朝八時十五分。
二年一組の教室はいつもの賑わいが灯る。窓の向こうには抜けるような青が広がり、続々とクラスメートの顔ぶれが増えていく。ホームルームが始まるまでまだ少し時間がある、普段と変わらぬ自由時間だ。
自分の席に荷物を置いて、大きなあくびを漏らす角名に声がかかった。
「あの、角名くん」
「なに?」
切れ長の目が彼女に一瞥を投げる。
───侑が最近寄越したマネージャーか。
あれだけ一年マネに対してキレ散らかした
篠原さんがバレー部を応援してくれているのは知っていた。といってもたまたま篠原さんとは同じクラスで、たまたま友達と話している声が聞こえたに過ぎない。席も遠いし交流が薄い……というかほとんど無いに等しい。
部活でも舞台裏で黙々と務めを
薄いスポドリを作って部員からひっそり反感を買っていたが、今朝は普通に美味しかったので“そろそろ”だとは思っていた。
「この写真見てほしいんやけど」
そうスマホを渡される。液晶いっぱいに映る一枚の写真に、角名は目を見開いた。
愛香がドリンクを一人一人に手渡しする、長蛇の列を体育館の二階からパシャリと納めた一枚。さながら話題のラーメン屋の店先に並ぶ客だ。
───上から見るとすげー光景。
上から俯瞰するように見せてくるこの光景には、あまりにも強いインパクトがある。
部員全員が、綺麗な一列を披露している。普段並ばず横からかっさらう、あの宮侑まで列に加わっているのだ。といっても宮侑は青筋立てて人殺しそうな目をしてるし、その後ろでやれやれ顔の尾白アランも確認できる。なかなかのボーナスショットだ。
そういえば尾白アランが無理やり宮侑を列に並ぶよう誘導する動きがあったな、と今朝の記憶を掘り返す。
しかし尾白アランの働きかけがあったとしても、宮侑は素直に並ぶようなタマではない。共に一年以上練習を続ける角名にとって、二人の様子を怪訝に思うのは当然のことだった。
そう回想を挟んだ角名はどうやら一枚の写真を見て合点がいったらしい。
───この一枚のために並んだんだ。こりゃ侑も相当キてるな。
角名は目の前のクラスメートが声にしたい凡そを大体飲み込んで、それにしても写真のインパクトに我慢できず小さく吹き出した。
「ふーん、頑張ったね」
「…………え?」
「俺に面白い写真見せたら戻ると思った? もう普通だし大丈夫だから」
傾げた頭をそのままに、彼女は硬直した。予測すらしなかった角名の回答に、思考が追いつかないのだろう。
角名はすでに洗脳が解けていた。
「侑が篠原さんをマネージャーにしたのもそういう事なんでしょ」
「え〜っと……いつから戻ってたの?」
「昨日」
「昨日……」
「北さんに正論パンチしに行ってたでしょ」
「えっ」
「自販機寄ろうとしたら校舎横に二人がいるのを見かけたんだよね」
校舎横の人気が少ないエリアに男女が二人。大抵はこっそり逢瀬を楽しむカップルであったり、もしくはこれから告白イベントが始まるシチュエーションだったりするものだ。しかし北と篠原はそのどちらにも当てはまらないと、校舎横で話し合っているのを見た角名はすぐに分かった。
篠原の見せる表情は嫌というほど見覚えがある。北から正論パンチを受けてげっそりしている顔だ。あれは絶対そうだ。
しかしなぜ昼休みにあんな校舎横で密会のような真似をしていたのか、純粋に興味があった。そんな角名は部室で着替える北にふと尋ねて、さらに驚くことになる。
「わざわざ列作って手渡しでドリンクもらう必要ないんちゃうかって。まあ愛香は愛香なりに工夫してるんやけどな、まだ分かってなかったんやろ」
数秒。角名の頭上にNow Loading…が現れる。くるくると脳回路を巡らせて、やがて結論を導き出す。
───いや、その通りじゃね。
なんでわざわざクソ長い列に並んでドリンクをもらう必要があるわけ。もっとラフにカゴから直接取ればいい。そもそもなんで当たり前のように俺並んでたんだろ。
今までの変な自分と、違和感を抱く自分のジレンマが突然角名に押し寄せてきた。だから昨日、今日と一年マネを観察していた。
彼女は練習中の部員にあれこれ応援したりと声をかけ、仕事をしている様子はない。篠原が届けたドリンクを手渡しして、休憩中はチヤホヤと多くの部員に可愛がられている。守ってあげたくなるような庇護欲をかきたてる美女を見た後、篠原へと視線を移す。
チリン、と脳の奥で鈴が鳴る。角名の瞳いっぱいに現れる「うわぁ、またやってる……」といいたげな呆れ顔は、彼を正気へ戻す心の揺さぶりに繋がったのだ。
つまりあの時校舎横で、入部して間もない篠原があの北に正論パンチをしていたのだ。告白の舞台と密かに囁かれる校舎横で、あの二人は正論バトルを繰り広げていた。いやなんでだよってツッコミと、勇者かよって篠原への称賛が並走する。
まあ北の圧勝で幕を閉じたわけだが、角名にとっては目の前の写真より、あの時の光景の方がよっぽど大きな衝撃だった。
「そこまで分かってたんなら教えてくれてもよかったんだよ?」
「ちょっと様子見してた」
「そ、そっか」
普段と同じ練習量をこなし、同じだけの時間バレーに向き合っていた。違うのは、部員の和を乱す存在の有無くらいだ。角名は一年マネの呪縛から解き放たれて、ようやく現状に危機感を抱いた。
───このままだと崩壊する。
双子の仲は昨日ようやく修復できたが、それでもギスギス感は拭えない。重苦しい空気は当然、練習や試合にも影響を及ぼす。その大きな一角がやはり北の存在だろう。あの北さんが一年マネの言葉を全て鵜呑みにして擁護している。宮侑を除いた部員全員を手玉に取り、その矛先は顧問やコーチまでも襲う。
そんな一年マネに角名は言いようのない気味悪さを感じていた。
様子見と我慢は別物だ。
「そろそろあの一年マネをどうにかしないとね」
「うん、本当にね……」
四月の下旬。来週にはゴールデンウィークが始まる。五月三日から他校を交えた遠征合宿もある。
そこにあの一年マネを連れていくのはまずい。そう角名の脳内に警鐘が響く。
「鈴は?」
「……鈴?」
「俺が元に戻る時、鈴の音が聞こえたんだけど」
そこで何か思い出したように、篠原は左手から小さなお守りを取り出した。紺色のフェルトでいかにも手作りですといった見てくれ。
その口を開けてひっくり返すと、
チリン。
軽やかな音が手のひらに転がる。角名があの時脳裏をよぎったのは、間違いなくこの音だ。
「他のやつらはこれ聞いて治したんじゃねえの?」
「いや、なんか心に響きそうなことしたら治るかなって思ってました……」
「賢そうな顔してけっこう豪胆だね」
「そうでしょうか」
「うん。それで治に餌付けしてたんだ」
「そうだよ。北さんに正論パンチで返り討ちにもあったしね」
「まあそのおかげで俺は目ぇ醒めたよ」
顔に影を落としながら告げる篠原の暴露に、角名はケラケラと笑う。
確かに洗脳されているとはいえ、滅多に見せない北の弱みともいえる。そうと分かっていても北さんを前に正論勝負を仕掛ける、その肝っ玉に天晴れだ。角名は愉快に笑いながら、篠原におもしれー女のレッテルを貼った。
「分かった。とりあえずみんなに連絡する」
小難しい顔をしながら立ち去る篠原の背中を、角名は重要なことを思い出したと言わんばかりに呼び止める。
「