「嘘だろ……。」
食堂の掲示板の前で太宰は立ち尽くしていた。
丁度先程、有碍書への潜書を終えて帰って来たところで、今から食事を取るところであった。手に持った木製の盆の上からは、唐揚げの肉の甘さと、皮がカリカリになった香ばしい匂いが、味噌汁の湯気と共に漂っている。
彼自身、掲示板はついでに覗く程度で、すぐ席に着くつもりだったのだろう。
それでも何かに圧倒されたように石像になっている。
「太宰君?」
「どうしたの?食べないと、ごはん冷めちゃうよ?」
一緒に潜書していた徳田と新美が声をかけても動かない。いや、正確に言えば小刻みにカタカタと震えているが。
「何を見ているんですか?」
近くのテーブルに盆を置いて、太宰の横までやって来た中島が覗き込めば、新美も太宰の腕の下から潜り込む。徳田は小さく溜め息を吐いて、二人が盆を置いて行ったところの椅子を引いた。
そんなに固まるようなことがあっただろうか?
普段の掲示板と言ったら、潜書の大まかなスケジュールや、特務司書助手からの伝達用件、あとは新聞が貼ってあったり、食堂の献立と些細な連絡事項だけだ。
その上、連絡事項と言っても「出掛ける者が居るのであれば、ついでに茶菓子を買ってきてほしい」だの、「共有冷蔵庫のベーコンは絶対使うな!」だの、些細過ぎて見逃す事の方が多い。
本当に重要な事は、主に助手か司書本人が直接伝えに来るものである。
「あ!新刊のお知らせだ!」
「今回は新聞の連載から二作品ですか、楽しみですね。」
そこで徳田はハッとした。
今回は確か、完結したのが一本、打ち切りが一本。
司書が発行している新聞の連載欄は諸々が大方自由である。
締め切りは「これくらいまでに出してね」程度のとても緩いものだし、間に合わなかったりしたら休載しても特に問題は無い。連載を打ち切りたければ、その旨を取り纏め役の菊地寛に申し出れば良いのだ。
大体は「残念だ、結末が気になってたんだがなあ」とかなんとか、菊池に言われる程度で打ち切りは認められる。ちなみに、この時の菊池の
「そこに掲示してるのはまだ製本している最中だったと思うから、今はとりあえず座って食べなよ。」
「あ、あ、あく、芥川先生の……しん、新刊……。これ、え、夢?現実?」
極々短いものを不定期で載せていた芥川は確か、打ち切りを申し出ていたはずだ。短編連載だったので纏めて製本するのだろう。
どうやら徳田が気付いた通り、太宰は掲示板の隅に貼り出された新刊情報に、静かに歓喜していたらしい。
カタカタしたままの太宰を捕まえて、新美は徳田が座るテーブルまで引っ張ってきた。
徳田の隣の席にぽすん、と座ると、自分の隣の椅子を引いて座面をぽんぽん叩く。まるで自分より年下に対するような対応だ。
ほらほら、坊ちゃん、ここにお座りなさいな。どれ、お菓子でもご馳走しようかね。とかなんとか聞こえそうである。実際は徳田と一緒に「いただきます」と元気に挨拶している。
「やっぱり好きな人の本が出ると嬉しいよね!」
「そうですね、予告が出ると楽しみで眠れない位で。発売が遅れた時は本当にそわそわしてしまって、何も手につかないような状態でいました。」
穏やかに微笑みながら、毛皮を椅子の背に掛ける中島が言葉を返す。
「うんうん、わかる!」
「そうだね、……ほら、太宰君、お箸、ちゃんと持って。太宰君?唐揚げ見えてる?大丈夫かい?」
徳田が少し俯いた太宰の顔を覗き込めば、金色の瞳は爛々と輝いて潤んでいる。恐らく彼の心中は尋常ではないだろう。
「だ、だ、大丈夫じゃないかも……。あ、芥川先生の、新刊……!」
「敬愛する作家の本を心待ちにされる気持ちは分かりますが、一先ず食事を済ませないと、司書さんに怒られてしまいますよ?」
「そうだよ、ちゃんと食べて、うんと元気にならなきゃ、本だって買えないよ?」
「そっか、だよな、うん……。た、食べる……。」
さっきから
す、ふ、はあああ。機械のように
いただきます、という地を這うような無理矢理沈めた声が聞こえて、他の三人も食事を再開した。
「お食事中失礼致します。中島先生いらっしゃいますか。」
食堂の入口の方から声が掛かる。司書であった。
「司書さん、良いところに!太宰君が瀕死だよ。」
扉から顔を出して食堂内を伺っていた司書を呼び寄せる。いつもの作業用エプロンを付けているので、何かしら作業中だったのだろう。
「え?瀕死?耗弱じゃなくてですか?いや、でも、潜書は久々のMVPだったのに、何故です?」
確かに少しだけ攻撃を受けてはいたが、会派全員が先に食事にする程度には余裕だったはず。そういう考えが顔に書いてある司書に新美が投げ掛けた。
「司書さんが今作っているのは?」
「フランス装と上製本です。」
「ち、ちがうよ、ううん、方法を聞いてるんじゃなくてね。書いた人!」
「田山先生と、あく……、あ〜!ああ〜……。もう少しギリギリに発表すれば良かったですかね。」
言いながらチラリと太宰を見れば、早食いができるタイプでも無いのに、何処と無く、何時もより食べるスピードが早い気がする。
「太宰先生、ゆっくり、きちんと噛んで食べてください。本は逃げませんよ。」
「んぐ、う、売り切れはするだろう!?」
「それは確かに……。」
「確かに、じゃありませんよ、もう。こちらにどうぞ。」
中島が苦笑しながら、隣のテーブルから椅子を一つ引き寄せた。太宰との間をあけてそこに椅子を置いたので、どうやら座れと言うことらしい。
「ありがとうございます、中島先生。……あ、後程、司書室に来ていただけますか?」
「分かりました、伺いますね。」
「よろしくお願い致します。」
頷いて食事に戻る中島から、食べるのに必死な太宰へ向き直る。
見ているうちに噎せた。
「ああ〜、だからゆっくり食べてくださいって。そこに掲示した日程でしか、販売できませんからね?あと一週間以上あるんですよ?」
「そうだよ。また急な任務もあるだろうから、遅れるかもしれない、位の気持ちで待たないと。」
「だって、どうしても気持ちが
「分からないでもないですけど……。じゃあ、少し手伝う気はありますか?」
「えっ!あ、ある!な、何、な、げほっ、」
「はいはい、落ち着いてくださいってえ……。」
丸まった背中をさすって、ティッシュを渡してやりながら静かに溜め息をつく。
咳と唐揚げを噛むざくざくという音と、食堂に緩やかに流れる音楽しかしなくなってからようやく、司書は空腹を思い出した。目の前にはなんたって、カリカリジューシーな唐揚げ定食である。
あぁ、自覚すると急に食べたくなるものだなぁ、と考えていると、唇にちょん、と触れるものがあった。
「お一つどうぞ?」
一口大に千切られた小さめな唐揚げだった。それを乗せているのは中島の箸だ。
この図書館の中では初期に転生したせいで、何かと司書に食べ物を渡そうとしてくるのだ。あの時は確かに、仕事に不馴れであった上に、忙しさのあまり自分の食事を疎かにしていたが、今は違うのに。
「お気持ちだけ、ありがとうございます。だけど中島先生が食べてください。工房を少し片付けたら、俺も夕食摂りますから。」
「でも、もう触れてしまいましたから。」
にっこり。
「……はい、いただきます。」
食べざるを得ないことを、予めしておくのもお手の物になってしまった。なんとも申し訳無い。大人しく頂いた。美味い。
「ね、製本のお手伝いって、できるの?」
「そう言えば君、織田君にも小泉さんにも製本は手伝わせないじゃないか。どういう風の吹き回しだい?」
「ん、……そりゃ、基本は作家には手伝わせないですよ。今回は製本というよりは中に投げ込む既刊一覧とかの裁断してもらえればと思いまして。簡単ですから。」
最近、宮沢の小さな絵本が売り切れたので一覧を更新しなければいけないし、今回は二人とも発行部数が少し多めなので、手伝いは嬉しい。
ようやく落ち着いてきたらしい太宰は勢い良く司書の肩を掴んだ。
「やる!」
「落ち着いていただけますか?」
「もちろん!」
四人の心が一つになった。
絶対、嘘だ。
「不安です……。」
「ねえねえ、秋声さん、明日は誰が入るかなぁ?」
「はぁ……。多分、小林君かな。」
しゃあ。しゃあ。
そんな音をさせながらカッターが滑っていく。
裁断機を使っても良かったが、今回は司書ではなく、やる気満々の太宰が作るので、安全のためにカッターだ。司書がこの図書館に来る前、製本工房で働いていた時からポケットにいつも差し込まれていた相棒の一つ。
作業を指示した時はブリキの玩具のようにガチガチに緊張していたから、司書は見ていて寿命が縮む心地だった。
数日前、手伝いを依頼したのは間違いだった気がしたし、お願いだから指を切ったりしないでくれ、と本気で頼み込んだ。潜書でもないのに補修することになってたまるか、とその一心で。
そんな司書に構うことなく太宰は裁断を進めていく。
一枚一枚、丁寧に裁断されていくそれらの切れ端をつまんで見れば、仕上がり予定の線に寸分の狂いもなく合わせて切られている事が分かった。
存外、几帳面なところがあるのだろうか。
「っ、終わったあ!」
脇に置いたゴミ箱に切れ端をまとめて突っ込んで、太宰は突っ伏した。
机に向かうのは慣れているだろうが、カッターはペンとは違う疲れがある上に、今回は憧れの人の本に挟むものを作っているのだ。肩に余計な力が入るだろう。
「お疲れさまです。こちらどうぞ。」
「ありがと司書さん。毎回これやってんの?大変じゃない?」
甘めに淹れたカフェラテを渡し、司書は作業台の向かい側へ腰を下ろす。
「毎回でもないですよ。それに、慣れてますから。」
「そういうもん?」
「そういうもんです。」
何故だか納得いかないような顔で、カフェラテを飲み込んでいる彼を横目に、作業台の引き出し、その一番上の段を漁り始める。
「じゃあ次は折っていきますよ。これ、使ってください。」
こん、と作業台に置かれたのは、輪切りにされた細く小さな竹だった。指先から第二関節までほどの長さで、黄土色の少しツヤツヤしたモノ。
「なんだこれ?」
「竹指輪です。」
「竹指輪?」
「ご存知無かったですか?一度見ててくださいね。」
数メートルに渡って手紙を書いていたらしいから知っているかと思った。などと考えながら、司書は竹の穴に、右手の中指を差し込んだ。なるほど確かに、大変不格好ではあるが、指輪と言っても良いかもしれない。
「すみません、切ったもの、一枚頂いても?」
「ああ。うん。」
太宰が先程切っていた紙の山を、自分の左側から二人の間に引き寄せた。
司書はその一番上の一枚を手に取り、長辺を半分に折る。さらにまた半分。元の大きさから1/4になったそれの折り目を、指に嵌めた竹の表面ですーっと押し潰した。
指だけで折った時は紙の繊維が潰れ切れず、重ねるとふわふわして多少嵩張(かさば)るが、司書に竹指輪で折られた紙はきっちり折り込まれて、ぺしゃんこに潰れている。
「指や爪で折り目を潰すと段々指が痛くなってきますから、こういう道具を使うんですよ。綺麗に仕上がります。」
折った時に付きやすい爪の跡も出来ない。
「ふうん?便利だな。」
他の道具や紙折り機も売ってはいるが、この工房には置いていない。
こういう単調作業を全部機械任せにしてしまうと、気分転換用の単純作業が無くなってしまう、というのが司書の言い分である。
「ではお願いしていいですか?」
「任せなさい!司書は何やるんだ?」
「栞を作ります。」
「どんなやつ?」
「金属板をエッチングして作る栞ですよ。エッチング自体は終わってますが。」
胸を張る太宰に指輪を外して渡して見やれば、手のひらに竹指輪をころころ遊ばせながら、頭の上にクエスチョンマークを飛ばしていた。
確かに「エッチング」だけでは、説明としては判り辛かったかもしれない。
「招魂の栞みたいなやつです。穴が開いていて透けてる。あれのようなものをご想像ください。」
「ああ、あれか。」
ここの司書は積極的に招魂の栞を使う方ではないが、太宰は過去に何度か渡された記憶がある。
あれは、そう。確か、坂口安吾に来て欲しいからと、珍しく長い間、織田が助手から外された時だったと思う。こないに長く助手の仕事せえへんの初めてやなあ、とどことなく嬉しそうな顔で呟いていたのを思い出した。
「なーんか、いつもの栞より豪華じゃん?だいたいは布か紙か、紐とか。」
確かに普段は表紙の揃いの紙か布を栞に仕立てている。上製本には大体スピンを付けるので、金属の栞は初めてだ。
「それには理由があるんですけど、とりあえず始めましょう。夕飯までに終わらなくなっちゃいます。」
「あ〜、はいはい。」
使っている作業台は二畳分もある。その端に、司書は大きめの段ボールを縦に置いて、真鍮を削った粉が飛ばないようにブースを作った。そこに古紙回収車から譲って貰った新聞を敷いて、また下の引き出しから材料を取り出す。
がさがさシャリシャリ、紙ヤスリの擦れる音。
太宰が竹指輪の扱いに苦戦しながら紙を扱う音。それから、いつも聞いているラジオのパーソナリティの声。少しその静かな音を聞いていると、不満そうな声が響いた。
「で?」
「……あ、理由でしたね。」
「今忘れてただろ!」
「すみません、前に働いてた工房を思い出しまして懐かしいな、と。……理由はエッチングに使う薬品です。」
金属を腐食させ、凹凸や透かし彫りを作るエッチングという技法は、塩化第二鉄を腐食液として使う。それに浸けて腐食を待つ訳だが、作業後に出る廃液が産業廃棄物扱いになるのだ。
「廃液が有害なので、捨てるのにあれこれやらないといけないんです。制作材料も処理用の材料も、揃えるのに中々経費が下りなくて……。」
「そんなに?庭とかに捨てちゃ駄目な訳?」
「駄目ですよ、廃液は銅イオンを含有しています。恐らくご存知かと思いますが、足尾銅山の公害の一因にもなるような成分ですから。」
「あー、足尾銅山って……。なるほどな。」
足尾鉱毒事件。江戸時代から明治、昭和にかけて銅を産出した足尾銅山で問題となり、現在まで影響が続く公害事件である。元より知っていたのか、ここに来てから蔵書を読んだのか分からないが、一通りは知ってはいるらしい。
「なので、材料揃えられるまでは出来なかったんです。栞なんてスピンや紙の栞でいいだろ、って言われまして。」
いつもは買ってから領収書を出すところを、今回は材料が特殊であったので、まず申請を出すことになった。こういう申請書類はまず館長に出すのだが、大分渋っていた。
その時点で申請が弾かれるのが分かっていたのだろう。
案の定、弾かれて却下されてお叱りを受けて、ようやくこちらが粘り勝ち、一月ほど前に許可が下りたので、このタイミングに合わせて作ることにした。
「手間暇掛かりましたから、この栞は別売です。」
「ちょ、ちょっと待て。と言うことは、この栞も対価は一日分ってこと?」
「うーん、そうですねえ、半日分を予定しています。」
「……売れるか?高くない?」
普段おまけでくっついてくるものが労働半日分とは、経費を落とすのにそんなに苦労したのだろうか。
「そうでしょうか?売って見せますよ。」
しかし司書には自信があるようで、太宰にニヤリと笑って見せる。
「ほーお?言ったな、楽しみにしておいてやる!」
そして、発売日。
「嘘だろ……。」
司書の執務机の前で太宰は立ち尽くしていた。
「お会計は一日と半日ですね、お買い上げありがとうございます。カバー付けますか?」
「うん、要る……。要るさ……。」
片艶クラフト紙のカバーをかける手を、半ば呆然と見て、あの時、なぜ司書が自信に満ちた顔をしていたのかを理解したようだった。
「太宰クン、やっぱり栞も買うんやな。」
執務机の隣に置いてある、助手用の机に頬杖を着いて、織田がケタケタ笑っている。
今日は織田が助手の日らしい。
「やっぱり?!やっぱりって、何だよ?!」
「いやなあ、実は昨日、一足お先に見せて貰てな。そんな、芥川センセの本の表紙の意匠組み込んどるステンドグラスみたいなもん、絶対太宰クン買うやろて思ってたんや。」
「ぐっ……。だって、揃いで買うしかないだろ!しかも三本限定で、その内一つは献本と一緒に芥川先生のお手元に……!司書は卑怯だ……。」
茶々を入れられた太宰は後ろのソファに沈み込んだ。その弾みで置いてあったクッションが床に落っこちて、ぼよよん、と織田の机の方に転がる。
「失礼ですね、《限定》って言うのは販売促進の一つの手法です。ねえ、織田先生。」
カサカサとクラフト紙を折りながら、司書は織田に目配せする。
「商売上手やなぁお司書はんは。見習いますわ〜。打ち切りペナルティも、考えはったんやろ?」
「打ち切りペナルティ?」
メモを取る仕草をして笑う織田を不満げに見つめる太宰は、聞き慣れない単語に、思わず鸚鵡返しをした。
「あ、織田先生、待った。」
「お?こらあかんわ。」
飛び上るように起き上った太宰を見て、二人は顔を見合わせる。織田は楽しそうであるが、太宰に机の上の書類ケースを若干崩しながら詰め寄られて、司書は本気で焦っていた。
「ままま待て、待て待て、何?ペナルティって何だよ?!あ、芥川先生に、何、あう、なにを強要した?!」
「いやいやいやいや、人聞き悪い。何も強要はしていません!」
「アレは打ち切るお人にだけ、菊池センセが伝えとるし、知らんのも当然やろなあ。」
「なんで!オダサクは知ってんだよお!」
「助手やし。」
まあ当然である。当然ではあるが、良い笑顔で楽しそうに煽るのは、今は勘弁していただきたい。何せ、机の端のブックエンドが落ちそうなのである。
落ちてしまったら、立ててあるファイルと資料の束も落ちてしまう。後で糊付して添付するためにはさんだ領収書もあるので、バラけたら地獄だ。必死に押さえる。
「いや、ほんと、一旦、座ってください、説明しますから!」
「端的に!」
「え、あ、はい!?」
「説明!」
司書の視界の端では、織田が「いや、何なんこれ、おもろいわ」などと笑っている。笑っていないで止めてほしい。
「打ち切りする人は必ず何か書き下ろすっていうペナルティです!だから、落ち着いてくださ、あれ、……太宰先生?」
ぽかん、とした顔で立ちすくんでしまっている。耳を澄ませば「書き……おろし?」などと呟いているのがわかった。
「急に降って湧いた書き下ろしの事実が、飲み込めへんのとちゃう?」
「さすがの情緒不安定ですね……。あー、焦った、領収書バラけなくて良かった……。」
「あんなあ、都度都度貼りなさいて言うてるやろ。」
「それは耳にタコがすぎる。」
座り直して机の上を整える。しばらくは復活しないだろうと、カバーを掛ける作業に戻ると、織田も落ちたクッションを拾い上げていた。
「え、書き下ろし?」
「あれ、案外意識戻るの早いですね。」
「それを早く言ってくれよお!」
先ほどと一転して、満面の笑みでグルンと司書に向き直った。太宰の百面相に付いていけなくなってきていて、思わず声を上げる。
「ひえっ!」
「カバー掛け終った?」
「は、はい、どうぞ。あ、ついでに今日発行の新聞がありますけど、要りますか?」
「勿論要る!もしかして、俺が一番乗り?」
「いえ、朝一番に尾崎先生がいらっしゃいましたから二番目です。織田先生、取って頂けますか?」
「はいはい。」
助手席の後ろに棚を設けて、そこに新聞を置いている。織田は一枚取ると、机に置くこともせずに手元でざっくりと四つ折りにした。司書がカバーをかけた本に栞を挟んで手渡した所で、織田が横から新聞を手渡す。
「ありがとな!明日は俺、潜書無いでしょ?」
「ありませんよ。あの時から上の空で危なっかしいんですから。」
「あんな
「本当に。」
あの日。食堂で話した翌日だ。
朝、会って見たら太宰はいつも通りだった。おや、案外大丈夫なものか、とそのまま潜書したのが間違い。
集中できていなかったらしい太宰はギリギリまで削られた。そして帰還する直前に、ぱったり気絶した太宰を背負ってきたのは、もう一人の中島だったのだ。
同じ会派は、上背のある太宰など到底背負えそうにない子供の容姿をした新美と、歳上であった自然主義の大家。同年代だった中島が背負うのは殆ど自然な流れだったが、その怒りは凄まじい。
「この腑抜けを今すぐ会派から外せ!」と烈火のごとく怒鳴りながら、太宰を補修室のベッドへ落としたのも記憶に新しい。
司書とその日も助手であった織田は「はい!」としか言えなかった。無理もない。やはり最初から組み直して置けば良かったのだ、と後悔しても遅かった。
「じゃ、俺はこれから読むから邪魔しないでくれよ!」
あの時を思い出して織田と顔を見合わせている間に、颯爽と司書室を出ていってしまう。
勢いと裏腹に静かに閉められた扉を見ながら、司書は呟く。
「え、待ってください、あの人、栞使わず一気読みする気ですね?」
「全くしゃーないなぁ、太宰クンは……。」
continue.