五月十五日。晴天。
 鯉のぼりは空を泳ぐし、店先にはイチゴが並ぶし、眠たげな柔い風が髪先をつつく、そんな季節。
 インターハイ予選まで一ヶ月を切り、部員の眼差しも真っ直ぐバレーボールを見据える頃。そんな時期に“これ”を出すのは躊躇われるが、ノイズがいる事で宮侑の負担になるわけにはいかない。
 放課後の掃除当番を終わらせた私は、記入を終えた一枚の用紙をファイルからぴらりと掬い取る。

 ───退部届け出そう。

 少し駆け足ではあったが、一年生へ仕事の引き継ぎも順調に終わらせたところだ。あまり長く居座るのも良くないだろうし、頃合いだろう。
 今日いっぱいで退部して、これからはいつも通り応援席に戻るだけ。ほんの数週間ではあったが、みんなの練習風景を間近で見れて、少しでも助力できたと思う。朝早く起きるのも、夜帰ってから宿題をこなすのも、大変だったけど満たされる充実感があった。
 胸中に眠る少しの寂しさは、このままそっとしておこう。

 そう教室を出て、階段を降りようという所で元気な声に呼び止められた。

「宮くん、どうしたの?」
「ほんまに今日で部活辞めるん?」
「うん。短い間やったけどありがとうね」

 足早に駆け寄ってくる宮侑を見つけ、ふと立ち止まる。
 
「なにがありがとうやねん……篠原はこれで終わりでええんか」
「え?」
「ほんまはもっと続けたいんやないん」
「いやでも、宮くんの本意じゃないでしょ」
「俺やない、お前の気持ち聞いとんねん」

 宮侑の真っ直ぐな瞳が私を貫く。
 いやとか、でもとか、だってとかじゃなくて、私の気持ちを素直に言ってもいいらしい。
 ずっと蓋をしていたと言うのに、どうして言葉にさせようとするのだろう。キャラメリゼにこんこんと亀裂を入れるようなこと、しないでほしい。

「私は──まだ、続けたいです」

 少し声が震えていたかもしれない。
 潔く諦めたい気持ちがどうしても宮侑の目から逃げてしまう。そっと俯き気味に、細々とした声量で、とうとう口から出してしまった。
 あーあ、もう宮侑のせいなんだ。
 “みんなが元に戻るまで”と期限を決めておいて、“女マネなんかいらん”と愚痴を垂れておいて、寂しい気持ちが色濃くなってしまうのは全部宮侑のせいなんだ。
 本当に身勝手で、でも本当に宮侑らしい。
 そして、非常に残念なことに、そんな宮侑のことを私は案外嫌いじゃない。

「続けたらええ」
「…………えっ」
「俺は篠原がマネージャーなら文句ない」
「も、もしかして洗脳された……?」
「されてへんわ!失礼やな!」

 真面目な顔をしたかと思えば、ぐわっと早口で言い返してきて、宮侑の表情は本当に豊かだ。それにしても、まさか私の存在を彼が認めるとは思いもしなかった。頬っつらを平手で打たれるような驚きが私の奥に燻っていく。
 今に至るまでどういった心境の変化があったか、私には知る由もない。けれど彼の言葉が嘘や出まかせではないことも確かだ。

「で、どうやねん」
「えっ」
「マネージャー続けるん?」

 少し唇を尖らせた彼の目を、今度はしっかりと捉える。宮侑が認めてくれるなら、そりゃあしたいに決まってる。少しでも彼らの試合を近くで浴びれるチャンスだ。私にできる雑用ならなんだってやる。
 答えなんて一つしかない。

「これからもよろしくお願いします」
「ほなこれはもう要らんな」

 クリーム・ブリュレの天蓋が割れる。
 私の手から奪い取った用紙を、ビリビリと真っ二つに割いていく。しかし真っ二つには至らず、ほんの少し破り目が進んだ所で突如斜めへ進行方向がズレていく。真っ二つにするよう舵を取るのはなかなか難しいらしい。まっすぐ下への到達は叶わず、歪な三角形を作る形で千切れてしまった。
 かっこいいこと言ってるのに行動が伴わないギャップがおかしくて、思わず吹き出した。

「破るん下手くそやなぁ」
「うっさいわ!これはもう捨てとくからな!」

 破るん下手ってなんやねん、上手になる必要ないやろ、なんてやかましい声に沸々と笑いが込み上げる。確かに、と言おうとして、
 
「───────」

 息を吸って、声を出す刹那、咄嗟に喉元でつっかえてじりじりと焦げる。
 宮侑の背後から、顔色の悪い女子生徒が足早に近づいてくるのを、視界の端に捉えてしまった。彼女のことを私はもちろん知っている。宮侑が私をマネージャーにした原因であり、顧問が話をつけたはずの彼女が、目を血走らせて駆け寄ってくる様に、私の脳裏に警鐘が響く。
 咄嗟に宮侑の背後へ回るように立ち、彼女と対面する。彼女に背後をとらせてはいけないと直感が告げたのだ。

「お前のせいで全部失った!お前のせいで!」
「あ? 奪おうとしてた奴が何言うとんねん」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて」

 尋常じゃない形相で激昂する彼女を、とにかく近づけまいと必死に取り押さえる。ガクガクと肩を揺さぶられ、その場に立っていることで精一杯だ。私の後ろで宮侑は額に青筋を浮かべているのだろう。放課後の学生行き交う階段も静まり返って私たちを見ている。
 非常にまずい。彼女をまず鎮めないといけない。なぜなら、私たちは階段の手前に立っているのだ。

 必死に宥めようとする私の声など耳に入らないのだろう。お父さんとお母さんを返せとかなんとか、そうヒステリックに叫びながら彼女は私の横から宮侑へと手を伸ばそうとする。いや、愛香ちゃんのご両親とは面識ないと思うんやけど……。
 それでも、一つだけ確かなことがある。

 ───この手は決して宮侑に届いてはならない!

 私は咄嗟に宮侑を階段の反対側へ押し出して、それでも続く彼女の猛攻に踏ん張りが効かず宙を浮いた。一瞬の浮遊感に恐怖心が私の全身を駆け巡るが、そんなの重力は知ったこっちゃない。
 階段を背にしていた私は容赦なく上半身を階段の角に殴打し、変な方向へ身体を曲げながら勢いよく転げ落ちた。急速に落ちていく私の動きを止めるような猛者など当然いるわけもなく。全身に衝撃が忙しなく走り、階段の踊り場で壁にぶつかることでなんとか終息を迎えた。文字的に息まで終わってしまいそうだが、ちゃんと生きている。目眩で鈍くなる頭をなんとか持ち上げると、首にピリッと痛みが走る。ゆっくりと身じろぎをすれば、右足の骨に直接金属バットを振るわれたような痛みが走り顔を強張らせた。
 
 周囲がおろおろと心配の声をかけるなか、床に頭をくっつけて静かに階段を見る。彼女はどうやらある程度踏ん張りが効いたらしく、中段あたりで座り込んでいたことを確認して少し安堵する。
 階段にいた周囲の観衆が私の安否を確認しに呼びかけ、なんとか息を吐き出すように返事をしていると、視界にどっかりと宮侑が映る。

「宮くんごめんっ!咄嗟のことで強く押してもた!怪我してへん?」
「いやいや、は? なんで俺のこと心配しとんねん。怪我人に心配されるほどヤワやない。それより保健室行くで」

 宮侑の双眸に怒りが滲む。あ、これはもしかしなくても宮侑の地雷を踏んだかもしれない。私に怒る要素あった? 厄介な男だなあ。
 私は右足を庇うようにゆっくりと身体を持ち上げ、踊り場の壁にもたれかかるように座った。
 ここに来てようやく私の足元が視野に入りこむ。右の足首が青く腫れ上がり、少しでも動かそうとすると激痛で思わず息を止めてしまう。ひぇ〜……これはもう捻挫とかの話じゃないかもしれない。

 右足を庇う形でなんとか立ち上がり、両手で手すりをしっかりと掴んで階段をゆっくりと降りていく。宮侑の肩を借りることで廊下も前進でき、一歩ずつ着実に保健室へ向かう。
 足がえげつない腫れ方をしているせいか、周りの視線はあまり茶化すような雰囲気ではなかった。宮侑はファンも多いからこっそり心配したので、不幸中の幸いだ。
 私としても異性の肩を借りる恥じらいやより、どれくらいで完治を目指せるだろうか、マネージャー業はしばらく休止するとしてもインターハイを見に行けるだろうか、そんなバレー部のこれからばかり考えていた。

「なんで俺を庇ってん。女に守られるほど弱ないし、お前もこんな事ならんかったやろ」

 怒気の混じった声に、私は合点がいった。彼の怒りは男の矜持とやらだろう。まあ気持ちはわかる。でも女子に守られて折れるようなプライドではないだろう。
 彼が階段を転げ落ちることに比べれば些細なことだし、気持ちのやり場に困るなら私を責めてもいいよ。むしろ守らせてくれてありがとう。まあ口に出してしまうと彼の神経を逆撫でしてしまいそうなので言わないでおくけども。

「宮くんって、なんか死ぬまでバレーしてそうやん」
「はあ!? あーもう話聞けや!それがなんやねん!」
「私、宮くんがバレーしてるとこ死ぬまで見たいねん」

 ごく、と固唾を飲む音が耳元に伝わる。
 表情をそっと覗くと、彼の瞳には少しの動揺が揺らいでいた。

 一般人の私とバレー選手の彼とでは怪我の重みが大きく違う。
 「ハイキュー」のここが好きポイント、誰も致命的な大怪我を負わない事。
 発熱や突き指はあっても、選手生命を絶たれる可能性がある大怪我は作中に一度も登場しなかった。だからこそみんなのびのびと勝利を目指して練習に励めた。その時間を奪うわけにはいかない。彼らには満足するまでずっとバレーをしていてほしいのだ。私はそんな様子を会場で、テレビで、ネット回線で死ぬまで浴びたい。
 
「ほんまに大丈夫? 突き指とかしてへん?」
「お前なあ……してへんしてへん!無傷ですぅ」
「ふふ、良かった」

 宮侑からバレーを奪う事にならなくて、本当に良かった。鼻の奥がツンとする。

「マネージャーの話、撤回しないでね。怪我治ったら絶対戻るから」
「……ああ」
「あ、でもインハイは何が何でも絶対応援席行くね」
「いやそこは家で安静にしとけや」
「嫌や、公式戦は絶対見たい」
「駄々っ子か!なんでそんなバレー見るの好きなん」

 やれやれと言いたげな視線を私に向ける宮侑に、私はハイキュー!との出会いの記憶を掘り起こす。
 
 辛酸を舐める前世社会人時代。泥水を飲むような日々を送っていた。
 
 人一倍仕事に頑張ろうと息巻いていた私の元へ、だんだんと任される仕事量は増えていった。毎日十八時に定時が訪れ、終電に間に合うまで残業を重ね、深夜三時に就寝。朝六時に無理やり起きて職場へ向かうという社畜生活を送っていた。熟睡しないために床の上で仮眠し、エナジードリンクを乱用して生きていた。満腹になったら作業効率が落ちるので食事も最低限少なめに。
 そんな寿命を縮めた生活を送っていると、体調も身体も精神も全てが貧しくなっていく。体調がいい時なんて無い、朝のミーティングは重畳した眠気と疲労でフラフラ。身体なんて六キロ近く痩せてしまい、さぞゲッソリしていたことだろう。仕事に追い込まれた精神状況なので、頭の中にあるタスクは仕事と最低限の生活で埋め尽くされていた。
 当然そこに趣味や娯楽が入り込む余地はない。休日は眠れなかった六日分の帳尻を合わせているので、昼過ぎに起きて充実感のないまま一日が終わる。

 しかし、脳死で繰り返すそんな生活が長くもつわけもなく、ある日私はコロナに感染してしまった。まだコロナが猛威を奮っていた頃のことで、職場も休みを言い渡すしかない。
 そうして五日間の休みを得て電話を切った途端、言いようの無い量のドーパミンが押し寄せてくる。ズル休みでもない正当な休養期間で、突然背中に積まれた大量のタスクしごとが一度地面に降ろされた。もちろん復帰するまでに納期が間に合わないものもあり、職場に迷惑をかけるのは重々承知の上、それでも背中に羽が生えたかのような解放感が全身を巡る。
 エナジードリンクを飲んでも授かれなかった翼は、皮肉なことに仕事を休む事で得てしまったわけだ。
 
 まずは泥に潜るように寝て、起きて、なんとなく常備していたレトルト粥を開封。味はしないが、まあとりあえず胃に詰めとけ精神だ。
 生理前日のような倦怠感と味覚異常による食欲不振はあるものの、少し咳き込むくらいで発熱もなく比較的軽傷。
 とはいえ家にも出れないこの五日間をどうしてくれよう。ハイになった今の心持ちなら、娯楽も摂取できそうだ。久方ぶりにテレビのリモコンを手に取り、解約しそびれていたサブスクへアクセスした。
 トップ画面には注目の映画やアニメがずらりと一覧で並ぶ中、適当にポチポチ見進めていくとハイキュー!みんながいたのだ。そういや昔、友人が面白いと言ってたな。ふと食指が動き、軽い気持ちで視聴を始め、だんだん液晶画面にかじりつくようになった。

 ───おもしろ。

 からからに乾き切った植物に、水分が目一杯与えられるよう。そう、私にとってハイキュー!は心の栄養分だったのだ。視界が晴れて視野が自然と広がる。水を得た魚のような心地で、私は青春を全てバレーボールに捧げた高校生達の生き様をアニメで見届けた。
 
 まっすぐバレーボールを見据えて、“勝ち”に夢中になる彼らによる影響は絶大で、はっと我にかえった。
 私は仕事に夢中になっていたんじゃない。
 ただ取り憑かれていただけだ。

 コロナが治ってすぐに、退職届を出した。

「なんでってそりゃ……」

 今思うと、私も仕事に洗脳されていたのだ。解放されたのは紛れもなく、あの時あのタイミングでハイキュー!みんなに出会えたから。
 周囲に嫌味を言われながら、しかし私に落ち度は残さないよう極力丁寧に後続へ引き継ぎ、マニュアルも手直しを加え二ヶ月後に晴れて無職となった。
 
「私の洗脳を解いてくれてん」

 食欲、性欲、睡眠欲、推し欲。
 推し活は心身を健全に保つための欲求だ。
 そして、この世を最大限楽しめる息抜きだ。
 私に趣味を、愛を与えてくれてありがとう。

 はあ、何やそれ?みたいな顔をしている宮侑に少し笑いが漏れる。
 別に誰も知らなくていい、理解しなくていい。
 しんどい時に私が勝手に救われただけ。
 私だけが持っていればいい感情だから。

「保健室着いたで」
「ありがとう。保健の先生いるみたいだしもう部活行ってきなよ」
「……おう」
「私のことはほんまに気にせんでええから」

 保健室の扉には、保健の先生がいることを報せるプラカードが引っ掛けられている。
 右足を庇うように地面に立ち、私は宮侑に手を振った。

 


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