報せの春


今日、丁度菜の花が咲き始めた。
三寒四温といったところで、まだ肌寒い日が続いているが、硝子戸のところなんかは絶好の昼寝場所になっている。
そんな春の日に、国木田独歩はやって来たのだった。
 輝くエメラルドの瞳と明るく濃い桃色の髪。爽やかな空気を含んで跳ねているのを見て、「すごい、すごく春ですね。」と司書が呟いたのを徳田は思い出している。
 そんな春の化身の新人に館内を案内しているところだ。
 茶を淹れて食堂の一角に腰を下ろすと、向かいに座った彼の髪が見回す目線を追いかけて動くので、新しい日常に立たされた心境を物語る様だった。
「いや、広いな此処。」
「うん、そうだね。僕たちの活動範囲を中心に案内したけど、疲れただろう?」
 明るい声で話す国木田は、口の片端をきゅっと上げて考える。
「ん〜、ちょっとな。」
「司書さんの所で自室の鍵を貰えるから、そうしたらゆっくり休むといいよ。」
「ああ、そうする。」
 此方こちら側の図書館を一通り案内して、あとは一般開架の職員に紹介をしてから部屋の鍵を受け取れば、国木田の初日は終わりの予定だ。向こう二日は休み。
 転生していきなり色々な顔を見て、様々な思いがあるだろう、そういう理由から司書が取り決めた事だった。
 「急な変化に耐えられる方もいますが、大抵人は「大丈夫」と思っていても案外体が付いていかない事がありますし。どちらかが良くないと引き摺られますよね。」と、心と体の離反を説く司書の前で、菊池が一瞬、どこかを見るようなぼんやりとした表情をしていた。
 “人間の身体”が今の体に適応するかは、研究資料が未だ無いので分からないが、それでも心があるのだから、という方針である。

「なぁ秋声、あれ、何だ?」
「え?」
 食堂の片隅、献立や予定表が貼り付けてある黒板の前に、新美と宮沢が揃って立っていて、貼り付けられたわら半紙を見ながら何やらきゃらきゃらと話している。
「ああ、あれね、新聞。」
「新聞!」
「館内の情報が半面分くらい。あと、外の目新しい情報がもう反面てところかな。後で鍵と一緒に貰うといいよ。」
「貰えるのか!記事は誰が書いてるんだ?」
 より一層輝いた顔を、徳田は眩しいものを見るような心地で眺めた。
 実質、国木田はこの図書館へ転生して来るものの例に漏れず、華やかで美しい顔をしている。目元に少し、気が強く男っぽい色気が乗っていて、徳田の卑屈は心中で感嘆の溜息を吐いたのだった。
「外の情報は司書さんが書いてるよ。と言っても、外の新聞からの抜粋だったり纏めた物だけれど。館内情報は大体島崎、あとは連載をしている人が何人かいるね。」
「ほ〜う?じゃあ、ちょっくらお手並み拝見!」
 そう言って、国木田は新美達の方へ寄っていく。
 二人と挨拶をして、少し屈みながら新聞を読む国木田の横顔は楽しそうであり真剣である。両隣からあれこれと捕捉をしていく宮沢と新美に相槌を打ち、どうやら本格的に興味が湧いたようだ。

「国木田、」
 一頻ひとしきりそんな三人を見ていたが、そろそろ一般開架の方に行かなければ。
 そんなに声を張らずとも、この時間の人が疎らな食堂ではどうやら彼には届いたようで、屈んだ姿勢のまま顔だけ徳田の方に向けてきた。
「次、行くよ。」
「おう。」
 こちらに来るのを見計らって徳田は茶を飲み干して、席を立ったのだった。



「いや、まさか泣かれてしまうとは。」
「お疲れ様。あの司書さんは、なんというか、その、新しく来る誰に対しても熱狂的で。」
「それは身を以て感じたぜ……。」
 一般職員をまとめる女性の司書には、何か不測の事態が起こった時のため、転生する度に毎回紹介することになっている。
 新しい文豪に会う度に、彼女は意味の付かないようなうめき声を上げたり、静かに悲鳴を上げたり色々なのだが、今回は泣く回であったらしい。
 中島敦以来、2度目の号泣シアター開幕である。
「こっちの司書より個性が強いな。驚いた。」
「うん、こっちの司書さんも司書さんだけど、否定はしないよ。」
 国木田が自己紹介をした途端、じわじわ目を見開き、そのまま「ど、どっぽさんんんん〜」と言ってボロボロと泣き出した。思わず声を抑えるのも忘れて「え、いや、なんでだ!?」と言ってしまった国木田である。思いの外、事務室に声が響いてしまい気不味い思いをしたが、初対面で泣かれるなんて早々無い出来事で、かなり驚いたので許してほしい。
話を聞けば、彼女は幼い頃から筋金入りの本の虫だったらしく、ジャンルを問わず膨大な量を読み、研究し、作者の生涯や交友関係まで把握している人物だった。
時折、特務司書が文豪の交友関係について話を聞きに行くほどである。
「気を取り直して鍵と新聞だね。基本はさっき説明した通りだけど、新聞は例外だから。」
「一冊買うと作者に一日休みが行く、こっちに一日仕事が来るってやつか?」
「そう。錬金術師の本屋で唯一、無償配布してるのが新聞。」
 栞とかブックカバーも貰えるけれどね、読み物は新聞だけだよ。そう言いながら、徳田は司書室の扉の前で止まる。ノックをすれば、暫くの後に扉が開いた。
「ハイハ〜イ!お待ちど〜デス。おや、案内は終わりマシタか?」
 扉を開けたのは小泉であった。大半、この小泉か織田が助手をしているので、今日は織田が休暇をとっているのだろう。
「はい、司書さんいますか?」
「イイエ、お留守デス。今丁度、隣デスよ。ルームキーは司書殿が持っていますカラ、すーぐ貰えマス!」
「分かりました。あと、新聞一枚貰えますか?」
「お安いゴヨウ!」
 パッと扉を放して踵を返してしまうので、国木田は徳田の後ろから慌てて足で押さえる。ごす、と靴に当たる音がした。
「あれ、ありがとう。」
「秋声お前、普通に激突したら倒れるぞ?」
「な、そんなに柔じゃないよ!」
 確かに司書室の扉はそれなりに遮音する重い木を使っているが、いくら徳田が小柄だと言っても、当たってドミノの様に倒れる事はない。振り返れば国木田は楽しそうに笑っていた。
 彼は早くに儚くなってしまったから、この幻影のような新しい生が楽しみなのだろう、浮き足立っているのだ。そう思うと二の句が告げず、徳田は口元をもごもご動かすだけに留まった。
「ハイ、どうぞ。お楽しみアレ!」
 大きな紙を四つに折ったものを国木田に手渡すと、では、私はお留守番デスので!と言って、手を振りながら彼は司書室に戻った。
「隣ってなんだ?」
「あれ?言い忘れたかな?隣は司書さんの工房だよ。」
「本を作るための、か?」
「うん。錬金術の研究とか実験もしているみたいだけれど、そっちは主に司書室でやっているよ。」
 歩いて数秒のところに在る隣のドアをもう一度ノックすれば、司書が顔を出した。
「ああ、徳田先生。終わったんですね、ありがとうございます。」
「どういたしまして。国木田の部屋は出来ているかい?」
「出来ていますよ。あ、どうぞお入りください。疲れましたよね。少し、お茶でもどうですか?今日は大分暖かいですし、喉が渇いたでしょう。」
「お言葉に甘えるよ。国木田は?」
「貰っていいか、あの司書、ちょっと強烈で喉乾いたんだ。」
「ああ、それは、お疲れさまです。」
 はた、と気まずそうな顔をして、司書は二人を招き入れた。丸い座面の回転椅子を作業台の脇に置いて勧めると、彼は引き戸の奥の小さなキッチンへ向かう。
「丁度レモンソーダモドキも出来てますけど、ほうじ茶とコーヒーと、どれがいいですか?」
「君、またモドキを作ったのかい?僕はほうじ茶。」
「モドキって何だ?」
「簡単な実験です。」
 水とクエン酸、炭酸水素ナトリウムを混ぜると起こる化学反応で作った炭酸水を、司書があれこれとアレンジしたものだ。「実験に疲れたので何か実験がしたい。」と言い出して作り上げた代物だが、「え、ちょお、何言うとるん?」と突っ込みを入れた織田が懐かしい。
「じゃあ折角だからモドキをくれ。」
「はい、少々お待ちください。」
 小さな冷蔵庫を開いてあれこれし始めたのを見て、国木田は作業台に新聞を広げた。
 繊維が分かりやすく、ざらつきのある薄い紙は普通の新聞より少し灰色が濃い気がする。飾り気もひねりもない『図書館新聞』の題字。その下の発行年月日。
「お、これ結構発行してるんだな。」
「まぁ、それなりにね。一週間か二週間に一度、ってくらいの頻度だよ。」
「連載陣を取り纏めてんのは?島崎か?」
「まさか。菊池さん、菊池寛がやってるよ。……うーん、国木田はもしかしたら、知らない、かな。」
 徳田はその朧な記憶の中でも菊池を知っていたし、向こうも徳田を覚えていたのだが、国木田は彼を知っているだろうか?結構な年の差があるはずだから、菊池が国木田を知っていても、逆は無いかもしれない。
「そうだなあ……。さっき、島崎と行き合って話した時に感じたんだが、記憶が疎らみたいだからな、この身体は。今思い当たらないのはどちらか解らないぜ。で?その菊池ってのはどういう男なんだ?」
「どういう、って。気さくな人だよ。兄貴肌ってやつかな。出版社を作った実業家でもあったから、その流れで連載を取り纏める役を請け負っている訳なんだけれど。」
 なるほど、納得である。
「んん。解らないな。」
「じゃあ、国木田は接点が無かったのかも知れないね。」
「擦れ違いだろうなあ。」
 ことん。
納得して頷く国木田の前に、話している間に出来上がっていたレモンソーダモドキが置かれた。シュワシュワと気泡が弾ける透明なグラスには、レモンの薄い輪切りが二枚ほど浮いている。
「どうぞ。」
「お?モドキって言う割には良い感じだな?」
「そうですか?即席ですが、気に入って頂けると嬉しいです。徳田先生はもう少しお待ちください。お湯、まだ沸いてないので。」
「はいはい。」
 二人のやり取りを横目に一口含む。さっぱりした甘さとレモンの爽やかな香りが口の中でじゅわん、と膨らんで、飲み込めば喉から食道から至るところをパチパチちくちくと刺激した。
「ん、」
「あれ、不味かったですか?」
「僕はソーダ苦手だけど、国木田も?」
「二酸化炭素を加圧溶解している訳じゃないんで、見た感じよりは弱いはずなんですけど……。」
 渋い顔をした国木田を見て、二人は首を傾げる。
 転生に当たって、食べ物の好き嫌いが抜け落ちていたりすると大惨事になったりする訳だが、国木田は炭酸飲料なんて飲んだだろうか?
 自分の事すらあやふやな徳田と、そういった風俗史に明るくない司書では、なんとも判断し難い。もしかしたら、一般開架のあの司書なら分かるだろうか、と思ったところで国木田が弾んだ声を上げた。
「これ面白いな!蜂蜜が入ってるか?これ。水とレモンだけじゃないな!」
「な、なんてベタな反応を……。いやでも、良かった、不味かった訳ではないんですね。」
 転生したての文士に、いきなり嫌な思いをさせてしまったかと内心慌てていた司書だが、逆の反応が返って来たので胸を撫で下ろした。
 息を吐きだしたその時、甲高いヤカンの音がして、司書が立ち上がる。湯が適温になったようだった。
「あ、いいよ、自分で行くから国木田に説明してあげて。」
「すみません、ありがとうございます。」
「で?これは?」
「ええと、蜂蜜を入れているというか、入っているレモンが蜂蜜漬けにしてあるんです。食べられますよ。」
 台に置けば、跳ねた炭酸の飛沫が新聞に飛んで、微細な水玉模様を作った。
「おっと、」
「別に気にしなくても。」
「まだ読み終わってないんだから、滲んだら不味いだろ。まぁ、連載モノは滲んでなかったとしても読み飛ばすしかないんだが。」
 何せ、前の回が読めないのである。読み切りや詩ならいいが、連載は前後が大事だ。
「前の回は司書さんが持ってるよ。」
 お盆に急須と湯飲みを乗せた徳田が戻ってきた。
「本当か!」
「ええ、保管用にファイリングしていますよ。」
 棚からファイルを取り出して広げて見せた。
2つの穴を開けられて、ファイルのサイズに合うように折り込まれている。ほとんどの新聞が灰色のわら半紙だが、所々にピンク色に染められたものがあった。
 それを広げて見れば、なぜか片面しか印刷されていない。他の物には、時折「休載」という記載があったり、穴空きなこともあったが、まっさらなのはピンクのものだけだった。
「そのピンクのは、外の情勢が急に動いたりしたときに出してます。号外ってやつですかね。」
「号外!」
 国木田は心底楽しそうにファイルをめくり始めた。新しい文豪が転生するとしばしば貸出ししているので、今回もそうなるだろう。
 そういえば、芥川がほんの気紛れに不定期連載しているのを聞き付けて司書に詰め寄った太宰を、なんとか一旦、引き留めたのは徳田であったなあと思い出す。見れば、同じことを思い出したのか、隣の彼は眉間の皺が大変深い。
「そうだ、徳田先生。」
「うん?なんだい?」
「総集編作ろうと思うんですが、どう思いますか。」
「総集編?新聞の?」
「はい。こうやって随時新しい方がいらっしゃいますし、図書館の出来事を時系列に纏めてお教えできるのは、良い事かなと思っていたんです。」
 確かに、島崎の館内情報はその時転生した文豪や起こった事、達成された事などが書いてあって、もう片面に司書が市販の新聞から抜粋して記事を纏めてある。必要であろう情報が、日付もしっかり記載されて保管できる。デメリットは少ない。
「いいんじゃないかな。君はまた、そろそろ製本したいだろうしね。」
 徳田は淹れたほうじ茶を一口飲みながら、司書の方をジトっと見遣みやる。
「イヤだな先生。下心は半分くらいです。」
「ええ?嘘、八割でしょ。」
「心外ですね、まぁ、あっても七割です。」
「ほとんど大差無いじゃないか……。」
 司書としての仕事をサボる訳でも無いので構わないのだが、兎にも角にも、何かに付けて製本がしたいのである。
 そんな彼は政府関係役員から「機密の漏洩も無く、文豪の作品を活字に起こして、製本まで可能なのであれば利用する他無い」という目で見られていた。「人を都合のいいように利用する」ということに引っ掛かりを覚える者は、役員を目の敵にしているようだが、司書はそんなことはどうでも良い。
 何せ材料費等は経費で落とせる。
 ここに来るまでは、工房で指をくわえて見ているだけだった料紙(りょうし)だって、特注の透かし入りだって買えてしまう。見本帳は取り寄せ放題。
 楽園はここにあったのか!と、思った彼は、上からの小さな嫌がらせや鼻に付く小言に、領収書を熨斗付けて丁寧に返している。そのせいか、最近館長に書類を提出しに行くと、一瞬身構えられる様になってしまった。
 いえいえ今回は領収書じゃありませんって。
「仲いいんだな?」
 新聞から顔を上げ、国木田は頬杖をついている。
「それなりにね。」
「徳田先生と織田先生は、最初期にここへ来た方々なんです。何かとバタバタしてましたから。」
 本を造っている時間なんて無かったあの時。司書が製本できると初期の二人以外に知れたのは、二つの会派を組めて、その上である程度入れ替えが出来るようになってからだった。
「さて、一息ついていただいたところで、」
 司書は身に付けていたエプロンのポケットから、真鍮の鍵を取り出した。年月を経ているようで黒ずんでいて、五センチ程の大きさである。
「国木田先生の部屋の鍵です。場所は後程、徳田先生にご案内いただきます。」
「は、のゼロハチ?」
 鍵にリングで付けられた楕円型のプレートには『はー08』と掘り込んであった。図書館のエンブレムである桜のチャームも付いていて、鍵本体とぶつかって音を鳴らす。
「それは部屋番号だよ。『は』は三階の事。図書館に近い側の部屋からゼロイチ、ゼロニ、となるから、国木田の部屋は三階の端に近いあたりかな。」
「へえ、なるほどな。両隣は?」
「……うーん、覚えてないな。僕の部屋は一階だし、頻繁に上の階に行く訳でもないから。司書さんは覚えてる?」
「はのゼロナナは、確か高村先生だったかと思います。反対側は、今後のお楽しみにしてください。」
 基本的には転生順で部屋を決めているが、どうしても差し障りがある場合は階を変えたりして対応している。明日の潜書で隣が決まるか、はたまた先数ヵ月決まらないか。
 それは司書の言う通りお楽しみである。
「何か他にご質問はありますか?」
「いや、今のところ特には。」
「そうですか。では、ついでに始めてしまいましょうか。」
 司書はそう言って国木田の手元のファイルを一旦仕舞い、代わりに、黒色のマットを置いた。厚みがあって固い。見た目だけであれば、方眼が無い大きめのカッターマットに見える。
「国木田、飲み物はこっちに置いておくよ。」
 キャスターの付いた小さな台に三人分の飲み物を移動して、徳田は少し離れたところに座り直す。
「なぁ秋声、コレ何するんだ?」
「皆、ここに来たらやってることだね。これから説明してくれるよ。」
 そうこう話している間に、司書は彼の前に一枚紙を置いた。
 なんの変哲もない、A4サイズの白い紙だ。
 国木田がそれらを観察している間に、司書は短冊の様に細く切られた別の紙を取り出すと万年筆で縦に『国木田独歩』と書き込んだ。
「なんだ?それ。」
「俺専用の記録媒体です。」
 名前が書き込まれた紙をマットの端に置くと、バチリ、と静電気が走るような音がして無地だった黒に細かな模様が浮き上がる。
 ただ、どれだけ目を凝らしても何と書いてあるのか、むしろ文字なのか何なのかも分からない。闇の中の霞の様に、黒に溶け込んだり浮き上がったりしていた。
「この図書館では、転生文豪の新規作品を印刷、製本する許可及び付随する権利を有しています。それは先程徳田先生から説明があったかと。」
「しておいたよ。」
 のんびりとほうじ茶を飲んでいる徳田から、相槌が飛んでくる。
「ですので、今から筆跡の登録を行います。」
「筆跡?別に、俺の名を騙るヤツが居るわけでもないだろ?」
何せ全員が全員、豪の者と呼ばれる程に、文学に秀でている。
「それは全く心配していません。この登録は、政府から口煩く文句を言われるのを避けるための物です。」
 製本されたものの一部は一般開架に置く。故に、図書館から盗難されて模造されたり、要らぬ事件が起きない様に、司書は作った本に幾重にも細工を施すのだ。そのための筆跡登録である。
 そう言われると自然と背筋に力が入った。
「そんなに気負わなくて大丈夫だよ、自分が気に入る筆記具選ぶだけだから。」
「いやいや、今登録するって言ってただろ?」
「いえいえ、筆記具選びますよ。」
「ん?……んん?」
 意味が分からない。そんな顔で眉間に皺を寄せる国木田の前で、引き出しがひっくり返される。
筆記具であろうが、見たことの無い形のものばかりだ。がちゃがちゃざらざら、転がり終わった後に別のところから筆が出てきて、墨汁が置かれた。
「そちらの紙に、気になる筆記具を選んで試し書きしてください。書くとマットに織り込んだ錬金術の構成式が、国木田先生の筆圧と早さ、書き順の規則性を読み取って、この短冊に蓄積します。なので、できるだけ文字を書いてくださると嬉しいです。」
 するするとマットと短冊を指差して説明する司書は、なんとなく何時もより頭が良さそうに見える。
「いつもこうだったら見映えがするのにね。」
「ちょっと、先生?」
 今度は徳田が司書のジト目を受け流す。
「はははっ、わかった。書けばいいんだな?」
「あ、はい。選ばれた筆記具は転生記念ということで、後ほど俺から贈ります。物によりますが、使っているうちにインクとか無くなったら言ってください。」
「ああ。」
 まず筆から始めて、今度はボールペン。
シャーペンも太さを何種類か試して、鉛筆や万年筆を一通り。
「うん。これだな、これがいい。」
「へえ、個性的なの選んだね。国木田はボールペンを選ぶかと思ったけれど。」
「そうですね、意外です。」
「ボールペンも良いが、軸が細いし硬すぎるんだよなあ。」
「確かに。万年筆より軽くて、少し太めの軸が好きな方にはピッタリかもしれません。サインペンのような質感で、文字に強弱が付けやすい所も人気ですよ、それ。」
 国木田の手に収まるのは、他の物より少し短くて太い、真っ黒な軸のペンである。真ん中あたりが少し膨らんで、竹の葉のような形だ。
「確かに軽い。あとこのキャップの感じが良いな、気に入った。」
樹脂軸なのでキャップを付け外しする度にカチ、と軽い音がするのが良いらしい。矢鱈(やたら)とボールペンをノックする人もいるし、そういう感覚だろうか。
「キャップって、邪魔じゃないですか?」
「いや?そうでもないぞ。」
「良いんじゃないかな。考えるときに、手慰みに何か持っているのが癖みたいだし。」
 徳田のその言葉に面食らった司書は、改めて文豪の観察眼に感嘆した。言った当の本人は急須を覗き込み、何でもないようにしている。
 確かに思い起こせば、彼は利き手で筆ペンを持ったとき、反対の手でキャップを持っていた。意識は利き手に遊ばせた筆ペンに行っていたはずだが、コンコン、コンコン、とキャップでマットを軽く叩いていたのだ。それも短冊に記録されているだろう。
「司書さん、この急須小さめだね。お代わり貰ってもいいかい?」
「どうぞ、お好きなだけ。一人用なのでギリギリいっぱいに入れても少ないんですよ。奥の棚に落雁がありますから、良かったらそれもどうぞ。」
「本当に?ありがとう。頂くよ。」
 奥へ向かう徳田を見送って、司書は棚から二穴ファイルを取り出す。紙が沢山挟んであった。
「次はそれに合う紙を選びます。いつもは色々出すんですけど、そのペンですから……。」
 国木田が選んだのは水性インクのペンだ。インクの吸収が良くなければ、乾ききらないインクが手に触れて掠れたり裏移りしてしまう。
「紙の色は何かご希望ありますか?」
「色?別に無いな。無いが、白か生成色辺りで頼む。」
「分かりました。……じゃあ、ここら辺の紙が妥当ですかね、試してみてください。」
 ファイルから抜き取られた紙はおおよそ真っ白で、並べ比べて見るとほんのりクリーム色に見えるものが何枚か混じっている。さらりとした手触りのものが多かった。
「んー、これ結構滲むな。」
「こっちはどうですか?」
「……有りと言えば、まぁ有りか。」
「ではこちらも、」
 そうやってひたすらに試し書きをして、最終的には、少しだけクリーム色のものに決まった。あまり厚くはないが裏抜けも少なく、インクの吸収も合格圏内。少しざらついた表面に、選んだペンの先が引っかかってインクをチリチリと跳ねさせるのが、味があって良い、との事だ。
 話し合いの結果、この紙は糸で中綴じをして、テープでくるんだノートに製本することになった。五ミリメートル間隔の方眼経線と、ミシン目をノド近くに入れて、集めた情報を繋げたり整理したり、そういうことがしやすいように作る。
「大きさはポケットに入るくらいが良いですかね。表紙と裏表紙は固めにしておきますか?」
適当に折りたたんだ新聞紙を、その丈の短いジャケットの内ポケットへ差し込んでもらい、入る大きさの確認をしながら問いかける。
「そうだな。その方が持ち歩けるし書きやすい。そうしてくれ。……うん、大きさはこれくらいが良いな。」
 司書はすっかり手の平ほどになった新聞紙を受け取り、サイズを定規で測る。先程から何かしら書きつけているカレンダーの裏紙にサイズを加えた。
「わかりました。では、これで国木田先生の一日目は終了です。お付き合い頂きまして、ありがとうございました。」
「こちらこそ!楽しみに待ってるぜ、ノートとペン。」
 頭を下げる司書に、国木田は笑顔を向ける。この作業をしていると、筆跡の登録をしているというよりはセミオーダーで筆記具を注文している感覚になるらしく、おおよそ嫌な顔も疲れた顔もされないのだった。
「お疲れ様。はい、少し炭酸抜けたみたいだけど。」
 ようやっと一息。なんだかんだ一口しか飲めていなかったレモンソーダモドキを差し出され口を付けた。グラスを傾けたついでにレモンの蜂蜜漬けを口にくわえる。弾け出る気体でほんの少し揺らいでいるレモンは酸味が少なく、蜂蜜のお陰で後味はさっぱりと甘い。
「ふーん、まい。」
「案外酸っぱくないよね。その蜂蜜漬けは僕も好きだよ。」
 一転、ただの雑談を始める二人を横目に司書は片付けだ。
 試し書きをした紙を全て纏めて、端に印刷された紙の名前だけ残して切り取る。ノートに使う紙の名前を裏紙に貼り付けると、その他は金属製のトレーへ重ねて入れた。後でこれらはシュレッダーにかけて、中庭の手入れで出た雑草の山に混ぜて、燃やしてしまう予定だ。
 次に、マットに付けていた『国木田独歩』の名前入り短冊へ、朱色のインクの万年筆で何かを書き込む。すると、未だマットの上でふわふわ浮き沈みしていた文字が、ふつり、と見えなくなった。
「ん?何やったんだ?」
「簡単に言いますと、国木田先生の登録を終わります、って書きました。」
 そう言いながら国木田の名前の上へ印を捺した。これもマットの文字と同じく、何と書いてあるのか分からない。
 短冊をくるくる巻いて、細く小さな試験管の中へ差し込みコルクで蓋をする。その上から、コルクを跨ぐように細いシールを貼った。
どうやらこれで、記録媒体は完成したらしい。
「国木田先生が何か作品を書かれて俺が製本する場合、この情報を元に、本文に筆跡情報を焼き込みます。何をしようが、俺が作った原本から筆跡情報を抜き取り複製することはできませんから、ここの図書館で俺が作ったものだと証明ができます。」
「図書館の出入口付近にはね、司書さんが書いた構成式?だっけ?があって、筆跡情報を持った本はそこから出られないようにしてあるんだよ。」
「万が一持ち出せたとしても、図書館玄関の境目を越えたところでインクが溶け出して、文字が酷く滲むように仕込んでいます。」
「ほー、なるほどな。盗難防止か。」
「はい。錬金術における情報の蓄積媒体は鉱物に依るものが多いんですが、そこは俺なんで。」
 意地でも製本に繋げていくし、繋げることが楽しいのだ、この錬金術師は。
「まぁこんな感じの、製本しか考えてない呆れた司書さんだけど、いつもは基本的に平和だから、安心して過ごせるよ、国木田。」
「……呆れた司書ですがよろしくお願い致します、国木田先生。」
 仲が良いのか悪いのか。軽口を叩く二人を見る限り、その言葉は本物だろう。
 まだ会っていない転生文豪もいる。好きなペンで好きなように書ける。
「こっちこそ、よろしくな。」

 少し炭酸が抜けたレモンソーダモドキは、爽やかな春の味がした。




continue.