袋綴じのなんと魅力的なことか。
ちらりと見える内側に、色気ともどかしさ。
折り目に刃を入れるときの胸の高鳴り。
開けばそこには魅惑の世界が広がり、読者を楽しませてくれる。肩透かしな時もあるが、またそれが哀愁を感じさせてくれて趣がある。
そして、開けてしまったら二度と、その胸の高鳴りを味わえないという、物悲しさと儚さがある。
「という評論を見まして。」
やってみたかったんですよね、と宣う司書の手には見本として作られた本が一冊。長方形の短辺を綴じたこの綴じ方だと、俳人か詩人のものだろうか。
開いてしまわないように太めのリボンが掛けられている、薄めの布貼上製本だ。薄いグレー地に白で極細い格子文様が入っている表紙が穏やかで美しい。
「まあ、概ね言っていることは分かるんだが、それはどこの業界の評論だ?」
その見本を受け取りながら、室生は苦笑いで溜め息を吐いた。隣に座った萩原は、作業台に肘を着いてそれを懸命に覗き込んでいる。
「僕はアンカットの方が好きだな……。」
見本はこの二人の合同本のためのものであり、司書からの提案の一冊だった。
もともと「袋綴じ」とは、袋状に綴じてあるからそう呼ぶのであって、内側に何かが印刷されていようが何も印刷されていなかろうが袋綴じである。
司書が見た評論は、裏道への入口で気だるげなアルバイトが配っている、セクシャルな話題を扱うフリーペーパーの小さなコラム。そういうグラビア写真が内側に印刷されることを前提に論じているものであった。デザイン協会などが出版しているような公的な評論本ではないところからの出典なので、目の前の二人には何も言えない。
お互い男であるが、さすがに少し気不味いところがある。向こうも察してはいるだろうが。
ちなみに司書は裏道にある小さな生地屋に行くところで貰ったのであって、そういう店に行くところだった訳ではないことを一応弁明しておこう。
「でも、これ、ここの袋綴じ、いいよね。半分透けているところ、情緒がある、朝の薄氷のようだよ。」
筒状になったそこに上から萩原が手を差し込めば、輪郭が白くぼやけた。内に印刷された文字も磨りガラスを通したように淡く浮かび上がっている。
「雰囲気出ますよね?食堂の日めくりカレンダーと同じ種類の紙ですよ。」
「へえ!面白い、その評論も馬鹿には出来ないなぁ、確かに数ページこれが入るだけで、さっきの見本より雰囲気が良い。字体は同じだろう?」
「はい、同じです。どうぞゆっくり見てください、お二人、折角お休みなんですから。」
二人は一ページづつ、ゆっくりとめくっていく。ここの袋綴じは犀のだね、こっちは朔のだな、なんて言いながら。
すっかり生ぬるくなったお茶を淹れ直しながら、その様子をぼんやり見ていた司書は溜息を吐く。仲が良いのは良いことであるし、変な茶々を入れて不興を買うつもりはないが、本当に仲がいいのだこの二人は。
「日めくりカレンダーかあ……。だから、こんなに親近感と高級感が良い具合なのかな。ねぇ犀、こっちにする……?」
「良いんじゃないか。この括っているリボンの色は選べるんだろう?」
「もちろん。今選びますか?」
「うん、見たい。見られると嬉しいな。」
「お待ちください。」
司書は立ち上がると、ファイルや資料が立ち並ぶ壁際の棚から白く分厚いバインダーを取り出した。
他にももう一冊棚から抜き取って作業台に置き、目当てのページを探り当てると二人の前へ差し出す。
色とりどりのリボンが、厚紙でできた小さな窓から顔を出して並んでいて、少し無造作に斜めになっていたりする。そんな見本帳だ。
「今付けてるリボンと同じものがここら辺です。もう少し艶が無いのはこっちですね。」
「こっちの一冊は?」
「うーん、一応出しましたが、紐の括りに入ります。ですから網目を解して平たくしないと、裏のページに跡が付くのであまりおすすめはしません。ちょっと本棚にも入れにくいですし。」
「なるほど。そうだなぁ、そうしたら色だけ変えよう。朔はどれが良いと思う?」
「うぅん…。」
ぱた、ぱた、と分厚いページを捲りながら、萩原は唸った。
一番色があるリボンだから、これは時間がかかるかもしれない。幅も、スピンほどしかないものから女性の髪を括るような艶やかで太いものまである。
表紙をモノトーンにしたのはある意味失敗だった。この色合いだとどんな色でも大体合ってしまうだろう。
「ど、どうしよう犀。この藤色も良いと思うけれど、こっちの橙も鮮やかで綺麗…。」
「こっちのごく淡いねずみ色も一体感が出て良いかもなぁ。模様に合わせて、白も捨てがたい。」
この一言に萩原がぱちっと目を見開いた。
恐らく今の室生の言葉は無意識だろうが萩原には何かが有効だったようだ。
「じゃあ、この白にしよう。紋様が躍り出てくるような感覚かな。どう?」
「ああ、いいんじゃあないか?ただ今のリボンだと図太すぎな印象がある。他の、もっと細いものはあるか?」
「ありますよ。」
開いていたページから表紙に向かって数ページ戻る。
「今のが十ミリ幅なので一つ下は八ですが、どうでしょう?五ミリ幅でもいいかもしれませんね。」
太さ見本のページを開きながら、これくらい、と言って物差しを本の横に置く。
菓子の小箱に巻かれるようなリボンが十〜十五ミリメートル程度だとすると大分細めだろうか。
「うん、いいな。」
「そうだね、五ミリでお願い。」
「わかりました。」
ポケットから、カレンダーを切って作ったメモ用紙を取り出してリボンの品番と太さを書いていく。それをマスキングテープで作業台の端に貼った。
「見本は適当に袋綴じにしてますが、どの作品を袋綴じにします?」
「ううん、それは考えるから、少し待っててくれる……?」
「はい。まだ新刊情報出していませんし、ごゆっくりどうぞ。あとは、」
そう、言いかけると、司書は見本を顔の近くに持っていく。そして室生にもう一度差し出した。小首を傾げる室生は容姿も相まってより一層幼く見える。本人も言っているがこれでも成人男性だ。
「なんだ?」
「今回紙の会社がいつもの所と違うんですけど、匂いが良いですよ。」
「へえ!」
「こっちはこの間製本した小林先生のです。比べてみてください。」
本の小口を鼻に近付けて思い切り息を吸い込む。
小林の物と比べると、二人の本は少し落ち着いた匂いがした。インクの匂いと紙の香りが混ざって、じんわりと喉の奥へ消えていくような心地はなかなか他では味わえない。
嗅ぎ比べていると、部屋にノックの音が響いた。
「どうぞ」
そう声をかけた司書の声を受けてドアが開く。
「おや、君達もいたのかい。」
「白秋先生!」
「白さん、どうしたんですか?」
「俺がお呼びしたんですよ、というか、俺が伺いますって言ったのに……。」
手持ち無沙汰な右手で棚に並べられたファイルをなぞりながら、北原はゆったり歩く。
「良いのだよ、自分の本なのだからね。」
右手に当たるファイルの中から一冊無造作に引き抜くと、作業台の所まで来て、最近もう一脚増えた回転椅子に腰掛けた。若々しく、どこかあどけない顔立ちで転生したのに余裕のある威厳は北原の特長だな、と司書は思っている。
「来ていただいてありがとうございます。今出しますね。」
奥へ引っ込んだ司書を目で追いながら、室生は深呼吸で匂いを堪能していた本を置く。それを横目で見ている北原が、猫にするのと同じことしているのだね、だなんて考えているとは思わないだろう。
猫も本も吸う主義の人間は、それなりの割合で存在している。
「白さんも新しい本出すんですか?」
「そうなのだよ、君達の本と同時だね。」
「えっ、ええ、じゃ、じゃあ急がなきゃ……!」
「何がだい?」
今の会話の様子だと北原の本はすでに製本を終えているはずだ。
司書は今日の二人のように、細かい仕様を詰めた後は完成まで執筆者を工房に入らせない。ただ、販売予定を出した後でスケジュールが押し、時間が無いような時にはその限りではないのだが。
中には装丁に拘る夏目の様に毎回入りたがる者も居たのだが、「夏目先生は俺の仕事を疑うおつもりですか!」と半分怒った司書の──造本家の声を受けてから、誰一人として、許可が無ければ入らなくなった。
「こういう装丁にしてもらうので、ここに入る詩を選ばなきゃいけないんですよ。」
「ふうん、袋綴じなのだね。存分に選びたまえよ。時間が要ると言っていたからね。」
「時間?ですか。」
ぱらぱらと捲って、時折頷くような仕草をしながら北原は目線を二人に寄越した。垂れ目がちな目の奥が楽しそうに揺らめく。
「お待たせしました。」
そんな瞳に首を傾げていると司書が箱を抱えて戻ってくる。両手で一抱えほどの段ボール箱だ。
「首尾はどうだい。」
「あまり良くはありません。想定外です。やはり思ったより匂いがキツく付きすぎました。」
べべべべ、と半分剥がれかけているガムテープを外しながら、司書は渋い顔をする。それでも北原は依然として楽しそうだ。箱の中から一冊を取り出して、すん、と匂いを嗅ぐと司書はさらに眉間に皺を寄せてしまった。
「貸して。」
「どうぞ。もうちょっと風に晒さなきゃいけませんね。」
「……確かに少しきつい。まあ匂い自体は此れで良いのだよ。布の模様もよく刷ってくれたね。美しい仕上がりだ。」
萩原と室生の本と同じく布貼の、丸背上製本。違いはその布が橙色と青緑を基調にした華やかな模様に彩られているところと、一回り大きいところだろうか。
「匂いを、つけたんですか?」
「嗅いでみるかい?特別だよ。」
「わぁ、ありがとうございます!」
両手を差し出した萩原の手にぽすん、と本が置かれた途端、その風に乗って二人の鼻に微かな匂いが薫ってきた。
表紙に描かれた金木犀のような香りだ。
「この距離で充分いい匂いですね。まるで秋の小道だ。」
「知り合いに紹介してもらったお香専門店に、調合をお願いしたんですけど。しくじってしまって。申し訳ありません。」
折角の上品な良い香が、強すぎてイマイチ実力を発揮できていない。読むために顔をもっと近づけてしまったら、この香りは悪臭になってしまう可能性さえあるのだ。
「何を落ち込んでいるんだい?香を焚きすぎたのは先日の緊急任務のせいだろう。君はすべき仕事をしたのだよ。むしろ良くこの程度で留めたね。」
「ですが……。」
あの時は蜂の巣をつついたように図書館内が大騒ぎだったのだ。
珍しいことに、司書に特令が下されたのは真夜中だった。それから事前調査を済ませて、日の出直前に第二会派まで叩き起こし、支度が出来た者で即興の会派を組んで潜書。それから途中撤退してきた一陣を迎えて情報交換後、二陣が潜書した。補修の間に第三会派を起こして支度させて……そんな状態がほぼ丸一日。
「あの時、あんなにも疲れ切っていたのは、就寝前に香を引き上げようと思って夜中まで起きていたからだろう。君の助手が言っていたよ。」
命令によってそれが叶わなかったので、仕損じてしまったのをどうか責めないで欲しい。
ここに来る前に北原が織田に言われたことだった。
見くびらないで欲しいのだよ、と返せば、キョトンとした後に何時ものような笑顔を浮かべた彼は、徳田と共に一番長くこの司書と歩んできた文士だ。
「そりゃ仕方ない。晒せばどうにか強い匂いは抑えられるんだろう?」
「え、あ、はい。あと、もう少しは。」
「じゃあ、楽しみにしてるね。白秋先生の本。」
弟子二人の笑顔は心底穏やかで、師匠の表情も少し自慢気で優しい。
「はい……。」
「じゃ、改めてゆっくり選ぶか、朔!」
「そうだね、犀。先生の本と一緒だなんて嬉しいな。」
す、と席を立つ二人に、司書は慌てて声を掛けた。
「見本!持っていってください!」
「ん?いいのか?」
「あったほうが良いでしょう。」
「ありがとう、借りるね。白秋先生、お先に失礼します。」
「読むの楽しみにしてます!じゃあな司書さん、また夕食時にでも。」
足取りも軽やかな室生と、彼を追いかけて少し足元をもたつかせる萩原。二人の挨拶にひらりと手を振って、閉まる扉を見ながら頬杖をついた北原は、深く溜め息を吐く。
「さて、ここに居るものは君のことを信頼していると、理解出来ただろうね。」
「っあ、の……。」
呆気(あっけ)に取られてとっさに返事が出来なかった。
確かに、造本に関しては、「下手なものは出来上がらない」と信頼して貰っているのだろうと司書も感じたところであった。だがそれでも、仕損じてしまったのは己の過失である。どうしてこんなにも寛大に許してくれるのか。そういう思いが消えず、戸惑いながら北原を見やる。
司書の心を見通したように、微笑みのまま彼は言う。
「君の心に決めた志とは、違った道に来ているだろう。自分のすべき生業から外れたことをしているだろう。それは経験のない他人には理解が及ばないほどに、途方も無く辛く、厳しい道だと知っているからね。」
司書は居心地悪そうに眼を泳がせた。
「特務司書の任務も
「いや、あの、五つって多すぎです。」
「いくらでもいい。君は基本、大きな失敗が多い人間では無いと認識しているよ。それに、僕たちを一体誰だと思っているんだい?」
「え、あ、そ……そうでした。そうですね。」
どこか安心したような息を吐いた司書を満足気に見やって、彼は言う。
「分かったのなら、上出来なのだよ。」
continue.