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お店の少し前。じゅうじゅうと焼かれる音と、香ばしい匂い、みんなの喧騒がここまで届いていた。あと数歩で、お店に辿り着くのに足が地面に張り付いたように動かない。ため息を飲み込んで、地面を見つめた。



フェレス卿との一件後、わたしが目覚めたのは寮の自室のベッドの上だった。このパターン最近多いな、と思いながら枕元に置いてあった携帯の液晶を確認すると、前みたいに日が経ってることはなく、次の日の夕方近くだった。
起き上がってやっと自分が昨日の制服姿のままなことがわかって、溜め息を吐いた。気分とは裏腹に、頭の中は冴えていた。それに、いつもより視界がクリアだ。それが、昨日のフェレス卿のおかげ、というのも何となく分かっていたから、無意識に唇を噛んだ。
色んなことが一気に起こって、一気に色んなことを知って、それで、色んなことが中途半端で。何から理解していけばいいか。何が解決できるのか。いつもより白く見えるシーツに視線を落とした。
『眠れ、アミー』

「…アミー」

フェレス卿が呼んだわたしの中の、今はきっと眠っているアイツの名を声に出してみた。思ったより震えた自分の声に、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

進める気なんて、しなかった。
諦めたい。諦めたくない。立ち向かえない。守りたい。でも、わたしは弱い。
ポロリと目から涙がこぼれ落ちて、白いシーツに顔を埋めた。喉の引き攣りが止まらない。
今日だけじゃない。あの日から、ずっと。ずっと、恐怖を感じていた。思うだけなら誰にだってできる。頭を占めていたのは、後ろ向きの思いばかりだ。それなのに。

毎朝、目が覚めて見える世界が綺麗なこと。鏡でふと見た自分の瞳が翡翠の色を保っていること。

『お母さんもあなたの眼が大好きよ、お母さんと、お揃いだものね』

今もまた。世界が綺麗に見えていることがこんなにも、嬉しかった。

わたしは、この視界を、目を、母を。
守れるだろうか。


ブブブ、と、携帯が振動して鼻をすすりながらディスプレイを見る。ディスプレイには、『正十字学園』の文字が浮かんでいてボーッとそれを見た。不在着信が入ってるマークや、メッセージ機能のポップのカウントも数件ついていた。クラスの友達が連絡をいれてくれたのだろうか。今日は普通の学校があった日だから無断欠席になるし、学校側も黙ってない、ということか。
もう一度、ズズ、と鼻を啜って、ディスプレイをタップした。

「はい」
『斉藤さん?良かった、起きてたんですね』
「っう、ゆ、奥村先生…!?」
『もしかして起こしてしまいました?電話番号分からなくて学校からかけることになってしまって。すいません、突然』
「、いえ」

びっくりした。電話口から聞こえる申し訳なさげな、意外な声にこちらの返事が詰まる。

『今日、斉藤さんが学校にも塾にも来ていなかったので、理事長にお話を聞いて』
「え、」
『症状が酷かったのでこちらで治療した、安静にするため部屋に返した、と、言っていてまさかそんな酷かったとは思わず急いで電話をかけた次第で…。体調は大丈夫ですか?』

ホッと肩の力が抜けた。フェレス卿はわたしのアレを話したわけではないみたいだった。昨日の話の中でも『本来なら連れていかなければ』なんて言っていた記憶がある。祓魔師側にとってわたしのこれは、あまり良いものではないのかもしれない。
『斉藤さん?』と電話口から聞こえた声に「もう平気です」と慌てて返事をした。

『それなら良かった。それと、テストの結果ですが、みなさん合格です。候補生昇格ですよ』
「…う、うそ?」
『嘘じゃないですよ、お疲れ様でした。ひいては、理事長が皆さんにもんじゃをご馳走してくれるそうですが、斉藤さんは出てこられそうですか?』
「…か、考えておきます」

咄嗟に口を突いて出たのは曖昧な返事だった。体調に影響なんて何もなかったけど、少し顔を出すのが怖かったのだ。みんなの前、特に、志摩の前に。アイツは何回もわたしの眼を見ているけど、昨日のは流石に異常だったと見えただろう。志摩も何かを隠してる。悪魔だって元々見えていた人だ。それでも。
『なんだ、その目は…!悪魔め!』
またそう言われてしまうかもしれない、と、脳裏にそればかりがチラついた。
奥村先生は少し間をおいて『分かりました』と言ったあと、お店のある場所を伝えて電話は切れた。

「どーしよ」

暗くなったディスプレイを確認してそれをシーツの上に放り投げる。
行くのがこわい、会うのがこわい。だけど、あの時わたしを助けてくれたのは、志摩だったのだ。相当、辛い思いもしたけど志摩が居なかったら、きっと今のわたしはここに居ない。この世界も。見えていない。
いつにも増して重たい腰を上げる。お礼を言う。せめて、志摩にお礼を言って帰ってこよう。それでいい。



そう思って来たはいいけど。
やはり来なければ良かったなんて、少し思ってしまった。
やっとたどり着いたお店の前でわたしの足は完璧に動きを止めた。いつもの教室の喧騒がいつも通りすぎて、入ることを躊躇わせた。そもそも、志摩にお礼をって思っていたけど、志摩と話すためにはお店に入らなければいけないことをお店にたどり着いてから気づいた。また次の塾の時でいいかな、と、モヤモヤと考えながら、地面を見つめていると、そこに黒い影が差す。

「…」
「なにしてはりますのん」

顔を上げると笑った志摩がそこに立っていて、片手にはラムネの瓶を二本持っていた。カチリ、と、ラムネの瓶が鳴ってハッとする。

「…や、えと」
「目ぇは?大事なかった?」
「……うん、平気」
「そ、良かった」

志摩は一つ笑って、飲む?とラムネの瓶を一本差し出した。少し躊躇ったけど、差し出されたそれを黙って受け取った。ひやりと冷えたソレをぎゅうと握りしめる。

「あのさ。何か、言わないの」
「何が?」
「…どう見ても異常だったことくらいアンタが一番、」
「そやね」

何でも無いように返された言葉に思わず志摩の顔を凝視した。その顔は本当に何にも気にしていないような風で。わたしと目が合うと、いつもはだらしないとしか思っていなかった彼のタレ目が、さらに弧を描く。

「斉藤さんの目、綺麗やなて、思ってましたわ」

いつものように笑った志摩だったけど、すぐにギョッとした顔をした。そりゃそうだ。
気づいたら、泣いていた。志摩の言葉を聞いたら、ツン、と鼻の奥が痛くなってボロリと涙が溢れ落ちていた。慌てた志摩がちょっと側に寄ってきてワアワア言っている。そっか。

「わたしの目、綺麗なんだ」

泣きながら、笑うわたしを見て、志摩は、最初ポカンとしていたけどもう一度笑って「そりゃあもう、えろう綺麗でっせ」と、茶化すように言った。
それを聞いてまたわたしは泣いて、笑ってしまったのだった。

いつもより数倍世界が綺麗な世界で、一際鮮やかなピンク色が揺れていた。


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