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足が竦む。心臓の早鐘が止まらない。
握り締めたハンドライトが照らす先の、夜の闇に人知れず唾を呑み込んだ。


夕餉を終えて始まったのは、霧隠先生いわく『肝だめし』、奥村先生いわく『実戦任務参加資格を賭けた訓練』だった。
内容はシンプルで、今日から始まる合宿3日間のうちに森のどこかにある提灯に火を点けて戻ってこい、というものだった。3日分の水や食糧などの備品や、提灯に火をつけるためのマッチ、魔除けの花火なども支給される。
しかし、森のどこかにあるという提灯は3つだけ。参加資格は3枠だけしか用意されていない。
その他にも、拠点近くから提灯の火を点けた場合にも失格だったり、花火をつけたらギブアップと同義、など細かいルールも課せられたが、つまりは。

「森のどっかにある提灯に火をつけて戻ればいいんだろ?カンタンじゃねーか?」

奥村の言葉に誰もが頷いただろう。わたしも頷いた。
これが、昼間、だったらだけど。

奥村先生の説明が終わると、みんなはそれぞれのスタート位置に立っていた。「助け合いもナシや!」という勝呂の言葉の通り、ソロプレイが基本のようだった。そりゃそうだ。説明を聞いていたわたしだってそう思う。そう思ってはいるけれど。

「では位置について、よーい」

奥村先生のスタート合図である銃声が鳴り響く。それを合図に、各々のスタート位置から躊躇うことなく駆け出す音が聞こえる。でも、私は、

動く事さえ出来なかった。

目の前に広がる闇に足が竦んでいた。自分の足だというのに、全く動かせる気配がない。
暗闇はずっと苦手だったけれど、今は尋常じゃなく怖い。一人で、悪魔が蔓延る暗闇に。それだけのことが、わたしをその場に留まらせていた。
動け、動け!昼間に書いた魔法円の縁の上で、根が張ったかのように動かない足を見つめながら念じるように願う。
実戦任務への参加資格が欲しいわけではないけれど、祓魔師になるためにはそれを通らなければ進めない。こんなところで怖がっている場合じゃないのに。

「斉藤さん?大丈夫ですか?」
「あ…いや、だ、大丈夫、です、」

背後から奥村先生に話しかけられて、何とか返事をした。そりゃそうだ、もうかれこれスタートから3分は経ちそうだ。
ドクン、ドクンと心臓の音が耳の真横で聞こえる気がする。森の闇を照らすハンドライトをもう一度ギュと握ると、「そういえばぁ」と、少し遠くから霧隠先生の声がした。

「マンティコアって炎の眷属だったかにゃあ」
「!」
「何ですか、あなた急に…」

霧隠先生の言葉にハッとしてポケットに忍ばせておいた魔法円の紙を取り出す。あれから一度も呼べた試しがないけれど、炎の眷属なら尚更。

「‘probatio diabolica’」

祈るように唱えれば、ボンッという音と共に手元の紙が白煙に包まれて、慌てて手を離した。白煙と共に現れたのは、黒い獅子。

「ワ、ワンちゃん〜!」
「わ!チカだ!」

思わずその体に抱きついた。驚いた様子だったマンティコアも抱きついたわたしに鼻を擦り付けていて、涙が出そうだ。

「いきなり呼んでごめん、ワンちゃんあったかい炎みたいの出せたよね?」
「あったかい?ああ、これ?」

ボウッと獅子の体を包んだのは、ゆらゆらと揺れる金色の炎だった。それに迷わず、手を伸ばす。確かに炎に触れてるはずだったけれど、全く熱くない。わたしは知っていた、この炎が暖かいだけだということを。

「あのさ、このままこの先進んでくれる?一緒に」

森の中に指を差すと一度そちらを見てからマンティコアは「いいよぉ!」と嬉しそうに喉を鳴らした。

「暗いのが恐いのはトモエもだったからね」
「!…そう、ありがとうワンちゃん」

快く了承してくれた獅子の頭を撫でてから、振り返ると、驚いた顔をした奥村先生と、お酒を飲んでいた霧隠先生と目が合う。

「行ってきます」
「おう、早くしねーとクリアできねーぞ」

ゆるやかに笑ってビール缶を持ち上げた霧隠先生に頭を下げてから、もう一度暗い森へと向き直って呼吸を整える。

「行こう、ワンちゃん」
「うん!」

勇気付けるように金色の炎が一度爆ぜたのを見て、わたしは足を一歩、踏み出した。
あんなにも動かなかった足は動いていた。もう、大丈夫。
随分と遅れを取ってしまったから急がないと。そう気を取り直して、一歩二歩、さらに森の中へと黒い獅子と共に歩みを進めたのだった。





「ふふ、久々に見たにゃあ。随分、デカくなって」

上機嫌なシュラの声に、雪男は金色の炎が森へと消えていくのを見てから、そちらへ視線を向けた。シュラは懲りずに酒を煽っていて、それに呆れながらも腕を組んでシュラを見据えた。

「…あなた、何か知っているんですか?」

あえて主語はつけなかった。あまりにも、彼女には兄と同じくらい謎が多すぎた。
『斉藤チカサン、彼女、よぉく見ておいてください』
ある時、フェレス卿にもそう言われた。理由は教えてもらえなかったが、同じ頃くらいから彼女は右目に黒い眼帯をするようになっていた。
だからと言って、特筆として目立った成績もトラブルも無かったけれど、先ほど見た黒い獅子、マンティコア。今は教職を辞したネイガウスから報告は受けていたけれど、実際に見ると、素人には使役が難しいと分かる上級悪魔だ。その悪魔と彼女は意思疎通どころか、自分には鳴き声にしか聞こえなかったが会話をしているような、仲睦まじささえ感じた。そして、極め付けは先ほど、そのマンティコアを見て言ったシュラの『久々に見た』の一言だ。
あのマンティコアは、かつて、誰かが使役していた悪魔だったのではないか?
彼女、斉藤チカには、兄と同じような、隠された秘密があるのではないか?
雪男の問いかけにシュラは、わざとらしく「え〜?なんのことかにゃ」と笑った。

「とぼけないでくださいよ、わざわざさっきヒントまで与えてたでしょう」
「そう〜?」
「…フェレス卿にも言われてるんです。彼女を見ておけ、と。…彼女、何かあるんですか」

生徒の事だから知っておきたい。それに『あなたのお兄さんとも相性が悪い』、フェレス卿のあの言葉。これがずっと引っかかっていた。
しかし、そんな雪男の思いなど知らず、シュラは喉で笑うと「普通の女の子」と言った。

「誰かによく似てんだ」

雪男は目を見張った。いつもおちゃらけているシュラにしては懐かしむような瞳をしているものだから。
声をかけようかと雪男が口を開いたと同時、青い炎が森の中で爆ぜた。

サッと青ざめる雪男とは裏腹に、シュラは機嫌良さそうに笑い声を上げたのだった。

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