幸福の孵化

ハンカチを巻くとまた鳥は目を瞑り夢の中へと溺れていった。とりあえずなすこともない私は、なんとなく気になったさっきの男の子の所へと足を向けた。

「ねえ、何を描いてるの?」
「君には関係ないだろ」
「あ、あの木を描いてるんだ」

水道付近にある大木が鮮明に描かれていた。木の表面の凹凸、葉が空との境界線を縁取る繊細さ。とても10歳にも満たない男の子が描いたものとは思えなかった。お世辞抜きで上手い。
彼はふと私の抱えた鳥を見て言った。

「その鳥、珍しい色だな」

キャンバスから鳥へと視線を移した。悠々と眠るこの鳥は、青い体毛をもつのだ。それも、今みたいに初夏の青々としたいろだ。ほんのりと青が息ずいている程度なら珍しいとは私も思わなかっただろう。

「空と同じ色だね」
「……あそこ、少し黒くなってないか?」

男の子がそう言って斜め上を指差す。そこには小さな黒い点が一つ顔を覗かせていた。まるで空の色が抜け落ちてしまったかのように。最初は見間違いか何かだと思ったが、いくら焦点を合わせて凝視してもそれは消えることがなかった。

「空の割れ目みたい」
「……空の割れ目?」

そう男の子が口にした刹那、私が両手で抱えていた鳥は身じろぎを始めた。頭にハンカチをこすりつけているのは、外してほしいという意思表示なのか。私がハンカチをほどくと、火傷の痕が残っていない綺麗な青い羽を見せた。
――おかしい。
介抱してから1時間も経過していないというのに、なぜ火傷の痕が消え去った?自己回復でもしたのだろうか。しかし、そういえば私がハンカチで拭った時よりも体毛の汚れは消えている。さすがに毛にこびりついた汚れをとることは不可能だろう。彼も私と同じようなことを思っていたのだろう。口を小さく開けて固まったまま鳥を見ている。
鳥は私に少し頭を下げてから、羽を広げて飛び立った。空の彼方へと羽を上下させ、確かに私は見たのだ。その鳥が空の一点、黒い部分にすっぽり身を収めたのを。その後すぐに雲によって隠されてしまい、次見た時はどこに身を埋めたのかも分からないほど青い空がただ広がっていた。

「……すごい、さっきの鳥は空の破片だったのかな」

男の子を見ると、まだ放心状態に至っていた。無理もない、今ここで、世界の常識や理を覆すような不可思議な現象が起きたのだ。
ふと周囲に見ていた人がいたのではないかと視線を右往左往するも、そういった人はいないようだった。マクドの紙袋を片手に歩くおじさん、買い物帰りの主婦、皆空には目もくれずに真っ直ぐ前を見据えていた。こういった人達は常識を当たり前と思い込み、信じて毎日を送っているんだろうなと思った。
これは私たちしか見ていなかったのかもしれない。そう思った瞬間、私は帰り道へと繋がる細道の奥から、筆を滑らせたような光が伸びているのを見た。
――もしかしたら、今なら行けるかも。
私はそう思わずにはいられなかった。

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