今お茶淹れるから休んで」
嬉しそうなエデンさん。そうそう、たまにはこういう素直な反応欲しいっスよね。色々買ってきたから好きなのがあると良い。
オレも椅子を引き摺ってきて、箱をテーブルに置く。
「エデンさんは何食べます?」
「うん?俺は後で。最初に選ぶのは買ってきた人の特権だよ。はい、お茶」
「どーもっス」
ついこの間、ひょんなことからカリムくんに「茶葉が欲しいのか?これで良かったらやるよ!茶器も!」とかいう軽い感じでもらった工芸茶は、俺ら獣人でもキツくない、程好い花の香りがする。
「クサくねえのがすごいんスよね〜、コレ。一体おいくらなんだか」
「まあ、悪くねえな」
ガラスポットでは、ごく薄い黄金色の茶が揺れてる。茶の中には黄色い花が咲いていた。
お湯注ぐ前はほんと、道端に転がってても違和感無いようなただの草の塊なんスけど、熱湯の中で花咲くのは面白いし人気がありそうだなって思う。
「ああ、香りが控えめだなと思ったけれど、そう言うことか……。値段はそこまで高価じゃないと思う、手頃なギフトセットとか売ってるタイプ」
赤いパッケージで金のラベル、蓮が描いてなかった?と聞かれて頷く。
確かに、そういう模様の箱に入ってたっス。
「なんで分かるんスか?あ、ストロベリーチョコ貰うっス。」
「じゃあ俺はオールドファッション頂くよ。……なんでかって、色々なお茶を飲むのが趣味なんだ。下手の横好き程度に少しね。偶然知ってただけ」
「ああ……、だから植物園に持ってくる茶が毎回違うのか」
なるほど。って、エデンさんが植物園に行くときは部活っスよね。何ちゃっかり植物園でアフタヌーンティーしばいてんスか?
しかもエデンさんに、この間気に入っていた物と同じメーカーだよ、と言われて、レオナさんの耳が思い出すように2〜3度動いた。お気に入りメーカーまで発掘したのかよ。
「じゃあ、カリムくんが誰かからギフトでもらったやつだったんスかね?」
「ううん?どうだろうか。きっと家が商品として輸入しているんじゃないかな」
聞くところによると、基本的には手頃な値段で美味しくて、世界中に多くのファンがいるメーカーらしい。確かにお金になりそうっス。
これは獣人向けに香りを抑えた大衆向け新商品だから、『カリム・アルアジーム』へのギフトにしては手頃すぎる値段だし、獣人向けの商品であることも疑問。
多分、新商品のテイスティング用にメーカーから送られてきたサンプルが余ったんだろう、っていうのがオレの予想かな。
「それで、レオナはドーナツ食べないの?」
「いらねえ」
「ラギーがベーコンエッグパイ買ってきてくれているよ?」
「…………、食う」
「もー!食わないなら良いんスよ、レオナさんあれだけ寝といてまだ眠いんスかぁ?」
しょうがないんで付属してた半透明の紙で持つところだけ包んで渡せば、すん、と匂いを嗅いでからザクザクのパイ生地を大口で齧り取った。
「相変わらずレオナは眠りが浅いのかな。あまり気を張っては駄目だよ。食べたら直ぐに帰るから、寝直して」
「あ?別に、問題無えよ。」
ドーナツを持ってない方の手が、パイを食べるレオナさんの頭を撫でるのを見て、ストロベリーチョコの欠片が喉にひっかかりそうになった。
全然動じずにされるがままで、耳の上をエデンさんの手が滑るごとにポヨ、ポヨ、と元に戻る。その度になんでかオレが動揺。
耳触られんの、オレ等って嫌な訳じゃないけど人は選ぶし。なんせ撫でられてんのはレオナさんだから!
触んじゃねえ、とか言ってエデンさんが目の前で砂になったら、さすがにショックで寝込む自信がある。無いだろうけど。
なんだかんだ仲良いんスもん。2人って。
でも今後も喧嘩とかしないで欲しい。オレの安寧のためにも。
「ムシュー・白薔薇!」
「え?」
「ハァ……、部屋戻ってから茶にすれば良かったか……」
心底面倒そうな声が漏れてるっスよ、レオナさん。
こっちに来るルークさんを見て、穏やかな笑顔が崩れないのはミレイさんだけ。
「ボンジュール、獅子の君。ムシュー・タンポポ。お邪魔するよ」
「ルーク、何かあった?」
「いいや何も。ただお迎えに上がったのさ。でも、お茶の時間だったようだね、食べ終わってから戻ろうか」
「あ、え、」
「何勝手に座ってんだ」
「居座る気満々っスね……」
マイペースって言えば良いんスかね?
レオナさんの言葉に、いいだろう?談話室なんだから、と言って、腰かけたデッキチェアでくつろぎ始めてしまう。
エデンさんはオレ等を見比べると、少し冷め始めていたお茶を一気に飲み干した。
「っんん"。バタバタしてごめんね、レオナ、ラギー。ドーナツは包んで持ち帰るよ。ご馳走さま」
いつも追いかけっこしてるような間柄の人が来たのを気使ってくれたみたいっスね。
まあ、これ以上なにもしないでデッキチェアで昼寝でもしててくれるんならいいけど、そうも簡単じゃなさそうだ。
「気ぃ使ってんじゃねえ。……ハァ、もう1個持って行け」
「どれがいいっスか?」
「いや、そんな、ラギーがお食べ?」
「いーんスよ!」
「……じゃ、じゃあ、この砂糖掛けのやつ、良いかな」
「了解っス!」
半透明の紙に包んで、ちょっと袋は無いんでそのまま渡す。
「ありがとう、寮で頂くよ」
「ムシュー・白薔薇、ゆっくりしていても問題無いよ?私は存分に獅子の君とムシュー・タンポポを観察出来るからね」
「観察されてちゃ寛げないっス……」
「テメェは早く帰れ」
視界の端でエデンさんがおろおろしてんのが見えるけど、コレばっかりはねえ。
「あ、ええと、じゃあ、レオナはまた植物園で。ラギーも、また」
席を立って、いつもの軽く膝を折る挨拶をして、ゆるっと手を振ってくれる。まるで王族っスね。隣にいるほんとの王族は軽く答えただけだったスけど。
「ルーク、戻ろう」
「ウィ!エデン、足元に気をつけて」
「ありがとう、平気だよ」
心配なんていらないほど、軽く静かに鏡へ向かう2人を見送る。ルークさんも足音少ないっスよねえ。
姿が見えなくなる直前、くる、と半身振り返ったルークさんが帽子のつばを持って目礼してきた。ニッ、と上がった口角。
…………いやいやいや。
「普通の挨拶だと思うんスけどねぇ〜。なんでだろ〜、なんかムカつくっス!」
「ッチ、あのハンター野郎、ヴィルに何か余計なこと聞きやがったな。」
「むしろ何をヴィル先輩に言ったんスか〜……」
友達って訳じゃないから、エデンさんに会うことは少ない。何も考えずに喋れる数少ない人なんスけど。
あ〜あ、俺の穏やかな時間、儚かったっス。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
サイエンス部。
その名の通り、好奇心と探求心に基づき、様々な事象に科学を以て挑んでいく部活動である。
と、説明をするとなんとも真面目な雰囲気が出るが、実際のところは錬金術と薬学の実験も数多く、結構破天荒だ。
活動場所は基本的には決まっているものの、研究素材と実験場を求めカレッジ内を右往左往。希に他の部活にしばらくエリア出禁にされながら、トライ&エラーを繰り返す。それでも決定的な大事にはならないのは、所属部員に副寮長などの実力者がいることと、顧問の監督力によるところが大きいだろうか。
そんなサイエンス部を出禁にしたりせず、程好い関係を保つのが、カレッジ内の植物管理の補助を兼ねている『植物部』である。
「危ない!」
「え?」
ばすん!と音がして、サイエンス部所属のトレイ・クローバーの頭部に何かが衝突する。幸いにも痛さだとかはほぼ無かった。ただ、いきなり落ちてきたものに対する驚きが大きい。
見れば、足元に転がったのは、小枝や枯れ葉が詰まった大きな袋。
「……ゴミ袋?」
「トレイ、ごめんね!怪我は?!今降りるから!」
すぐ頭上から声が降ってきたかと思うと、脇に植えられた木からガサガサと人が姿を表す。
植物部が園内のメンテナンスをしているとは聞いていたが、樹上作業をしているのには気づかなかった。
「ああ、エデン。『ごきげんよう』」
「ご機嫌好う、って、そうではなくて。怪我は無い?集中していて下に気を配っていなかった、ごめんね。いつもこの時間は人がいないから……」
「問題無いよ、驚きはしたが。入ってるのなんて枯れ葉位だろ?」
「そうだけれど、危ないことに変わりは無いから」
1枚、トレイの髪に引っ掛かった枯れ葉を摘まんで、そのままパパッと肩に着いたホコリを払う。
焦った顔の彼は、植物部で植物園内の樹木をメインに世話や研究をしているエデン・グランドフロラ。
いつものポニーテールは項あたりの低い位置で括られて、長袖の運動着とグローブに身を包み、腰にツールバッグをベルトで提げている。
話を聞けば、枯れた葉や問題のある小枝を処理したゴミ袋が一杯になったので、とりあえず下に落としてしまえばいいと思って手を離したところに、運悪く通りかかったのがトレイだった。
「何も無くて良かった」
「そんなに心配しなくても、それなりに打たれ強いつもりなんだが」
「例えば袋に枝切り鋏が入っていたとしても?」
「それは勘弁してくれ。ああ、俺も自分が無事で良かったよ」
呆れ顔で笑うトレイは、エデンにとっては親戚の幼馴染であり、自身の友人でもある。
「植物部はメンテナンス日か、大変だな」
「そうでもないよ。こうやってたまに来るトレイやルークと話したり、レオナとお茶しながら作業が出来るから。研究をまとめて論文を作っているときの方が、俺は大変」
「それは同感だな。俺も実験してる方がいい」
「でしょう?で、今日はどうしたんだ?何か必要?」
サイエンス部は植物園内の一部区画を借りて、実験に必要な素材を自分たちで育てているが、こちらのエリアに畑は無いはずだ。
時折、植物部の許可を得て採取していくので、恐らくそれだろう。
「亜熱帯ゾーンにシュウ酸カルシウムを含有している植物があるって聞いたんだ。少し貰いたいんだが」
「シュウ酸カル……え?……それは、いいけれど、先生からの許可は出てる?」
「もちろん」
にっこり、音がしそうなほどの完璧な笑顔を前に、エデンはたじろぐ。思わず本当に?と聞きそうになった。
今までもトレイ・クローバーは大丈夫なのかと思う時があったからだ。どれがこうと明確には言えないが、いきなり底が深くなるプールのような男だとエデンは思っている。
ちなみに、トレイもエデンの事を「穏やかで優しいが、一定の条件で毒が見える」と評しているのでお互い様ではあるのだが
「ポムフィオーレに転寮でもするのかな?」
「!っはは、しないさ。ただの結晶実験だ、劇薬を含んだ植物を使うからと言って、毒薬を作る訳じゃない」
「そう……?なら、亜熱帯担当は今日は体調を崩して休んでいるみたいだから、俺が案内しよう。含有量は多い方が?」
「そうだと助かるな」
「解った。では、こちらへ」
半身を翻して、手をふわりと進行方向へ向ける。
土埃にまみれていても、優雅な仕草は変わらなかった。
ゴミ袋はとりあえず木の下に置き去りだ。
「ところで、亜熱帯担当者は、この間も休んでいなかったか?」
「ふふふ、気付いた?」
「それなりに来るからな。ここには」
先週、トレイがサイエンス部エリアに来た際にも、エデンは「園内は俺だけだよ」と言っていた。
「それでも気付いた人は植物部以外は初めてかもしれない。亜熱帯の草花担当は俺と正反対なんだ」
「……つまり、研究して論文をまとめるのは好きだが、細かい手入れは大嫌いだって?」
「嫌だな、俺は別にレポートは『大嫌い』ではないよ。大変なだけ」
「あまり変わらなくないか?」
「変わるよ。しかも彼は、んん……自然派というか。植物をありのままで生かしてこそ研究が成り立つ、と思っているタイプだから」
「ああ、なるほどな」
植物園という箱庭なんだから、それでも手入れは人間がしなければいけないと思うんだけれどね。そういうような事を、何時もより口数多めに、上機嫌に話すエデン。
それを聞きながら、彼とゆっくり話すのなら植物園内が一番だなとトレイは考えていた。人は少ないし、エデンは好きなものに囲まれて、いつもに輪をかけてにこにこしている。
話している内に、エリアの境目の扉にたどり着いた。
扉を開けた途端に、むあ、と温度と湿度が高い空気が肺に流れ込んでくる。流れ落ちる水の音とじっとりした濡れた地面。緑と土の匂いが濃く漂っていた。
「結晶実験なら茎と葉を1つ2つ、ってところかな。他に使う人はいる?」
「俺だけだが……。そんなに含有率が高いのか?」
「う〜ん……カレッジ内の植物としてはこれが1番高い、としか言えないな。どれ程含まれてるかまでは覚えていなくて」
担当者がいたらもう少し解るのだけれど。
そう言って、1つの植物の前で立ち止まる。
「これか?」
「そう。美しいだろう?この模様」
地面から太めの茎がシュンと伸びて、濃い緑と白っぽい黄緑の斑模様の大きな葉。これなら確かに、1〜2枚で十分だろう。葉は、長辺が60cmはあるだろう大きさだ。
「はは、そうだな」
「その全然そうと思ってない返事はやめてくれ、もう。……いいや、トレイ、何か袋は持っている?」
「採取用のフリーザーバッグならある」
「そう……。じゃあ茎を切った断面だけ、フリーザーバッグで包んでおこう」
ツールバッグから園芸用の鋏を取り出し、ざくん、ざくん、と2つの葉を茎の根元あたりから切り取った。
トレイが白衣のポケットから取り出した20cm四方ほどのフリーザーバッグに断面を入れて、茎を挟むように口元のロックを止めていく。
「どうぞ。扱いには気をつけて」
「助かったよ、ありがとう」
「どういたしまして。でも、どうしようかな……」
珍しく、エデンがぼそっと呟いた。
「ん?何がだ?」
「その状態ではあまり出歩かない方がいいんだけれど、と思って」
何か事故が起きたらフォローが面倒だ。
普通に持って戻ればハーツラビュルの副寮長にそう簡単に何かが起こるとは思えなかったが、毒草と言っても過言ではない植物を切って手渡したエデンは心配になってしまう。
「そうだ!トレイ、これを飲んで」
ツールバッグの中から取り出したのは小さな試験管。
中に入った液体はポムフィオーレの寮カラーのように青紫で、心なしか少しだけドロッとしている。いかにも毒々しい見た目だ。
「………何だ?それ」
「魔法薬。カレッジ内なら寮を除いて、任意の場所に転移が出来る優れモノだ」
「っな、本当か?転移は基本的に鏡と魔法で行うだろう。人間を転移させるのは高等魔法だ。それを薬でなんて、何を調合して、」
「ああ、ストップ。トレイ、考察と仮説・検証はサイエンス部でね。さあ、どうぞ。今日は実験室で活動?飲む時に行き先をイメージして、強く」
「……念のために聞くが、安全なのか?」
そう聞かれて面食らったエデンは、蓋になっていたコルクを抜き取り「何度か俺も使っているから大丈夫だよ」と言いながら鼻に近づける。
「ぉえ、ん"んっ………まあ、匂いは、どうかな」
「おい、吐きそうになってるじゃないか」
「大丈夫だから。俺を信じるなら薬を飲んで、信じないなら毒草を持ってカレッジ内を歩いて」
ずい、と目の前に差し出される試験管。
エデンの表情はいつもの柔らかな笑顔で、何か裏にあるとも思えない。それに、確かにトレイとしてもこの植物を持っている間にトラブルが起こり、植物園出禁になることは避けたかった。
渋々受け取って口元に近づける。
この時点で解る。率直にものすごく臭い。
「……じゃあな。また明日、覚えてろよ、エデン」
「また明日、トレイ。物騒な挨拶をありがとう」
挨拶の後、一気に飲み干す。と、口の中の異様な匂いを耐えている間に、トレイは視界が煙がかって行くのを感じた。
転移魔法ではなく、あくまでも薬なので効き方が緩やかだ。それでも薬としては有り得ないほどの早さ。
くわん、くわん、と揺れてぼやける視界の中、色が分かる程度に霞んだエデンの輪郭がいつもの挨拶をするのが見えた。
霞んだ視界が不快でまばたきを2〜3度すると、まばたき毎に視界に映る景色が変わっていく。植物園の出口、ストリート、廊下。正確ではないが、恐らくカレッジ内の、植物園からサイエンス部に帰る道筋だと推測できた。
最後のまばたきをすれば、ぽひゅん、と間抜けな音が聞こえて、トレイは実験室の中。
出入り口の扉の前に立っていた。
「薔薇の騎士、早かったじゃないか。目的のものは手に入れられたのかな?……おや、その顔。我が寮の白薔薇に会ったようだね」
音もなく現れた気配に気付いて振り向いたルーク・ハントに出迎えられて、手に持ったフリーザーバッグの葉を見て、自分自身の無事を確認して、それでようやく1つ溜め息を溢した彼は、次いで口の中に残る薬の感覚に眉をひそめる。
「会ったが……うっ、何か飲み物無いか?」
「ジンジャーエールでいいかい?今、2年の彼が実験で量産しているんだ」
「ああ、大丈夫。頼むよ」
まず休憩したい一心で、適当な大きいビーカーを探してフリーザーバッグごと葉を突っ込んだ。そのままだと倒れるので、壁際に置いて葉を寄り掛からせる。
手を洗い椅子を引き寄せ腰を落ち着けると、ルークがスタッキンググラスに注いだジンジャーエールを渡してくる。ついでに自分の分を注いだのか、テーブルを挟んで向かい側に座り、興奮した様子でトレイに話しかけてきた。
「トレイくんはエデンの秘密の薬でトんで来たんだろう?」
「内容は合ってるが、人聞きが悪い言い方は止めてくれ。なんなんだ?このふざけた凄い魔法薬。ルークは何か知ってるのか?」
「残念ながら何も知らない。1度でいいからテイスティングしたいんだが許してくれないんだ。あの転移薬は企業秘密というやつだね」
「何のためにこんな規格外なものを作ったんだ……」
ようやく口の中から匂いが取り払われて、鼻で息をする。
ふとルークを見れば、何か思い当たる節があるのか、どこか恍惚とした表情で笑っていた。
「マーベラス……!やはり、昨年寮長候補となっただけのことはあるね、エデン……」
「ルーク、やっぱり何か知ってるだろう」
「はは、薬の調合内容じゃないさ。誕生秘話をね」
「なんだ?」
「薔薇の騎士には教えようか。それは────……、」
サイエンス部でエデンの転移薬の話が上がった、その日。
作り出した張本人は部活後にこそこそと寮の談話室を横切るところであった。普段から小さな足音を、更に抑えて足早に歩く。
談話室から廊下に出た瞬間、人にぶつかりそうになってたたらを踏んだ。
「っ!あ、ごめんね、急いでい、て……あ」
「こちらこそ。って、エデン、」
「ご、ご機嫌好う、ヴィル。じゃあ、俺はこれで」
随分慌てた様子でヴィルの横を通ろうとすると、肘あたりを思い切り掴まれた。
「待ちなさい。アンタ、最近はその姿を見ないと思っていたけれど、またそんなボサボサのヨレヨレでここまで来たって言うの?!」
「その、今日はメンテナンスが長引いて、少しは払ったり洗ったりしたのだけれど」
エデンは掴まれていない方の手をわたわたと動かして弁明を試みるが、残念ながらこの作業後の汚さについては同室時代に全て論破されている。
「今だけ手を止めなさい。貸して」
「ああ、リドルみたいなことを言う……」
「あの子と比べないでちょうだい。……はぁ、またこんなに爪の間まで泥々にして、髪も埃っぽい。首まで覆うインナーを着なさい、って言っておかなかったかしら?首にみみず腫れが出来てるわ、小枝で引っ掻いたのね?」
「お、恐らく……」
制服を着たヴィルは帰って来たばかりなのだろうか。その整った清潔感とは対極のような姿のエデンの手を取る。くるくると手のひらと甲を見比べてから、ミレイが部活終わりに下ろしていた髪を片手でざっくりまとめて持ち上げた。
彼が転移薬を作ったのは、こうやってヴィルに見つかるとチェックが始まってしまうからだ。
誰にも言っていないが、あの転移薬はエデンが使ったときに限り寮も含めて移動が自由。いつもはそうやって、直接部屋に戻ってシャワーを浴びてしまうようにしていた。
「他に怪我は?」
「無いよ、大丈夫」
「良かった。これからも気を付けなさい」
「Yes . ありがとう、ヴィル」
心底安心して、はあ、と溜め息を吐いたヴィルを、罰が悪そうに見上げる。
「必ずよ、もうあんな思いはごめんだわ」
汚れた手で、控えめにヴィルの手を握り返した。
そもそも、ヴィル・シェーンハイトがこうやってエデンのチェックをするようになった原因は植物部にあったから。
────1年生の時。
その日の植物部は説明や注意と、担当エリア決め程度で終わる予定だったので軽装でも問題なく、制服姿の者も居た。だが、巨大な植物園内をほぼ自由に歩ける事に大いに興奮した同級生が、エデンにぶつかって事故が起こる。
倒れ込んだ先に、特殊な分泌液を出す草花が群生していたのだ。
半袖半ズボンの運動着だったために、露出していた肌のほとんどが赤黒く錆びた様な炎症を起こしてしまう。
保健医と当時のポムフィオーレ寮長の尽力もあり、綺麗に元のように治ったが、同室だったヴィルとしては、あまりにも悪い記憶。
入学初日、発表された同室者の内の1人は白く輝くロングヘアと黒い大きめの瞳を持っていて、穏やかな笑顔の綺麗な子。
それはもう、ヴィルは安心もしたし喜んだ。
自分の容姿には清潔感があればいい、と思っている無頓着なエデンを、自分の思う通りに磨いてやると思った、その矢先。
事故を聞き付けて保険室に駆け込めば、髪と相まって絵本の登場人物のようにメルヘンな雰囲気を醸し出す白い肌を、手足や顔に至るまで殆どを赤黒くして死んだように横たわっていて、酷い目眩が襲って来たのをヴィルは覚えている。
自室での療養に移った後も、夜中でさえ痛そうに呻くのが見ていられなかったし、登校できるようになってからも、心ない輩はエデンを嘲笑う。
あんな、はらわたが煮え繰り返るような思いはしたくない。
そうやって、ヴィルは植物園から戻ってくるエデンの身嗜みと共に、怪我が無いかを見るようになった。
「あ……、ヴィル、どこかに行くのではなかった?」
「エデンが戻るのが遅いって、バートから連絡が来たの。それで、1度部屋に戻ってから出てきたところよ」
「もうそんな時間?少し集中しすぎたみたいだ。すぐ部屋に戻るよ」
「全く、もう……」
長引いたと言うが、亜熱帯ゾーンの手入れもしてきていた。亜熱帯植物ももっと触りたい!と担当者に交渉して、メンテナンスに担当者が参加しないときはエデンが一部を代行している。
「夕食は?」
「これからよ」
「じゃあバートと、アレックスも誘って、久し振りに元同室4人でどう?」
1年時の同室、アレックスとバーソロミュー。
時折トラブルで部屋変更したりするところもあるが、この4人は比較的穏やかに1年間を過ごせたルームメンバーだった。
「いいわよ。4人で食べたいなら、シャワー浴びて来なさい。2人には声をかけておくわ」
「ありがとう!じゃあ、急がないと。アレックスが騒ぎ出すよね」
とんっと駆け出した後ろ姿を、相変わらず足が早いんだから、きっと直ぐね、と思い見送る。
「ヴィル!手、念入りに洗って!危ないから!」
「っな、何を触ってきたのよ!」
寮長とその友人の声を廊下に響かせながら、ポムフィオーレの夕方は、意外と賑やかに過ぎていくのだった。
continue.
pixiv.2020年9月10日