夏油君は優しい人だよ

 4月17日、日曜日、大安。
 本日はお日柄もよく、クッキーを焼くには程よい一日といえるでしょう。

 予熱したオーブンに型を抜いたクッキーを入れて、タイマーをセットする。テーブルを拭いたり洗い物をしたりして作業を進めると、だんだんクッキーの香ばしい甘さがダイニングに広がる。なんとも幸せな香りだ。
 焼き上がりを少し冷まして一口齧れば、優しい甘味が口に広がった。脆く軽くほろほろと崩れるそれは歯触りも良いが、少しボソボソしているとも言える。
 エマが淹れてくれた紅茶でリセットしてから、真波はふぅと息をついた。

「美味しい〜」
「こんなに美味しいし、ドラケン君にも渡せるよ」
「いや、今回は初めてだしナミもいたし、たまたまかもしんない……」
「ならまた来週にでも作ろっか。エマの気が済むまで付き合うよ」
「ナミ〜〜〜っ!!」

 キラキラと潤いを宿した目に「んな大げさな」と真波は苦笑した。

「でもさぁ、ナミってほんと何でも知ってるよね」
「何でもは知らないよ」
「いやいやいや。今日のクッキーもそうだし、料理とか化粧とか全部ナミから教わったんだよ?」

 エマは小学生の頃から両親のいない代わりに、ある程度の家事や料理を担うようになった。それもこれも、包丁の持ち方から簡単な一品の作り方に至るまで何度も実演しながら教えてくれる存在がいたからだ。
 エマはドラケンに想いを寄せてから、もっと可愛くなるため自己研鑽に励むことにした。なけなしのお小遣いをはたいては、買ったプチプラの化粧品でテイクアンドエラーを何度も繰り返す。そうしてようやくナチュラルメイクを施せるようになったのは、友人のご指導ご鞭撻の賜物といえよう。

 そんな指導者である真波のことを、友人でありながらどこか姉のようだとエマは感じていた。

「そうだね。なんか、なんとなく分かるというか。何でだろう……」

 片や、そんな小此木真波には違和感がある。
 物心ついた頃から教えられずとも洗米ができ、基礎的な調理法を知り、漢字や算数の知識を持ち、メイク道具に心当たりがある。
 特に料理に関しては顕著で、調味料の“さしすせそ”も知っていれば食材の下処理法もなんとなく分かる。
 ほうれん草は茹でてアクを抜くこと、その際塩を加えると色が鮮やかになること。キノコは風味が落ちてしまうので水洗いはしないこと。アルミホイルをぐしゃぐしゃにしたらタワシの代わりにゴボウや生姜を洗えること。
 学んだ記憶も見聞きした記憶もないというのに、元々知っていたかのように予め脳内にインプットされている。それが、真波自身も異様だと感じていた。

 まるで、自分の知らない記憶の外側で、知識を積み重ねたようだ。

「ま、ウチは助かるからいいけど!」

 そんな真波の気がかりも、エマの一言で一蹴された。

「放課後は厳しいし、また来週の土曜でもいい?」
「もちろんです」
「急に礼儀正しくなるじゃん」
「来週は夕飯も食べに来てくれるんだよね!」

 真波がいつぞやにマイキーと交わした約束である。
 もちろんちゃんと果たすし、万が一反故にでもしてしまえばマイキーが手に負えないほどグズるだろう。それは避けたい。

「うん。何曜日でもいいけど、エマは希望ある?」
「水曜がいい!」
「了解」

 いつもは母の夕食作りを手伝っているので、前日に日持ちするカレーを作った方がいいな、などと思案に耽る真波にエマがおずおずと口を開いた。

「ねえナミ、学校大丈夫?」

 その一言に真波はキョトンと瞬きを繰り返した。

「大丈夫だけど……どうしたの?」
「いや、なんか変な噂立ってるから……夏油君とかに変なことされてない?」

 以前から真波は誹謗中傷の的になっていたが、数日前から突然うそぶくバカの数が激減するではないか。もし折れ線グラフで示せば、キレイな急勾配の山が出来上がっていることだろう。
 そうして代わりに囁かれ出したのは「夏油君はヤバい」「実はヤクザの息子」「小此木真波に手を出すな」なんて言葉の数々。夏油の悪評が真波にまで飛び火しているようなのだ。
 エマにはその真偽が掴めずとも、あの貼り付けたかのような“外面だけです”と言わんばかりの笑みを思い出せば、あながち間違いでもないような気がしていた。ろくでもないヤツなんじゃないかと思っていた。

 とどのつまり、佐野エマは依然として真波のことを案じていたのだ。

「うん。夏油君は優しい人だよ」
「それさぁ、ナミが優しすぎるからそう思うんじゃないの? 夏油君、だいぶ怪しいからね?」

 ──少し、言いすぎたかも。
 エマは咄嗟に反論するも、後になって僅かに反省していた。
 真偽もハッキリしない噂で、エマの憶測だけで、真波の交友関係に口出しするのは良くない。心配だからといって、そんなつもりないのに、真波を責めるようなトゲのある言い方になってしまった。

 しかし、そんなエマの懸念を察して、真波は優しく微笑みかけた。

「心配してくれてありがとう」

 いつだって真波はエマの真意を、しっかりと理解していた。
 エマが空回りしても、その行動の意図をちゃんと汲み取ってくれる。エマが語勢を強めてしまっても、そのトゲをちゃんと抜き取ってくれる。
 かれこれ五年以上の付き合いになる真波と一度も喧嘩をした事がないのは、そういった真波の性格がエマを丸くしていたからだ。
 そんな真波の聡明さに、エマは何度も救われていた。

「大丈夫だよ、夏油君はそんな人じゃない」

 どこか遠い目でそう呟く真波をエマは静かに見つめ、冷めた紅茶で喉を潤すのだった。







 4月18日、月曜日、赤口。
 本日はお日柄も悪く、クズと会うには程よい一日といえるでしょう。

 放課後、教室を颯爽と出た家入は、校門前で合流した五条・夏油と共にカフェへと立ち寄っていた。
 クズといたがために面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。彼らとの接触は、学校生活を穏便に暮らしたい家入にとって天敵となり得るものだった。

 まるテーブルに三人、向かい合うように腰を置く。四人がけのテーブルは満席のため、急ごしらえの三人席である。
 注文したパフェが届いた五条は、パクパクと口に運びながら夏油を見た。

「ていうか全然青春できてないんだけど」
「そりゃクラスも違うし」
「佐野の存在も大きい」
「別にソイツと縁を切れとは言わないよ? でもさすがにずっといすぎでしょ。なんなの、カルガモの親子じゃないんだからさぁ」
「はは、だいぶやられてるな」
「も〜〜〜なんとかならないワケ?」

 不満を漏らす五条に、コーヒーを嗜んでいた家入が一言口を挟んだ。

「なら部活にでも誘えばどうだ?」

 部活。
 前世ではあまりに馴染みがなかったので、選択肢から自然と排除されていた学校習慣の一つ。立派な教育の一環であり、生徒の正当な権利であり、放課後に同志と行動を共にする、青春の醍醐味である。
 繰り返し言う。
 青春の醍醐味である。

「それだ」

 仲間と努力して一所懸命に活動する。放課後共に過ごす、最も筋の通った理由にもなり得る。
 佐野エマから取り上げるつもりはないが、少しくらい真波の時間を分けてもらってもいいだろう。

「硝子天才じゃん」
「今更か?見る目ないな」
「どこの部活に入るんだ?」
「いーや、作る」
「部活ってそんな簡単に作れるものじゃないだろ」
「まあ大人俺ら三人が知恵絞ったら何とかなるでしょ」

 前世で学生相手に教鞭をとっていた五条は、部活動にはまるでとんと縁がなかった。

「で、何部?」
「何だと思う?」

 五条の逆質問に家入は「だりぃ〜〜」と白旗を上げた。

「真波を呼び込むにはこれしかないと思ってる」
「……もしかして“アレ”か?」

 夏油の顔が引き攣るのに対し、五条は笑みを深め頷いた。いつの間にかパフェも佳境を終えて、下層のクリームやらゼリーやらを小気味よく口元へ運んでいく。

「その名も『映画研究部』で〜す!」

 ドンドンパフパフという陽気な効果音が聞こえてきそうだ。いつにも増してハイテンションな五条の提案に、二人の表情はより引き締まる。

「真波と映画か……」
「チョー渋るじゃん、ウケる」

 というのも、真波が好む映画は総じてクセが強いのだ。どこから掘り出してきたんだ?と突っ込みたくなるような映画を何本か共に見ては、時間をドブに捨てるような思いをしてきた。
 そんな三人は顔を合わせ「映画は順番に選ぶようにしよう」という夏油の注文に頷いた。

 夏油も家入も映画は嫌いじゃないし、現世では十分すぎるほど時間が有り余っている。四分の一の確率でハズレが混ざり込むとはいえ、暇つぶしに見るのもまあ悪くないし五条の提案を蹴る理由はない。

「部の発足に関しては明日僕が聞いとくよ」

 こうして発案した映画研究部は、わずか一週間で映画研究同好会として爆誕することになる。それはまた別の話。

「そういや真波の方はもう大丈夫そうだけど、そっちは何があったわけ?」
「ああ、イジメの件か」
「そうそう。傑、オマエ今なんて言われてるか知ってる?」
「親がヤクザ、性格悪い、腹黒、狂ってるは聞いたな」
「親がヤクザ以外大体合ってるな」
「宗教組織乗っ取れるんだし子どもがヤクザと同率でしょ」
「一理ある」
「君らちょいちょい酷くないか?」

 オイオイと言いたげな夏油は、とはいえまあこの二人だと割り切ってそれ以上物申す事はなく。代わりにぬるいコーヒーで喉を潤した。
 ミルクを注いで混ざり切ってないそれは、口内で苦味とまろみがアンバランスに溶け合う。

「移動教室の時に、イジメの主犯格数人が教室へ引き返すのを見てね。怪しいからついて行ってみたら真波の弁当をゴミ箱に捨ててたから……つい、ね」

 その先の言葉を、五条と家入が聞くことはない。まあロクでもない言動を起こしたんであろう、その一言で片付けることにした。

 夏油は転生して己の考えを少し改めた。
 この世界は呪霊が存在しない世界だ。呪力は存在するが微々たるものであり、夏油も含めた全人口が非術師の世界。非術師を嫌う理由はもうない。この世界で五条と出会いその事実を知った時、彼は大きく肩の荷が下りたような心地がした。
 しかし真波と接点をもってから、夏油の認識はさらに変わることになる。
 夏油はクラスの中では特に真波と親しくした。もう非術師を憎んではいないが、興味も関心もないのだ。必要以上の接触をとる気もなかった。
 真波とは運良く席が隣同士ということもあり、佐野エマが来ない移動教室や昼食の時間、また授業中の些細なタイミングでここぞとばかりに話しかけた。
 そうしてコミュニケーションをとっていれば、なるほどなるほど。何をどう勘違いして思い上がってしまったのか甚だ不思議でならないが、真波に対して嫉妬の目を向け口を曲げる者が増えていく増えていく。
 あえて本人に聞こえる程度の声量で、嘲り笑う声が夏油の中で木霊する。

 ──ああ、そうか。全員非術師でも、呪霊が存在しなくても、醜い心の猿は存在するのだ。

 まさに掃き溜めに猿、野放しにして真波に被害が及ぶ前に駆除しておかないと。学校なんて所詮、教師の内申点を稼ぎ元高専のメンツで青春をやり直せたら、それでいい。

「で、そうこうしてたら真波も来たんだ」
「役者が揃ったな」
「それでそれで?」
「全員の顔に一発ずつ拳入れてたよ。いやぁ、あれは重そうだったなぁ」
「真波らしいわ」
「食べ物の恨みは怖いねぇ」
「久しぶりに呪術師だった頃の真波を思い出したよ」

 無意識か意図してか、軽く呪力の込もった拳に当てられる彼女たちの、それはそれは悲惨なこと。机やイスを巻き込みながら映画のCGを想起させる吹っ飛び具合に、夏油は思わず貼り付けた笑みが崩れ真顔になった。
 相手の頬はひどく腫れ、目に涙を浮かべながら萎縮している。想像を絶する痛みによる驚きと恐怖が瞳の奥に宿っていた。
 勝敗の帰趨はもう明らかだ。

「で、最後は取り巻きのヤツらに警告してその場は丸く収まったよ」
「いや尖りすぎでしょ」
「真波は何て警告したんだ?」
「『これに懲りたらもうやめとこうね』だってさ」
「はは、おっかねー」

 家入と五条は軽薄な笑みを浮かべる。
 まあいじめっ子の自業自得だ。同情の余地はない。夏油の話に二人は合いの手を挟みながらも野次馬精神で楽しく傾聴した。

「だから真波の噂もたってるわけね」
「ああ。それでも私の噂の方が大きいようだ」
「モテ男がクズだとバレたらそりゃな」
「真波と傑ではニュースのインパクトが違うだろ」

 五条のもっともな指摘に、人気者は大変だなと家入は呟く。そのまるで心のこもってない声色に、心底どうでもいいといった感じが伺える。
 そんな二人の言葉に、それもそうかと夏油は澄ました顔で息をついた。
 こういうのは早い段階で出た芽を潰したほうがいい。これで良かったのだ。
 弁当を捨てる瞬間もしっかり写真に残したし、オオゴトにするなと脅しも入れておいた。
 やるべき事はやったから、もう大丈夫──



「私は大丈夫だから、夏油君が手を汚す必要はないんだよ」

 真波からそんな言葉をかけられたのは、いじめっ子達を撃退した後の事だ。このままサボろっかと鶴の一声が夏油にかかり、二人は屋上前の階段で腰を下ろしていた。屋上は封鎖されてるので、ここは最も人通りが少ない場所だと真波は言う。

「でも私が関わってイヤな思いをしただろう?すまない……」
「いや、それはあの人達が悪いだけ。夏油君が謝る事じゃないよ」

 ごもっともだ。百点満点。
 全くもってその通り。
 しかし、そんな事が言える中学一年生はなかなかいないだろう。やはり記憶はなくとも彼女は小此木真波なんだと、関わるほど夏油は痛感してしまう。

「どうして夏油君は、そこまでして私と仲良くしてくれるの?」
「それは……」

 “そこまでして”という言葉には、先程夏油が先ほどしてきた蛮行のことを指すのだろう。正義感を振りかざすどころか目に余るような狼藉を働いてまで仲を繋ぎ止めようとした夏油に、真波は疑問が湧いたらしい。
 まあ、〜五条悟プレゼンツ・あの頃の青春をもう一度〜の実現に向けているからだが……馬鹿正直に前世のことを話せば真波も混乱するだろう。
 もう少しそのことは伏せた上で、真波とは仲を保ちたい。

「友達と仲良くなりたい気持ちに、理由なんて作りたくないな」

 そう困ったように笑えば、真波は申し訳なさそうに謝罪を述べた。
 持ち前の口巧者くちごうしゃで真波の疑問を躱す夏油は今日も平常運転である。そんなどこ吹く風な彼に対し、真波の言葉が水を差す。

「でも安心して。こんな下らないことで突き放したりなんてしないよ」

 夏油君の気持ちに失礼だから、そう微笑む真波を見て夏油は息がつまった。

 ──突き放したのは、私の方だ。

 そんな言葉を飲み込んで、彼は弱々しく笑う。
 背後にそびえる鉄扉てっぴの換気口から入り込む風が、二人の隙間をくすぐり抜ける。まるで春の柔らかな風が、夏油の抱えるほろ苦い過去を撫でるようであった。


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