生命の息吹

亀裂が入ったたまごを瞠目する花京院。それを見て女は疑問を浮かべるだけだったが、異変に気づくのはそう遅くなかった。

「どうかしたんですか?」
「え、ああ……」

花京院はたまごにひびが入っていることを女に伝えるべきか悩んだ。いずれは割れるだろうし言うのが最善かと考え口を開く。
女は事情を知り驚いたようにたまごを傾けた。その反動がさらに大きな亀裂をうむ原因になったことに花京院は気づいて肝を冷やす。割れ目からうっすらと光が放たれているのを視認した花京院は、緊張で胸が膨脹しているようだった。亀裂は次第に大きくなり、女が両手のひらにたまごを乗せる頃には場にそぐわない眩しい光を放っていた。
舟に乗る生き物は、ぐうと呻き顔を背けた。男の人は目を細めながらも卵からは視線をはずさなかった。今願いを囁けば、叶うかもしれない。そう素早く悟った私は、両手で卵を包み込んだ。
――このお兄さんが、どうか無事に現世へ戻れますように
目を瞑り、祈るかたちでそう言った。するとしだいに卵は亀裂を生んで割れ、光は弱まっていった。瞼で完全に光を感じないようになってから、私はゆっくりと目を開けた。手の中にあった卵は粉々になっており、さらさらとこぼれ落ちている。男の人は自分の胸に手を当てて驚愕していた。きっと、卵が願いを聞き取ったのだろう。黄色い光は男の人の胸に入っていったのだと思う。私がのんびりそんなことを思索していると、舟に乗った生き物は顔を上げた。

「お前さんたちにここはまだ早い。帰りなさい」

生き物のしわくちゃの人差し指が、私たちの後ろをさした。お前さん“たち”ということはまさか、私も帰れるのだろうか。彼は卵に願いを込めたからきっと帰れると思うけど、私も…?男の人を見るとぱっちり目があった。男の人はぱちくりと瞬きをして私を見ている。そんな彼を見て、私は頬の筋肉が弛緩するのを感じた。

「よかった」

嬉しい。またお母さんとお父さんがいるあの温かな家庭に、帰ることができるのだ。
しかし私の予想とは裏腹に、男の人はそれに渋りをみせた。眉を少し下げ、男の人は言った。

「僕はかなり負傷している。重傷を負ったんだ。戻れたとしても、生死の境を一生さ迷うことになるかもしれない」

帰った方が、もっと辛い思いを味わうことになるかもしれない。吸血鬼にどのように倒されたのかは知らないが、確かに死んでおく方が楽な方向に傾くかもしれない。周囲の人間も、もっと辛い想いを抱くかもしれない。でもその意思表示は自殺とまったく同じだ。彼はここに留まろうと、自殺しようとしている。

「お兄さんの仲間達を、悲しませることになるよ」
「生きていれば、もっと悲しませるかもしれないんだ」
「でも私は、諦めてほしくないです」
「何勝手なことを……」
「自らの手で、自分の命を絶ってほしくないです」

ーーお兄さんはすごく強い吸血鬼に勇敢に立ち向かった。その想いを次は自分の命に、向けることはできませんか?
自分勝手なことを言っているのは分かっている。彼がどれだけ複雑な事情を抱えこんでいるかも詳しく知らないし、知っていることはそれで沢山の大きな傷をもったということくらいだ。それでも、私は精一杯生きてほしいと思ったのだ。
会話の一部始終を舟の上で聞いていた生き物は、口を開いた。

「もう少し歳をくってから、出直してきなさい」

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