05



「強化合宿を行います」

頬杖をついていた手が思わず、ずるっと滑った。不穏な響きでしかないぞ。
夏休みまで残り一週間の暑い夏の日だった。


奥村先生からもらった紙には、名前を書く欄と合宿への参加の有無の欄と、希望称号を丸をつける欄があった。参加の有無には少し躊躇ったけど、致し方なし。参加するに丸をつけて、希望称号には手騎士に丸をつけた。席には戻らずその場で書き込んで、すぐに奥村先生に提出した。

「早いですね……手騎士の称号を希望なんですね」

紙を見た奥村先生は意外ともとれる声音でそう言った。そりゃそうだ、と思いながら苦笑して頷いた。調べたことでしか無く、実際どうなのかなんてなにも分からなかったけど、手騎士というのは悪魔を使い魔として使役する職で、才能ありきの職らしい。家系が手騎士の家系だとか、そういう人が目指す称号なのだと。

「…まあ別にならなくても」
「え?」
「必要、で」

必要、なのだ。知識と力が。手騎士にならなくてもいい。手騎士がおそらく一番近いから。
わたしはアイツをこの手で召喚して、
殺さなくてはならない。
わたしは何も教えてもらえなかった。『最期の瞬間』しか、教えてもらえなかったから。

目の前で、その瞬間を見た。
今でもあの瞬間がずっと脳裏にこびりついて離れない。アイツの笑う声。苦しむお母さんの両目は光を映さないくらい真っ黒で、そして。

『ごめんね、だいすきよ』

この方法が合っているのか分からない。それでも、あの瞬間と同じになれば、またその時はやってくるはずだ。
その時わたしがアイツを殺すのが先か、アイツがわたしを呑み込むのが先か。呑み込まれてしまえば、

「今度はわたしが…」
「……斉藤さん…?」

訝しげな顔をした奥村先生に、「よろしくお願いします」とだけ伝えて席に戻った。
チラリ、と、右目の端に黒い靄が見えた気がして目をこすった。




「これから悪魔を召喚する」

教室の大きな陣の前にネイガウス先生が立って、何やらつぶやくと陣から屍番犬と呼ばれる悪魔が召喚されて、思わずうっと息が詰まった。あれを出すつもりはないけど、手騎士を目指す上で、ああいうのも使わなければいけないのだろうか。冷や汗を感じながら、配られた紙を受け取る。
神木さんや杜山さんが悪魔を召喚していて、わたしも紙を見つめた。

「…‘probatio diabolica’」

誰にも聞こえないように小さな声で呟けば、煙を上げて目の前に現れたのは腰の高さくらいある黒いライオンで。周りから小さな悲鳴や驚く声が聞こえて、思わず、わたしも腰が抜けた。

『おかあさん、ワンちゃんだして!』
『…あのワンちゃんはね、あんまり出しちゃいけないものなのよ』
『やだぁ!ワンちゃんとあそぶ!』
『もう。少しだけね』

お母さんが呪文を唱えると小さな黒い子犬が出てきて、わたしはその子犬が大好きで、お母さんに何度も何度もお願いしていた。
さっき唱えた言葉は、聞いて覚えただけのお母さんの魔法の言葉だった。あの子犬が出てくるかも、なんて、軽い気持ちで呟いてみたのに、出てきたのが、こんな。
尻餅をついて、そのライオンを口を開けて見上げているとライオンが嬉しそうに声を上げた。

『チカだ!ひさしぶり!』
「わ、わ…!」

心なしか嬉しそうに目元を垂らしながら、喉を鳴らしてわたしの顔にすり寄ってきたライオンにわたしはふと懐かしい、と思って「ワンちゃん?」と聞けば、さらに嬉しそうに声を上げた。

『うん!って、まだその名前で呼んでるの?やめてよ!ボクにはマンティコアってかっこいい名前があるんだからさ』
「…すごいじゃないか、斉藤…マンティコアか。完全体ではないようだが、上級の悪魔だ」
「スゲー!斉藤!」

ネイガウス先生がワンちゃんを見ながらそう言って、奥村が興奮していたけど、わたしは苦笑いを浮かべた。あの時、子犬だと思ってたのがまさかこんなライオンで、悪魔だなんて。呼んだ今となれば、お母さんのあの言葉が悪魔を召喚するための言葉だっていうのが分かったのだけれど。
ワンちゃんは、周りなんて御構い無しでふと気づいたように『ねえ!』と声を上げた。

『トモエは?』
「………いないよ、」
『なんだぁ、トモエにも会いたかったなぁ。…あれ、チカ…トモエと同じだ、右目、わ!』

話が最後まで言い切らないうちに、紙を破けばまた煙を上げてライオンは消えた。消えてもまだ座り込んでいるわたしに奥村が「大丈夫か?」と声をかけてきて、顔を上げないまま「大丈夫」と手を振った。顔が、あげれなかった。
立ち上がり、下を向いたままおそるおそる瞬きをして、右目の視界を確認する。映るものが、ちゃんとした色をしていてホッと息をついた。
同じじゃない。同じなわけない。まだ大丈夫。

俯いて右目を抑えるチカを、ネイガウスがジッと見つめていた。




あのマンティコアは『トモエ』と言った。
ネイガウスは、塾生が召喚したマンティコアの言葉を聞き逃してはいなかった。
斉藤 チカ。今年入った塾生だが、特に突飛したプロフィールは持っていなかったはずだ。だが、塾生にしてマンティコアという上級悪魔を召喚し、そして何よりも、『トモエ』。
ネイガウスは、その名前に聞き覚えがあった。

かつて、手騎士として騎士団に所属していた今は亡き、『穢れた血の』祓魔師を。



prev / next

top / suimin