獏の行進



 ここは、森?


 ぐるぐるとうねり、真っ黒いようで所々が虹色に滲んだ塊が、こちらを飲み込んで来ようとしている。ここは闇か、地底の奥底に沈められてしまったのだろうか。息苦しい。体が動かない。
 足掻いて、どうにか外に、と思っていると、ぼんやりと目の前が明るく光り始めた。
 いや、そもそもここは外なのか内なのか、内なのであれば何の内なのか、ソレすらも解らないのだが、何となく、何かの内側であろうと感じていた。
 そうやって無意識に外をうかがっていると、鼻腔に届く香りが有る。
 切り出したばかりの大木。
 大きな丸太を積み重ねたところ、端から外皮を剥がして加工されていく、そういう匂いがする。そうだ。これは森では無くて、大工の家のような、材木屋のような、そういう種類の薫りだ。削りたてのおが屑が、自分の周りににざくざく、がざがざと溜まっていって、仄かな湿り気のある温かな檻になる。
 その檻に沈むように身を任せると、身体の隅々まで、すっとする爽やかな緑が染み渡っていった。
 屑に沈んでいれば、薫りが強張った身体を弛緩させていく心地がして、穏やかに意識が浮き上がる。

「おーい、有島?起きてるか?」

 何か顔から離れていく感触の後に、自分を呼ぶ声がした。
 意識が段々としっかりしてくると同時に、談話室のソファで半ば寝転がるように肘掛けに頭を置いている体制に気付く。記憶の限りでは座っていたかと思うのだが。
 それに何か心地良い夢を見た気がするが、もうすでに、はっきりとは思い出せない。
「……独歩さん。」
 起こした張本人は、意識が戻ってくるのを待ってくれているようだった。
「おー、起きたか。司書から伝言だ。第三会派で一人耗弱が居るから、一度交代してくれってよ、行けるか?」
「はい。」
「潜書は二十分後な、準備して司書のとこ集合。あとこれ。」
 そう言いながら手元に落とされたのは、真ん中で綴じられた薄い紙の束だった。所謂、中綴じと呼ばれている綴じ方である。表紙も全て白く、何も印刷されていない。が、所々のページは端が三角に折られている。何も書かれてもいないのに?
「……なんでしょうか?ノート?」
「あれ?お前のじゃねぇの?顔に乗っかってたぜ。」
「顔にですか?いえ、乗せた覚えはありません。」
「ふーん?じゃあ知らないな。お前の顔に乗っけるような奴なんて、白樺の連中か新見君とかの悪戯じゃないか?」
 確かに、悪戯していくような人物は他に心当たりが無い。だが何も印刷されていないものなんて。何のために?
「ま、とりあえず伝えたからな!」
 軽くぱらぱらとページを弾いていると、踵を返して行ってしまう。兎に角、自分も向かわなければ、とソファから立ち上がった。



「あ、有島先生!それ、良く眠れましたか?」
 夕方の食堂。
 自分の顔にノートを乗せた犯人が居るだろう、と考えて、真っ白な冊子を携えて現れた有島に、思い出したような体で声をかけたのは司書だ。四人掛けの円卓で、もう疲れきって動けない、といった雰囲気の第三会派と共に食事をしているところであった。
 一人足りない。まだ一人は補修が終わらないようだ。
「……君だったのか。」
「はい。うなされていらっしゃったので、勝手ながら被せました。俺の仮眠道具の内の一つなんですけど、息苦しくは無かったですか?」
「ああ、確か、特には問題なかったかな。」
「なんです貴方、悪戯でもしたんですか?」
 向かい側には谷崎が座っている。半分驚いたような、呆れたような声が飛んできた。
「ちょっとだけ。」
「おや、珍しい。」
 んふふ、と笑った谷崎は食事に戻る。
 卓を見ると谷崎の前の皿が一つ多かった。あまり量を食べない司書が、谷崎の好物が盛られた小鉢を譲ったらしい。実にご機嫌だ。
「そうそう、先程は急に入って頂いてありがとうございました。そちらの冊子、預かります。有島先生もこれから食事でしょう?」
「ああ、ありがとう。でも『良く眠れましたか』って、どういうことだろうか?」
「そうデス、顔の上に本が乗っていたら、日除けにはなるかもデスが、ちょ〜っと邪魔ダト思いマスよ?」
 司書の右隣に座った小泉が意見を述べると、その向かい側の永井も頷く。
「百聞は一見に如かず。ですので、小泉先生お顔を貸してくださいますか。」
「ハイ?どうぞ。」
 口許を拭いて、体ごと司書の方へ向き直る小泉へ、司書は冊子のページ端が折られていないところを開き、被せた。ぱふ、と軽い音と風に揺れる前髪。
「小泉先生、深呼吸してください。鼻からゆっくり吸って、吐いて。」
 すう、と冊子の向こうで小泉が息を吸う。
「アッ!良い匂いがしマス!木の匂いデスね!」
 綴じた部分、ノドと呼ばれる箇所に丁度鼻の先が当たるのだが、そこで息をすると控えめな木の香りがする。
「森林浴してる気分じゃないですか?」
「ハイ、良いデスね。リラックスしマス。」
「もしかして、その匂い、夢の中で……。」
 材木の匂い。落ち着いた心地で目を覚ますことができたのは、この本のお蔭であったのか。
「それは、良い夢でしたか?」
「悪くは、無かったと思う。」
「それは良かった。折角なので有島先生用に一冊作っておきますね。」
 笑顔で言い切った司書だが、向かい側の永井と谷崎の表情は苦々しい。
「貴方、本を綴じていないで、香でも見繕って差し上げたらどうです。」
「谷崎君の言う通りだ。君、この間北原さんの詩集に香を焚き付けていただろう?あれを調合した処、良い香堂ではないか。」
「香だと火着けなきゃいけないじゃないですか?まぁ、匂袋とかポプリとか、フレグランスでも良いんですけど。」
 あれこれ言っているが、第三会派も、もう嫌というほど分かっているのだ。この司書、突如舞い降りた製本のチャンスを、逃したくないだけである。
 司書が発行する館内新聞裏面の連載は今、中期から長期の連載予定のものが多い上に打ち切りも無さそうだ。詩歌は本に束ねるほど数が揃っていないし、文士からの製本希望も出ていない。外部からの依頼も無い。文士達からのノート制作依頼も無い。
 要するに最近は製本御無沙汰だった。
「いいよ、一冊貰えるんだろう?その紙、良い匂いだ。」
「ですよね。いやあ、この製紙工場は特に、木の香りが充満していて至福の空間なんですよ。」
「オヤ、有島さん、とってもお優しいデスねえ、司書殿?」
「本当ですねぇ、小泉先生。」
 ふむふむ、と感心したような小泉と顔を見合わせる司書は嬉しげだ。有島のこういう優しいところが、たまに心配になるのだが。
「ありがとうございます有島先生、近日中にお渡ししますね。」
「うん、よろしく。じゃあ、皆さん、食事中に失礼しました。」
「いいえ。ごゆっくり。」
 踵を返すと、丁度こちらに気付いた武者小路が手を振っている。
 その方へ数歩歩いたところで振り返ると、あの本は背凭れと司書の背中の間にはさまったまま、静かに有島に背を向けていたのだった。




continue.