02



「おかあさん、またおめめ、まっくろ」

少女が指さしながら言うと、母と呼ばれた女性は優しく笑い、少女の前に膝をつく。
微笑んだ母の、その右の瞳。目玉の白い部分でさえも、少女が言うように黒くなっていた。光さえもうつらないその右目は、幼い少女が見ても異質だった。

「いたい?」

目の前に膝をついた母に、少女は母の瞳に手を伸ばしながら首をかしげた。母は眉を下げながら、まるで少女の手が自分の目に触れさせたくないかのようにその手を握った。

「痛くないわ。へいき」
「わたし、おかあさんのおめめだいすき!こっちのおめめがすき、わたしとおそろい」

今度は、母の黒くなっていない左眼を指差しながら少女は無邪気にそう言った。翡翠の色をした、ビー玉のような、キラキラした綺麗な母の瞳が少女は大好きだった。鏡を見て、自分も母と同じ色の瞳をしているのを知った時はとても喜んで、その時から少女の自慢になった。

「こっちも、くろくなる?」

少女はそれは嫌だなと思った。母はだいすきだし、母の瞳もだいすきだけれど、最近になってよく見るようになった、右目の黒い目はどうしても好きになれなかった。せっかくわたしとおそろいなのに。そう言えば、母は眉を下げた。

「黒くなっちゃうかもしれないわ。でも、あなたはならない」
「おかあさん?」
「ぜったいにならせない」

母は、少女を抱きしめながら泣いていた。

「おかあさん、なかないで」

少女は、母の頭を優しく撫でた。




目を開ければ、茶色の机が見えた。懐かしい翡翠の色も見えた気がして、目をこする。考え事しながら居眠りなんてするもんじゃないな。久しく見ていなかったのに。気分がずんと重くなるのを感じながら、頭の近くに置いていた携帯を手探りでさがす。スカッスカッと、空振りをする手元に眉を寄せながら、顔をあげた。

「おはようさん」
「う、わ!」

ガタガタッと音を立てながら思わず立ち上がった。

「よう寝れた?探し物はコレ?」
「え、あ、な、なんでいんの、」

前の席に座っていたのは志摩廉造で、ニコニコと笑いながら、顔の前でわたしの携帯をフリフリと振っている。

「斉藤さん、来るの早いんね!俺が一番やと思ったわ」
「…最後の授業、自習だったから」
「ええ!自習だったからゆうて、塾来てはったん?あかんやん!それも立派なサボりですえ」
「……いつもの二人は」
「子猫さんと坊のこと?あの二人は置いてきたんよ、斉藤さんとお話しとうてね」

ニコニコと笑って、机の上に持っていたわたしの携帯を置きながら言った志摩のセリフに、わたしはやっぱりと手のひらを握りしめた。なにが来るの早いんね、だ。その言い草、わたしが居るの分かってたんじゃないか。まだ教室にはわたしと志摩しかいなくて、チラッと時計を見てもみんなが集まるまで少しだけ時間があった。

「まあ立ち話もなんやん、座れば?せや、飴ちゃんいる?」
「あっあの!」

志摩の話を遮るように大きな声を出した。志摩を見ればカバンを探っていた手を止め、ポカンとしながらこちらを見ていた。

「き、昨日は変なこと言ってごめん!なんかあの時気分悪くて変なこと言っちゃっただけだから、ほんと、昨日のことは気にしないで!」

志摩が、なにをわたしと話したいのか分かっていた。だって昨日のあれからわたしも、そのことばかり考えてしまっていたんだから。
努めて笑いながらそう言えば、志摩はポカンとした顔のまま首をかしげた。

「えーと…えろうすんまへん、何の話?」
「え?」
「え?て、自分何の話してるん?」

訳がわからないといった顔をした志摩にわたしは混乱した。昨日のこと、覚えてないの?あんなにはっきり話したというのに。そうは思いながらも、志摩が言うのではわたしの早とちり、という事だったのだろうか?

「…えーっと!この話したのそう言えば志摩くんじゃなかったかも!ごめん、勘違いしちゃった」

でも、わたしの勘違いならそれでいい。運良く志摩が忘れてしまっていても、それならそれでいい。少しホッとしながら席に腰を下ろした。

「えー!何それ!勘違いて!」
「…いやほんとごめんね、わたし早とちり多くて」
「しゃーなしや、勘違いにしとこか。斉藤さんの、目の黒いうちに」

ぴしりと、背筋が凍る。なーんちゃって。ふざけた口調でそう付け足した志摩に唇を噛み締める。やっぱりコイツ見えてた。昨日感じた悪寒よりも、志摩を包んでいた黒い何かよりも、そんなことりも。わたしは、自分の目が黒くなってしまったのを志摩に見られたことを何より恐れていた。ガバッと顔を上げれば、志摩がクスクスと笑っていた。

「見られちゃあかんかったのやろ」
「お願い…!誰にも言わないで…!」
「言わへんよ。勘違い、やったもんね。お互い様やん」

言葉にはしていないけど、存外に『お前が見たのもな』と口封じをされているのが分かる。小さく頷けば、教室の扉が開いた音がした。入ってきたのは三輪とヤクザの二人で、志摩もそれを確認すると、ニコニコと笑みを浮かべた。

「ほな!これはお近づきの印に〜!…仲良うしてネ」

離れた志摩が「坊〜!子猫さん〜!遅かったやん〜?」と二人に話しかける声を聞きながら、わたしは机の下で強く拳を握りしめた。
何が仲良くだ!何がお近づきの印だ!
机の上に志摩が置いた『お近づきの印』のそれ。
黒い包みの、黒砂糖飴。

「とことん、やなやつめ…」


入塾2日目。嫌いな奴ができました。


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