微睡みのホットケーキ



桜はもう春の嵐に拐われて地面に絨毯を作った頃で、外は本格的に暖かさを帯びてきた。
そんな日、潜書もない麗らかな午後に、志賀は山のようにホットケーキを焼いている。
室内に充満するのは魅惑のお菓子の生まれる匂い。
ふんわり焼き上がる生地の香り。玉子と、少しの砂糖とバニラが生クリームと共に甘く香る誘惑。
「なおや〜!やっぱりすごい!すごいね!」
「おー、そうか。お前ずっと見ていて飽きないのか?」
「飽きるの?なんで?」

図書館には喋る猫が二匹いる。
知的でしっかりとした口調の頭が良い“ネコ”と、中野曰く『猫としての頭の螺がちょっと抜けている』“ごましお”。
ネコは誰にも見掛けられない時も多いが、ごましおは司書の飼い猫として、自由気ままにこの図書館で過ごしているのだった。

「何でって……大概素直だなぁお前も。ほら、危ねぇからあんま机に乗っかるなよ。椅子、こっちにあるぞ」
「平気、へい、っ!」
「言わんこっちゃねぇ」
前足を引っ掛けていたところから、ぼてん、と猫の割に無様な体勢でひっくり返ったのとは反対に、ローテーブルの上のホットプレートには薄黄色のぽってりとした液が乗って、綺麗にぷつぷつと焼き上がりを待っていた。
「ごましお、大丈夫?」
「ん"る"る"〜……大丈夫……。それより!さねあつ、おいしい?ホットケーキおいしい?」
猫は絨毯の上から起き上がって、大きめのクッションに座る武者小路の膝に前足を掛けると、ぐん、と反動を着けて乗っかった。これで安心してホットケーキを眺められるという算段だ。
ちなみに志賀の膝にも乗っていたが『焼くのに邪魔だ』と開始早々退かされてしまっていた。
「うん、美味しいよ。焼きたてにこうやって、メイプルシロップとバターをたっぷり掛けるでしょう?」
「うん」

シロップの瓶からそのままホットケーキに垂らして、一周回し掛ける。焼きたてのフカフカが乗せたバターをじわじわ溶かして、下の方から透明になってくる。
そうやっている内にシロップの方は端から流れ落ち、狐色をもっと色濃くして染み渡って琥珀色の水溜まりになった。

「口に入れた時に、ふわっとしたところとしっとりしたところが合わさって溶けていくようで…生クリームを足しても良いだろうって思うな。」
「おいしそう!足そう!さねあつ、足そう!生クリーム!」
「よぉし、たくさん乗せよう!ごましおも食べられたら良いのに。ねぇ、志賀?」
「そう言ってもなぁ、司書に人間の食いもんは禁止されてるんだろ?」
ひっくり返された生地が息を吸うようにゆっくり膨らむのを見ながら、猫は言葉を返す。どことなく不満そうではあるが、それもまた容認しているような声だった。
「うん、だめってぇ。でもなおやのおやつ、おいしいって聞いてた。食べた気分でたのしいよ。」
小さなボウルに泡立てられた生クリームを一掬いする武者小路の手元を追いかけて、小さな頭が動く。
「お?嬉しいこと言うじゃねえか。特別にごましおの焼いてやるから待っとけよ。」
「んむ?ごましお、食べたらだめって。」
「食ったら駄目だが触ってはみたくねぇか?」
「なう!さわる!」
途端に青っぽい瞳を見開いて、瞳孔がきゅっと細くなる。武者小路の膝の上で踊り出しそうな程の喜びようであった。
「にゃ〜!なおや最高〜!好き〜!」
「ありがとな、ほら皿出しとけ。お前の皿あっただろ?」
「にゃう"」
あまりに単純な好感度の上昇である。
前足を器用に動かし皿の縁を肉球の間に挟んで、積まれた皿の一番上から白磁の豆皿を自分の前に置く。丸々とした桜の形を象った平たい皿は、最近骨董市に出掛けた永井と谷崎からの小さなお土産である。先程までごましおのおやつが入っていたが、食べ尽くした後だった。
「ごましおの他人に対する好感度は簡単に上がるね。多分明日は志賀の前なんて素通りだよ、きっと」
「こいつの場合その素っ気なさが良いんじゃねぇか。よっ、」
皿の大きさと見比べながら、ほんの少しを掬い取ってプレートに落とす。
“自分のもの”というのがよほど嬉しいのか、ごましおは二人の会話などどこ吹く風で、ホットケーキをじっとり凝視している。
「そういえばごましお、美味しいって聞いてたって、誰から聞いたのかな?」
「……んんむ?美味しいって言ってたの?たきじ!」
「そっか、小林くんはいつも美味しそうに食べるから」
小林はごましおの昼寝仲間でもあるので、恐らくその時に話したのだろう。
彼は基本的に黒っぽい服を着ていて、晴れていれば熱を吸い込んでほこほこに温まっている。それでいて日射しと日陰がちょうどよいバランスの、人気の少ないところに居るのだ。眩しくなくて、暖かくて静かで快適である。猫としては大変優良物件だ。
「そういや、もう多喜二達も戻って来るか」
「うん、そろそろじゃないかな。今日は第三会派中心に選書するって言ってたから、第二会派は午前一回で終わりだろうね」
「タネもあと一、二回で終わるし良いとこだな。武者、これラップ掛けてくれ。」
「うん、まかせて!」
ホットケーキの山がラップに覆われるのを横目に、ちゅわ、と音をさせて小さなホットケーキがひっくり返る。まだ焼けていない液が偏って、右側だけモコモコと膨れた。
「にゃ……」
「なんだ気になんのか?触るのには変わんねぇぞ?」
「ううん大丈夫。不思議〜と思ってぇ。ふくらむの。なんで?」
「確かに、なんでだろう?志賀、知ってる?」
「ベーキングパウダー入ってるからだろ。膨らし粉だな」
「フクラシコ?」
確かにとても膨らみそうな名前だ。
「なんだったか、どうやって膨らむかは司書があれこれ言ってたんだがなぁ、忘れた。重曹がどうとか。……ほら、出来たぞごましお。」
「にゃお〜!!」
直径5cmも無さそうな小さなホットケーキが、ぽとんと皿へ落とされる。ごましおには白い桜の上の狐色と山吹色の真ん丸が、とてもきらきらして見えた。こうやって触らせてもらう機会も少ないのだ。
「すごぉい!触る!」
「あぁおい!待て待て、まだ熱いから!」
「ええ〜」
「火傷しちゃうよ?きっともう少しで小林くんも来るから待とう?」
「んる"る"…」
図書館は緑と土の地面が多いので忘れがちだが、どうせ真夏のコンクリートの方が熱いのだから熱いが恐らく平気なはずだと主張したい。前足を武者小路に掴まれて万歳の体制になったまま、猫は不機嫌に低く鳴く。
肉球はついでとばかりに揉まれているし、早く小林が来ないものかと思った時だった。
「にゃお!」
「ん?何だ?」
「たきじ来た〜!あとすなお!」
「え?来たの?」
「靴の音する〜たきじとすなおの靴の音」
「するか?」
「いや、全然。さすが猫だ。」
機嫌がV字回復した猫を見ながら、最後のひとつ分のタネを流し込んだところでノックの音が響く。部屋の主が声を掛ければ、控えめにゆっくり扉が開いた。
「失礼します。司書サンから言われて来たんですけど、」
「邪魔するばい!お?ごましお、こけおったと?」
「おったとよ〜。たきじとすなお、お帰り!」
ひょこ、と身長が高い多喜二の腕の下から顔を出した徳永。
見る限りどうやら侵食もほぼ無く、無事に潜書を終えたようだった。
「何だごましお、熊本弁もわかるのか?」
「ちょっとだけ教えてもらったの〜。ねぇもうさわっていいでしょ?」
痺れを切らして、武者小路に包まれたままの手をもむもむと動かすと手のひらに肉球の感触が伝わるのか上から笑う声が降ってくる。
「ごましおのホットケーキ?」
「そうそう、触る用のやつな。触り終わったら鳥の餌にでもすればいいだろ」
「なるほど。良かったなごましお、直哉サンのホットケーキ触れて。」
「でしょでしょ〜?でもね、たきじとすなおが来るの待ってなきゃいけなかったんだから早く話を終わらせて欲しい」
「うん?なして?」
喉元を徳永が擽るので、猫はぐりぐりと頭を擦り付けて急かす。
逆にこれではホットケーキが冷めてしまうではないか。ホットケーキなのだからホットな内にこの狐色の真ん丸を触ってみたい一心である。
「焼きたてでしたから!こっち、お二人には沢山焼いたのでトッピングを自由に掛けて食べてくださいね」
「こんなに良いんですか」
「持ってけ持ってけ、お前ら食うんだから。あー、あとちょっと待っとけよ、スクランブルエッグ作るから」
ラップがかけられた山が二つ。
用意していた盆に乗せて、生クリームのボウルとメイブルシロップ、バターとジャム瓶が二個。
「武者さんも焼いたと?」
「僕はちょっとだけ。ほぼ志賀が焼いてますので美味しいですよ!」
「自信満々に言うなよ武者……。ま、中野も誘って休憩でもしたらいい。」
「ありがとうございます。……あの、武者さん、そろそろ離してあげても大丈夫かと。ごましおがすごい顔してます」
「あっ、ほんとだごめんね、ごましおもどうぞ!」
離された前足をテーブルに置くと、どんよりとした空気を纏いながら深くため息をついて一言。
「……そろそろ爪を立てようかと思っておりました。」
「わぁ、声が低い」
「ホットケーキに免じて許しましょうぞ……。」
「その口調、八雲サン?」
「ゴメイトウでござる。」
何かと小泉とは仲が良いらしい。
そうして不機嫌そうな顔のまま、右前足をホットケーキに乗せた猫だったがどうやら感触が気に入ったらしい。触った時にうっすら足跡が残ったのがじわりと戻るのを瞬きもせずに見ている。
夢中になっている猫を放って喋っている内、スクランブルエッグが出来上がって盆には皿がもう一つ。それから市販の薄切りハム十枚入りが乗っかった。
「塩っぽいのがあってもいいだろ」
「さすが直哉サン……無限に食べられます。」
「無限に……?」
「多喜二なら出来そうばい!しょっぱかとと甘かと交互やね」
「無限かぁ……。」
結構焼いたんだけれども予想以上に軽々と食べきってしまうだろうかと遠い目の白樺とは対照的に、キラキラした表情で盆を持ち上げるプロレタリアの二人。
焼きながら摘まんでいて小腹が満たされていた二人には胸焼けがする話だ。
「食べ終わったら、皿ば洗うて返しに来るけん」
「ああ、食器はここじゃなくて食堂から借りてるから、夕食に行った時にでも戻しておいてくれないか?」
「分かりました。ありがとうございます、いただきます。」
「ありがとうね!」
「いえいえ、ごゆっくり!」
「気ぃ付けて持ってけよ。」

元気に手を振って扉を閉めた二人を見送ってようやく一息。
ホットプレートは電源を切って、冷めたころに手入れをしようとコンセントも抜いてしまう。
「僕らもお茶にしようか!」
「お〜、潜書も無いしな。今日はもうゆっくりするぞ」
「ん?なおやはお昼寝する?毛布持って来てあげようか?」
「いや、いい。お前足の裏油でベタベタだろ。武者から降りる時は言えよ、拭くから。」
「んむ、はーい。」
まだ夕食までは大分時間がある。
一寝しても本を読んでもいいだろう。そんな静かな午後であった。ごましおが無断で武者小路の膝から降りてしまい、フローリングに油の足跡を付けるまでは。







- - - - - - - キリトリ - - - - - - -







「やっほー館長。」
「お?どうした?」
「ネコ知らない?」
「ネコ?さぁなぁ、少なくとも今日は会ってないぞ。どこかで寝ているんじゃないか?」
「そっか、わかった〜。」

今週の食レポを三好にせがんで、イチゴダイフクとやらを食べた気分になりながら猫は歩く。
探しビトは猫だ。ごましおと同じ喋る猫。名前は決まっていないらしいので、ネコと呼ばれている麿眉模様で筆のような尻尾の猫。
名前、司書が付けてあげたらいいのに、と言ったら毛を逆立てて逃げたネコ。ヘンテコな名前を付けられて堪るかと失礼な事を言っていたが、ごましおは勝手に“戦友”としている。

閉架の中でも一時非公開の本が並ぶ部屋へ向かう。少し表紙が破れてしまったり、糸綴じの本がバラバラになったり、そういった本を出来るだけ直して開架へ戻すための補修待ちのものや終わった本が納められているのだ。
ここは鍵が掛かっていないし、ドアノブはレバータイプなので頑張れば猫でも開けられるドアだった。

部屋の前に到着してみれば、案の定扉が細く開いている。
体で押し開けて奥へ行くと小さな出窓の下に椅子が置いてあって、その出窓のところに小振りなクッションが並べてある。一般開架の司書が作ってくれた、猫とネコの昼寝ベッドだった。
「ネコ〜?」
はみ出て下にだらんと垂れた筆のような尻尾を叩きながら声を描けると、ぶん!と一振りして仕舞い込んだ。
「おもしろぉい。」
「面白くニャイ。折角の昼寝日和になんなんだお前は」
「一緒に寝ようと思ったの!なのにひどくない?!」
「酷くニャイ!」
「んにゃ〜。」
椅子を台にして飛び乗ると少し端に詰めてくれるところが、ごましおはとても好きらしい。口では素っ気なくても優しいのである。
「超いい天気!」
「寝るなら早く寝たらいいだろう。」
「いけずやな〜、ちょっとはお話とかしよ。」
「……また文豪の真似をしてるのか。」
「ゴイリョクとやらを増やすのよ〜。お手本たくさんいるからさ。」
明らかに黙る気を見せない猫に観念したのか、ネコはため息を吐いて面倒そうな顔をしながら返事を返してくれた。
口語を真似すると笑って意味を教えてくれる文豪は多いので、しょっちゅう猫は鸚鵡返しをしているのだ。
「最近は何を覚えたんだ?」
「芥川賞ください!」
「太宰は一昨日来たばかりだろう何をやっているんだ?!」
「お喋りたくさんした!」
「頭が痛い気がするぞ……言うならば人は選らばニャイとな……。」
「なんで?ひろしはおやつくれたもん。」
なぜそんなに得意気なのか。
何を太宰から聞いたのか知らないが、創設者に突撃していったらしい。
子細諸々をなんとなく察した菊池は芥川賞と称しておやつを与えた訳だが、普段あまりおやつをくれない人間から貰えたのが嬉しかったのか、しばらく言いまくるであろう。佐藤辺りに被害が及ぶ前に司書が気付けば良いのだが。
「ひろ、……お前菊池寛を『ひろし』で呼んでいるのか。」
「どっちでも良いって司書に言ってた。としかじぅ……としか、ずもだよ。」
「言いにくいのならば『りいち』にしたらいいだろう。」
「だめ。」
「はぁ、じゃあ名字があるだろう。常々思っていたが何で下の名前を呼ぶんだ?」
全ての人間を下の名前で呼んでいる。しかも呼び捨てだ。
半年ほど前に転生した武者小路が『さねあつって呼ぶね!』と言われて少し面食らっていたのも記憶に新しい。
放って置くと司書から実名を聞いて実名の名前で呼んで来たりもするし、気に入らなければ早々に呼び方を申告するのが得策であるのだが、そもそも何故なのか。
「昔ね、司書の家に居たときに、教えてもらったの〜。家の名前は家族でみんな一緒でしょ、後の名前はその人の名前なんだって」
「ふむ」
「ごましおさ、皆の先輩でしょ、だから下の名前で呼ぶの、気軽にお喋りしたいから!」
先輩に対しては気が引けるだなんて人間の事情をよく知っているなとは思うものだが、ごましおは何度も言うが猫なのでその先輩には当てはまらないのではないか。
だが確かにネコより猫のほうが文士との距離は近い気がする。
「吾輩も下の名前で呼んでみるか……。」
「なになに!好きな人でもいるの!だれ!?」
「誤解を招く言い方をするな!」
「ええ、だって、仲良くなりたいんでしょ、好きじゃないの?」
「いや、まぁ、単語の意味としては間違ってはいニャイが……。」
「んんむ?じゃあ好きで合ってるじゃん。で、だれ?」
不味いことを口走ってしまったものだ。
ネコとしてはそんなに、ましてやごましおのように積極的に仲良くなろうとは思っていない。ただまぁ少し、たまには構ってほしいくらいで。
「…………室生だ。」
「な〜んだ、さいせいかぁ。さいせいは喋らない猫のが好きなんだよ。」
「そうなのか……。」
途端に落ち込んだような雰囲気になったネコに、ごましおは慌てた。これはもしかして司書としげはるが言っていた“言ったら駄目なやつ”であったかもしれないと気付く。
「ででででも!ネコは頭良くてかっこいいと思うから!名前呼んだら仲良くなれるかも!」
「喋ること自体が苦手なのであれば如何ともできニャイだろ。」
「お、おお"お"にゃ〜……。」
取りつく島が無かった。猫は脱力してネコの腹へ顔を埋める。賢いネコには口ではかなわないのだ。ごましおが勝てるのは体重位かもしれない。

抵抗されないのを良いことにネコを巻き込んで丸くなる。
「ごめんね、司書に喋る前にちょっと考えなさいって言われてるのに失敗したみたい。」
「別に気にしていニャイ。それに、室生は前に飼い猫がいたからな、基準があの猫なのだろう。当たり前だ。」

本当に気にしていなさそうではあるが、ごましおへの態度も図書館を縄張りにしている他の猫とは違う。仲良くしてくれるし良い人間であるが何故だか寂しくなるときがあった。
人間の心はよく理解が出来ないところもあって、その度に司書に尋ねたりしていたが、こればかりはどうしようも出来ない。室生犀星の心の内は、室生の物だ。

「確かに、そうかも。ごましおだって、ブサイクじゃないとは思うけど、あの子はきっと特別でしょ、ごましおもかわいいなって思う。きっとさいせいのこと大好きだったからかな。」
「だろうな。」
「いいなぁ、ネコもごましおもいるんだから、あの子も図書館に来れたら良かったのに。」
「…………」

そうしたら三匹で昼寝をして、皆と遊んで、おやつを食べて、幸せな生活をしたいね。
ネコの腹でモゴモゴと喋る、その声が小さくなって滑舌が悪くなって、最後は消えた時に、ネコはようやっと返事を返した。

「所詮、夢だな………。」












つづく。