Hello, regular customer

マスター本名トーマス・ジョンソン

メリーは週に5日アルバイトをこなして生活費を得ていた。学生でもないためいわゆるフリーターという扱いになる。すぐに金が必要な状態だったので致し方ないとはいえ、そろそろ定職に就きたいとは思っているこの頃。

週に2日訪れる休日は遊ぶ目ぼしい友人も特にいないため、一人で過ごすことがもはや日常となっていた。その上家からバイト先までは徒歩10分の距離にあるため交通機関を使用することもないので、一人暮らしでも余裕を持って切り盛りすることができる。

メリーのアルバイト先は待ち時間の長い大通りの信号を渡った先にある。扉の前にかけてあるアンティーク調の看板が特徴的なカフェで、ランチとディナーも行っているため店内には常に客で賑わっている。メリーが勤めているこのカフェは特にコーヒーが絶品らしく、通の間ではよく話題に出る店だ(ただし人間に限る)。ランチやディナーは様々な顔ぶれの客が訪れるが、夕方の4時くらいになるとコーヒーを飲むために常連が顔を出すことが多い。一年近く働いているメリーは常連の顔をよく覚えていた。昔から人の顔や名前を覚えることには自信があったのだ。

今日もアイロンをかけてパリパリになったシャツの袖を通し、髪の毛を結い、全身鏡の前で不備がないかチェックする。

ーーうん、良好。

笑みを浮かべたメリーは、靴を履き替えてタイムラグを押した。

「おはようございます、店長」
「ああ、おはよう」

白髪が目立つ老人がこの店のオーナーだ。今年で還暦を迎えるらしい。メリーは店長に一礼して店内を見渡す。

ーーこの開店前のどこか物悲しい空間が心地いい。

自然と頬が緩ませるが、静寂(しじま)に酔う時間はない。メリーは窓を拭く手を早めた。


***


「300ゼーロお預かりしましたので、30ゼーロのお釣りです。ありがとうございました」

太陽は西へ沈もうとするであろう時間。それでも窓は茜色の空を映すことはない。空に広がる分厚い雲は太陽の光を遮るためか、夕方の5時でもう街灯が灯り始めていた。夕飯より少し早い今は一番すきやすい時間帯でもあり、店内に空席が散らばっていた。こんな景色もすっかり見慣れてしまったメリーは、せかせかと空いた席の処理をしていると軽快な鐘の音が店内に響いた。客が来たのだ。

「いらっしゃいませ…あ、スティーブンさん」
「やあ、席は…あいてるようだね」
「はい。あいてる時間にいらっしゃいますから。お好きなお席へどうぞ」
「ありがとう」

スティーブンさんはこの喫茶店の常連客である。

「また"いつもの"もらえるかな?」
「かしこまりました」

私もマスターも、スティーブンさんの"いつもの"ものが何か知っている。いや、スティーブンさんだけではない。常連客がよく注文するメニューはあらかた知っているつもりだ。注文を受けマスターはコーヒーミルのハンドルから手を離した。

「お待たせしました」
「ありがとう」

二人の間にかちゃりと小さな音がたった。

「それにしても、君はよく僕の名前と頼むものを覚えてるな。確かまだ3ヶ月ほどしかたってないだろ?」
「いえ、明日でちょうど4ヶ月ですよ。でもそうですね、人の名前や頼むものを覚えるの、得意みたいです」
「3ヶ月も4ヶ月も大して変わらんさ。そうか、いい特技だ」

このカフェで働き始めてから、約4ヶ月。客に褒められたのは今日が初めてだ。素直に受け取り、お礼の言葉を交わす。

「相変わらず良い香りだ」

目を閉じてコーヒーの香りに集中するスティーブンさんは、とても色っぽく見えた。

ALICE+