本の匂いが好きだ。
刷り上がったばかりの、インクの香りと紙の匂いが混ざったところに糊の細やかなスパイスが載った上製本。
しばらく自室に置いてあったであろう、どこか人の雰囲気を臭わせるペーパーバック。
小口が狐色に染まった、表紙の角が擦れて白くぽそぽそと輝く、落ち着いた匂いの文庫本。
子供の頃から本の匂いが好きだった。だから
深呼吸と共に鼻の奥に染み込む、膨大な量の本の匂い。喉の奥のあたりで滲むように溶けていく匂いに懐かしさを覚えながら、志賀はふむ、と腕を組む。
そう言うが、目の前の司書は司書をしている。いや、その前にアルケミストとかいうやつだったはずだ。
つい三週間ほど前、目を開いた志賀の前に、この男は立っていた。
この図書館で言うところの『転生』をしたのだ。
仏教で言うところの転生とはまた違うのだが、それをさせたのはアルケミストである自分だと、そういうような自己紹介をしている。
「不思議そうな顔してますね。先生。」
「まぁなぁ。」
「おおよそ『お前は司書なのかアルケミストなのか、はたまた造本家なのか?』でしょうが、俺は司書の仕事はまだまだ半人前ですよ。ここに来たのは前の冬ですし。かといって錬金術師として練熟している訳でもないんですが。」
そうするとおおよそ一年ほどか。
今はもう窓の外に梅が咲き始めていて、貸し出しカウンターの隅には折り紙で作った雛人形が座っている時分である。
その内にキッズスペースで読み聞かせ会があるだろうから、終わった日には子供たちの作品もそこに加わるはずだ。
「そうか?それにしては、慣れているみたいだが。」
本を並べたカートを静かに押しながら、返却図書を戻していくところを眺めていると、それは随分と慣れた様子。迷うことなく淀みなく歩いている。
返却図書をカウンターの所で積んで出発した後、順番に戻し続けてもう残りは半分になっていた。途中で閉架に移すものも、指定されたメモ通りに拾っている。
この図書館はあまりに広いので、まだ終わらなそうではあるが。
「ああ、記憶力だけはそこそこ良いんですよ。十進分類法とか最初は戸惑いましたけど、まあ所詮、こっちはたまに手伝う程度ですし。」
「そういうもんか?」
志賀が呟きながら向けた視線の先に、すぐ隣の棚に戻す本を見つけて、横から取れば静かな咎めが返ってきた。
「志賀先生。」
「怒るなよ。ついでだ、ついで。」
「はあ、……。ありがとうございます。」
にっと口の端を釣り上げた志賀を、不機嫌そうな顔で見やる。数日前、最初に手伝おうとした時にこの司書が、「先生方の仕事じゃありませんから。」と断ってきたのを志賀はよく覚えている。
今の志賀達の仕事は文学を守る事。
そういう心積もりがあっての発言だろう。
必ず「先生」と敬称を付けて呼び、敬語で喋る癖に、先程の様に感情を隠さない仕草などは気安く、親しみのある司書であると思う。
見た目の年齢で言えば、普通の大学生や新社会人に見える。
開架に来る女学生には、どうやらそこそこに人気があるらしい。だがその隣には助手筆頭の織田作之助や小泉八雲がいて、九割九分九厘そちらの方が大人気だった。
その様子を徳田から聞いた白樺派三名が、苦笑いで顔を見合わせたのも記憶に新しいところだ。なんとも不憫。
一方、中身の方に特段聡明な様子は無く、どちらかと言えば志賀達、転生してきた文豪へ色々と質問してくる事も多い。本人曰く学校の成績は中の中。
文士たちの間柄や著作については大まかに知っている程度。
ただ特異なのはその著作が今、どこの出版社で第何刷まで出ていて、大体何ページあるかは覚えている。知識に大幅な偏りがある、そういう男だ。
「そうだ、志賀先生。小林先生にはお会いしましたか。」
「あぁ、ここに来てすぐ位か?武者に引っ張られて会いに行ったぞ。会うまではこの矢鱈と華やかな見た目だとか、違和感があったけどな。やっぱり、また会えて嬉しいもんだな。」
カートの下の段に入れていた本を上に移動させている司書を、棚板に寄りかかって眺める。
「良かった。小林先生や武者先生から親交があったとお聞きしていたので。じゃあ、読まれましたか?」
「何をだ?」
「小林先生の新作です。」
「……読んでねぇな。」
「そうなんですか。まあ、小林先生の事ですから、十中八九気を使ったんでしょう。見て頂きたいけれど来たばかりなので疲れているだろう、とか何とかで。」
小林多喜二はこの司書が司書と成って、一週間ほど経った所に転生をした。
警戒心が強く、初めはどうなることかと少し心配をしていたが、彼は確かな意志と誠実さを持った青年であった。
月日を経る内に物を書く余裕が出てきて、その頃にはすでに転生してしばらく経っていた武者小路に自作を見て貰っていたようだった。
「遠慮すんなって言ってるんだけどな。」
彼らしい実直さが好ましいところではあるが、なかなかもどかしいこともあるらしい。
呆れ顔でぐしゃぐしゃと髪を混ぜた志賀は踵を反す。もともとは司書に用があって声を掛けて、そのまま成り行きで話ながら共に歩いていただけで、一先ずの用事は無くなっていた。
もしかしたら、読まれたくなくて声をかけて来なかったのかも知れないな、などと司書の頭に一瞬良くない思いが
一番初めに作った拙い製本を、師匠に見せるのを全力で渋った司書とは違うのだ。
当然だがこっぴどく駄目出しとお説教を食らった。
苦い思い出を振り返っているうちに、ふと、思い当たる。
「最初の読者になって欲しいのかもしれませんよ。」
「ん?読者って、」
歩きはじめていた志賀は上半身だけで振り返る。
「はい。小林多喜二先生の新作、午後に製本します。」
「司書サン、」
低く、静かな声で囁いた。
「はい。」
「な、なんで直哉サンがここに……?」
「俺が、まぁ、誘ったからですかね。気持ち半分くらい。」
「気持ち半分って……?」
昼食を食べて、休憩を挟んだ午後一時半。
司書室の隣に作った製本工房に、小林と連れ立って向かえば、扉の前に志賀が腕を組んで壁にもたれ掛かっていた。
その姿が驚くほど絵になる男である。
転生した文士には須く当て嵌まる賛辞かもしれない。モデルか、と考える司書の後ろには同じように絵になる男が居るのだが。
だが、志賀を師と仰ぐ彼は、姿に気付いた途端に、司書の肩甲骨辺りの服をがしりと掴んでいた。
司書の黒いバンドカラーのシャツが引き攣る。逃がしまいとしているようだった。
「おー、多喜二!面白いことやるみたいだな?」
「え?あの、その、」
ぎゅううう、と背中の手が力を増したのが衣擦れでわかる。
後ろにぐっ、と引っ張られて、そろそろ前の釦が景気よく弾け飛びそうである。
小林はもう長い事第一会派に所属しているので、色々推し量って欲しい。人間だって、転生した文豪だって、どれだけインドアでも鍛えれば強くなるものなのだ。
余談だが、司書がそれを実感したのは仕事が立て込んで徹夜三日目の時。
一番最初に図書館に来た文士に「いい加減に眠りなよ!」とベッドへ引きずり倒された時である。司書は彼より上背もあるし抵抗もしたのだが、有無を言わさず引きずられ、おまけに鋭いデコピンまでお見舞いして去っていった。
戯れでやるような甘っちょろいデコピンでは無かった。
弊館一の弓使いがその握力でもって全力でブチかましてきたのだ。痛みと眠気が司書の中で正面衝突して、気絶するように眠ったのを思い返すと、今でも背筋が寒い。
閑話休題。
「隠してたからって意地悪なこと言わないでください、志賀先生。」
「これくらいは許してくれよ、
実は元々、なかなか来ない志賀に焦れた武者小路が「もう、待たずに製本しちゃいましょう!まったく、遅いんだから」と言い出したのが今回の製本だったりするのだが。まあ、言っている本人は悪気は無いであろう。
転生に関しては、司書の力量が大きく係わる訳なのだから。
「す、すみません、直哉サン、来たばかりで疲れてるかと思ったので……。」
「ですよねえ。」
「やっぱりな。」
「え?」
転生したからと言って、旧知に引き合わせたりだとかはしていない司書だったが、こんな感じで小さなすれ違いが起きているのを見ると、気を使いたくなってしまって困る。
司書には知識が足りていないので、下手をすれば、引き合わせちゃいけない類の旧知を会わせてしまう。だから、そういう紹介はやっていないのだ。そうなってしまってはもう、有難迷惑でしかないだろうから。
全く、師匠心、弟子知らず。
そんなことを思いながら、司書は製本工房部屋の鍵を回した。
ここは開架から比較的に近いし、裁断機も置いているから安全を考えていつもは施錠している。
開けたとたんに糊とインクの匂いが香って来た。
「どうぞ、お入りください。椅子は作業椅子しかないんですけど。」
そう言ってはみるが、二人ともそこかしこに置いてある紙の見本の束やら道具達に興味があるようで、今は見向きもしていない。
並べて置かれた濃い灰色の丸い座面の回転椅子は、「きい」と鳴いて静かになった。
「始めましょうか。」
その小さな呟きを聞きとって、小林が二畳分もある大きさの作業台に一歩近づいた。こつ、と台の脚にブーツの爪先がぶつかる。
目の前で自分の本が出来上がるのだから、作家にとっては多少は面白いものなのかも知れない。柘榴のような瞳の色が、いつもより明るく輝いて見える。
「お、薄いな。短編か?」
「はい。短編を三つ。」
言いながら椅子を二つとも引きずり寄せてきて、小林の隣に落ち着いた。少し慌てた様子で椅子を引き取って座る小林を横眼で見ながら、志賀に顔を向ける。
「こちらは試作ですけど、見ますか?」
「いいのか?」
机の端に無造作に置いてあった見本を志賀に手渡す。小林が小さく「まだ読んじゃダメですよ」だなんて言っているが、パラパラめくる程度なら良いらしい。
志賀は少し笑って受け取ると、タイトルが印刷された固い表紙をするりと撫でた。開いて、右手の親指で本文紙を弾く。
「へぇ、こうなんのか。……ん?ここ、」
薄い水色と朱色の罫線。
小林が使っているノートによく似た紙が一緒に綴じてあった。
もう一度、心持ちゆっくりと捲れば、やはり何ページかはそうなっていた。そこに、小林の文字で何やら色々書き付けてある。
文字列は罫線に反して斜めになっていたり、ぐちゃぐちゃ塗りつぶしてあったりする。検閲で黒くなったあの頃の文章が思い出されて、腹の底から気管を這い上がってくるゾワリとした感覚がしたが、これは多喜二が推敲した跡だと気付けば、心は穏やかに凪いだ。
「今回は《小林多喜二の草稿ノート》のような感じで製本するんですよ。」
言いながら、司書は小さな赤い携帯ラジオの電源を入れて、作業台の下の小さなフックに吊り下げた。
少しざらついた音が混じりながら、どこかで聴いたジャズが流れ始める。
「草稿ノート?」
ふと見れば、小説本なのにページの角が丸く切り落とされている。
「これはここに来てから書いたものなので、司書サンに最初にもらったノートのようにしてみたいって、相談したんです。」
そう言った彼は、コートの内ポケットから、志賀の手の中の本とそっくりなノートを取りだした。
この司書は転生した文士に、まず筆記具を色々試させる。
筆、万年筆、鉛筆、ボールペン、シャープペンシル、その他諸々。
筆記具が決まれば、次は紙。料紙から原稿用紙、わら半紙なんかもずらりと置いてあるところへ、選んだ筆記具で自由に書き付けて、好きな紙を選ぶ。
すると、だいたい三日後位に、その文士のための筆記具とノート、もしくは紙の束が贈られる。
「ちょっとした記念品です。」
そう言って渡してくるのだ。
もちろん、選んだ紙に原稿用の罫線を引いて欲しいと言えば引いてくれるし、また欲しいと言えば大抵二〜三日の内に「はい、どうぞ」と、軽い調子でぽん、と手渡される。
その流れで小林は、太めの油性インクボールペンと、クリーム色に近い嵩高の紙を選んだ。それはA5版より少し幅がない縦長のノートに仕立てられて、いつもポケットに入っている。
「表紙の固い、測量用の手帳に似た装丁が良いかと思ったんで、そういったものにしたんですが、気に入ってもらえたようで安心してます。」
「どこでも書けて重宝してる。ボールペン、これも使いやすいよ。」
「ありがとうございます。ま、そんな希望がありましたので、その形なんです。」
志賀は艶の無い表紙をまた親指で撫でながら、納得したように微笑んだ。
「いい本になりそうだな。後は組み立てるだけだろ?」
「そうですね。ですが折角なので表紙と同じ紙で栞も作ります。今日、小林先生をお呼びしたのは栞のためでして。」
足元にある棚の引き出しを引き抜いて、作業台の上に置いた。中は色ごとにボール紙に巻き付けられた糸やリボンが詰まっている。
「小林先生、好きな色、選んでください。栞の紐にしますので。」
「え、司書サンが選んでくれるんじゃないのか?」
「最初に作る本は必ず希望を一つお聞きしているんです。どんなに装丁に興味が無い方にも。折角ですし、志賀先生と選んでみてはどうでしょうか。ゆっくり選んでいいですよ。」
司書は表紙に使った紙の一部を置いて、そう言い残すと作業に入ってしまった。
数秒間、ラジオのパーソナリティーの声と司書が作業する音だけが工房に流れる。
「あの、直哉サン、」
「おう。」
「選んでもらっても、いいですか?こういうことには少し自信が無いので……。」
元より断るつもりなど無いが、控えめな声で頼まれてしまっては、志賀の選択肢は一つに限られる。
「しゃーねぇな!お前の新作に一番似合うやつ、選んでやるよ。」
綴じ終わった本の上に、私物の分厚い植物図鑑や辞書を五冊ほど重ねて置く。これで完成まであと一息。
部屋に一つだけある小窓の外を見れば、陽は傾き始めて、夕焼けまであと少しといったところ。
司書が二人を探して工房を見回せば、右後ろの棚の近くに椅子を置いて、何やらぼそぼそ話し込んでいる。気を使って声を抑えてくれているようだった。
糸は選び終わったらしく、引き出しは棚に戻されている。
「何か、気になる布がありましたか。」
ローラーの付いた作業椅子で、ゴロゴロゴロと滑って近づいた。
小林の膝に置かれている布地の見本帳を見てそう声をかければ、楽しげな声が返ってくる。
「このモダン柄、好みなんだが、他のもんに仕立てられないか?」
「うーん、やった事が無いので何とも。問屋の見本帳なので、取り寄せるには問題無いとは思いますが、志賀先生って裁縫できるんですか?」
「どこか腕の良い仕立屋に持って行くさ。」
「それなら、秋声サンが贔屓にしてる生地屋が良いみたいですよ。」
「ああ、そういえばこの間、小泉先生が帽子作ってたのもその店ですね。」
いつだっただろうか。
そわそわした様子で外出許可を取りに来たものだから、何かあるのだろうかと思っていたら、その店で注文した帽子を被って帰ってきた。大変満足そうにしていたし、いいものが出来上がったのだろう。
「お、じゃあ決まりだな。これ、注文していいか?」
「良いですけど、その店にも在庫であるかもしれませんよ。一度行かれたら良いんじゃないですか?きっと、作れるものと受け付けて無いものと、あるでしょうし。」
「あー。それはそうだな。今度の休みに出かけて来る。後で許可取りに来るな。」
「はい、お待ちしてます。その際にこの見本帳お貸ししますよ。有った方が店員に話が通りやすいでしょうから。」
外出許可、なんて大げさに言ってはいるが、実際は出掛ける直前に言いに行っても全く問題ない。どこに行って何時に帰ります、なんて子供の様な事を言わなければならない訳でもなく、その日、図書館に居るか居ないかを把握するための連絡義務である。
「そういえば司書サン、出来上がったの?」
「今、重石乗せてますのであと少しです。」
本自体はこれで作業は終わりだ。後は栞を作って挟んでいくだけなので、週末の今頃には問題なく読めるだろう。
「糸はどれにしましたか?」
「これで。表紙が紺色だし似合うだろうって、直哉サンが。」
小林の大きく骨張った手の内で転がったのは、深く落ち着いた赤色のリボンだった。確かに馴染み良く似合うだろう。
「良い色ですね。では、本を渡す際に一緒に栞挟んでおきますから、良ければ使ってください。」
「ああ、ありがとう。」
「楽しみだな、多喜二。」
「はい、本当に。」
「楽しみにしていただけて何よりです。さて、小林先生、」
「何だ?」
「作者印は、どこに捺しますか?」
はた、と小林の動きが止まる。
筆者の名前なんてものは、普通は初めから印刷されている物だ。だが、ここで作る本は転生文豪が書き上げた本である。
おいそれと名前を刻めないのが現状だった。
ただ、それでは表現者としての彼等に失礼であるから、どうにかできないかと政府に訴えてみたが結果は散々。手の打ちようを考えに考えて政府との折り合いも付いたのが、後から作者名の印鑑を捺す、という方法である。
「どうしようかな……。直哉サン、見本、借りてもいいですか?」
「おう。悪い、ずっと持ってたな。」
「いえ、ありがとうございます。うーん、他の人はどこに捺したのかな。」
試作を広げてめくり始める。小林の手に良く馴染むサイズに作られたそれは、指に摘ままれて、しゃく、しゃく、と擦れる音を立てた。
「今までは拘らない方ばかりでしたから、題の下とか、発行年月日の上とか、そんなところに捺しましたよ。」
「そこが無難だろうな。つーか、開架にもう置いてある物は、印が無かった気がするんだが?」
「開架に置くのは捺しませんよ。混乱の元に成りますから。」
「開架のは?……名前捺すやつと無記名のは何か、差があるのか?」
「はい。ありますよ。例えば、」
今回製本したのは十冊。
印を捺すのは八冊。あとの二冊は無記名になる。
無記名の二冊と印がある一冊は、この図書館の蔵書にする規定になっていた。司書がここで造本する事に許可を与えるのと引換に、提示された条件だ。
その内、無記名の一冊は開架に置かれ、貸出は禁止だが一般市民にも読めるようになっている。
表向きは《文学愛好サークルの同人誌》ということにしてあるが、鋭い読者は「いやあ、文体があの文豪に似ていてね、この作家のファンなんだよ、作家の名前は教えてくれないのかい?」なんて聞いてくる。
すこぶる心臓に悪い。
この規定を言い渡された時にいた最初の二人、徳田と織田は、読んでもらえるのなら構わないと理解を示してくれた。
「いいよ、事情は理解しているつもりだからね」「ま、しゃーないわ」と言った声は、少し残念そうではあったが。
そして三冊は作家へ献本。自分で保管してもいいし、特務司書側の図書館の関係者であれば、誰かへ贈ってもいい。
次の三冊は、通称《錬金術師(アルケミスト)の本屋(ほんや)》で販売。つまり、司書が司書室で売るのだ。
そして最後の一冊は司書が装丁見本として保管。
「なので、印は分かりやすいところでも分かりにくいところでも、どちらでも構わないんですよ。」
「へぇ、じゃあ章のど真ん中でも良いわけだ。」
「いや、えぇ、まぁ、良いですけど。」
いきなり章の途中にど真ん中に入ってたら、不味いでしょう。という司書に、志賀はさも可笑しそうに笑う。
彼自身が製本する時には、そうはしないだろうが、変わった事が好きな性質(たち)の文士には気を付けなければ。
「司書サン。」
「はい、決まりましたか?」
「ああ、ここに捺して欲しいんだ。」
小林が指差したのは、裏表紙から開いてすぐのところ。本文と表紙を繋ぐための別紙を《見返し》と言うが、その見返しが表紙に糊付けされた側、所謂《きき紙》の下の方だった。
比較的目立たないところである。図書館では大体、こういったところに寄贈印などが捺してある事が多いだろうか。
「ここですね。インクは何色に?」
着ていた深緑色のエプロンから、マスキングテープと油性ペンを取り出す。小林が指差したところに、五センチほど切って貼って、上からペンで「NAME」と書いた。
「他の色は何がある?」
「朱色と赤、青と、緑、紺、桃色、黒、橙……とか、結構色々ありますよ。」
「じゃあ、表紙と揃いにしようかな。」
「わかりました。」
今度は大きなポケットから、カレンダーを切って作ったメモ用紙を取り出した。そうして作業台の下からインクパッドの詰まった引出しをパカパカ開けて、「あれ?紺色どこだっけかな……」などと呟いている。
「あ、あった。」
今度は身を翻して、壁際の棚にある救急箱のような鍵つきの箱から、手のひら大のものを取り出した。
「それは?」
「小林先生の、ここでの作家印ですよ。今度、志賀先生にも希望を聞きますから考えておいてくださいね。」
「考えるって何をだ?」
「持ち手の木とか石とかですかね。」
「木とか?」
別にそれは適当でいいんだが、と呻く志賀を見て、小林は楽しそうにしている。こういった事に拘る文士はむしろ、持ち手の素材を選べる事に喜ぶのだが。
「よっ。こんな色です。もう少し落ち着きますが、どうでしょう。」
試しに捺したメモ用紙を小林に渡して、紺色のパッドと印は押し潰されている本の近くに揃えた。
紙の上には、小林の筆跡そのままの形でインクが乗っている。まだ乾かないインクが文字の端々で艶々していた。
「うん、良いんじゃないかな。」
「ありがとうございます。じゃあ、これで終わりです。今週末くらいに献本分をお届けしますが、届け先は部屋で良いですか?」
「いや、取りに来るよ。夕食後は予定も無いから。」
「そうですか?」
ではお言葉に甘えよう、としたところで志賀から声がかかった。
「そう言や、司書のところで買えるんだろ?」
「はい。販売は今度の日曜日を予定してます。後で正式に、食堂掲示板にお知らせを出しますよ。」
「じゃあ、買いに行くから取り置いといてくれ。」
「はい、分かりま、し?ん?」
「っな、何を言うんですか、直哉サンには献本分からお渡します!」
「なんだよ、結局は読むんだから買おうが貰おうが一緒だろ?だったら休日一日くらい、得した方が良いじゃねぇか。」
《錬金術師の本屋》はお金が通貨ではない。
本一冊につき、休日一日。つまり買った側が、買った本の作者の仕事を一日肩代わりするのだ。
仕事のスケジュールは司書が管理しているため、その一日にどんな仕事が来るか分からない。有魂書もしくは有碍書への潜書だったり、中庭の落ち葉掃除だったり、買い出しの手伝いだったりと、内容は様々だ。
「まぁ、作家側がそう言うんですから、志賀先生は貰ってはどうですか?小林先生だって、直接先生から書評とか貰いたいでしょうし。」
そう言う司書にハッとして、小林はこくこくと必死に頷く。きゅっと引き結ばれた口許に「迷惑じゃないだろうか」という遠慮がちな内心が滲んだ。
それを見て、司書は小林の勝利を確信する。
小林多喜二というこの人物は、ツンとした野生の猫のような見た目をしていてその実、心を開いた人物に対してはまるで大人しい大型犬のような雰囲気を醸し出すのだ。
それは目の前の、何かとお兄ちゃん気質な人物には効果抜群なのだと、ここ二週間ほどで実感していた。
「分かったよ、じゃ、後で貰うからな。」
「はい。」
嬉しそうな小林を横目に、軽く溜め息を吐く志賀はやはり、満更でも無さそうだ。
よしよし良好、と司書は内心頷いて、ぱん!と手を叩く。
「さて、では夕食までゆっくりお過ごしください。」
「ああ、ありがとう司書サン。」
「いえいえ、俺の趣味でもありますから、お付き合い頂いて感謝しています。」
「こっちに取っちゃ、有り難い趣味だな。」
「そうですね。」
最後に、重石の下の本をちらりと見て、二人は工房を出た。
さて、完成まで後少し。今回使った紙の残りを、紙用の大きな引き出しからしゅるりと抜き取ってカッターマットの上に置く。
司書は完全に《司書》を捨てて造本家として、作業台に向かうのだった。
continue.