世界はふたりに優しい



ユーリが温泉に入ると、勝生さんが「名前ちゃんも入ったほうがいいよ。疲れたでしょ?」と行ってきたので、ありがたく入らせてもらった。

本当に優しい人だなぁ、勝生さんは。
女湯に浸かりながら、わたしは息を吐く。
今日はなかなかと心休まるときがなかったな。
ユーリが何をしでかすか分からなかったから、常に気を張っていたような気がする。
柵の向こうにいるであろうその彼に、「ユーリーー!」と呼びかけてみる。もちろん女湯にも、男湯にも誰もいないからこそできること。
すると、「…なんだよ」といつもより弱弱しい声で返される。

あ、これはきっと、ユーリなんだかんだ温泉気に入ってるんだな。

気の抜けたその声色に、わたしはくすっと笑った。







「カツ丼………!旨い!!」

そして温泉から出ると、目の前に出されたのは、卵の黄色が光る、とても美味しそうなカツ丼。
ユーリはすぐにその味を気に入ったそうで、フォークを使いながらガツガツと食べていく。

こう見ると本当にただの15歳の少年だ。

わたしも少し小ぶりなそれを、ゆっくりと味わった。
とっても久しぶりの日本の味だ。

わたしも知らず知らず笑顔になってしまっていたようで、ヴィクトルに「かわいいね」とありがたい言葉をもらった。ヴィクトル選手、酔っていらっしゃいます。

「また誰か来てんの勇利ー」

そのままカツ丼を二人で食べ進めていると、襖が開き、女の人が顔を覗かせた。
この人、勝生さんのお姉さんなのかな。
あまり顔は似ていないけれど、雰囲気は何となく同じような気がした。

「あぁ?!」

がんを飛ばすように振り返るユーリ。
わたしもペコリとお辞儀をしたが、どうやらお姉さんはユーリに目がハートになっているようだった。
だよね……。ユーリ、やっぱりかっこいいもん。

「この子もユーリっていうのよ。隣の女の子は名前ちゃん」
「えぇ、紛らわしいなぁー」

ニコニコとわたしたちをお姉さんに紹介する女将さん。
お姉さんが面倒くさそうな顔をする。

「じゃああんたはユリオ」
「はぁぁあ?!?」

バンと、彼のアダ名がお姉さんにより決められた。
それにわたしは思わず笑ってしまう。
当のユーリはかなり、かなーーり嫌そうにしているけど。
それでもお姉さんは強い。

あっという間にゆーとぴあの中で、彼はユリオと呼ばれるようになった。

「よかったねユリオ」
「俺はユリオじゃねぇ!」

スプーン片手にヴィクトルに噛み付いていくユーリ。
ふと勝生さんを見ると、とても思いつめたような顔で、ヴィクトルのことを見つめていた。

「勝生さん……?」

そのまま旅館を出て行ってしまった彼を追うように、わたしはコートだけを取り、寝間着のまま飛び出した。







「あ、あの、勝生さん!!」

彼を追って、近くの橋あたりに差し掛かったところで、わたしは彼を呼び止めた。

まだ少し肌寒いこの季節。わたしは薄手のコートを握りしめながら、勝生さんと向き合う。

「あの……、何か、思い悩んでいるんですか?」

追ったはいいが、何を言えばいいのか分からなかった。
だから、彼が悩んでいることなんて明白なのに、わたしはそれを聞いた。
勝生さんがゆっくりとわたしを振り向く。
メガネの奥の瞳は、やはり頼りなさそうな色をしている。

「ううん、そんなことないよ」

それだけを言う勝生さんに、それ以外は何も言えそうになかった。

わたしは何もわからない。
彼らがどのような思いで滑っているのか。
今までどのような経験をしてきたのか。
それは選手でなければ、絶対分からないところ。

あくまでわたしは、スケートに関してはド素人だ。
そんなわたしが、何か彼に言うことなどできるのだろうか、いやできるはずがない。

無責任な言葉で縛ってはいけない。
それはきっと、励みでもなんでもない、重い蔦のように彼らを取り囲んでしまうだろうから。

そう思ったけれど、わたしはどうしても彼に伝えたいことがあった。

少し悩んだ末、顔をあげ、勝生さんの目を見る。

「わたし……、ユーリにはもちろんがんばってもらいたいけれど、でも、…勝生さんが、ユーリより劣っているだなんて、そんなの絶対に思いません!」

そう言ったわたしに、目をぱちくりとさせる勝生さん。
そうだ、彼は、きっと自分自身への評価が、驚くくらい低いのだ。
だからきっと、ユーリが現れたことで、自分に自信を無くしかけているのだろう。そう思った。

「確かにユーリは天才です。ヴィクトルにだって物怖じしません。…でも、ヴィクトルはあなたを選んだ。あのヴィクトルは、勝生さんを選んだんです。だからもっと、自分を信じてください。自分の力に気がついてください!」

そう言うと、勝生さんは驚いたようにわたしを見た。
そして小さく笑うと「ありがとう」と言ってくれた。

納得をしてくれたかは分からない。
でも、わたしは思ってたことを言えたことに、小さな満足感を持っていた。

ヴィクトルをここまで連れてきた勝生さんは、本当にすごいんだよ。

それにいつか勝生さん自身が、ちゃんと分かるといいのにな。

そう思って、わたしは彼と別れた。







「…何であの豚追いかけてんだよ」

宿に戻ると、眠たそうに目を擦ったユーリが、玄関先によろよろとやって来る。
ヴィクトルの姿は見えない。勝生さんのところに行ったのかな。何となくそう思った。

「待っててくれたの?」

怒られるのを覚悟で聞いてみたけれど、どうやら本当に眠いっぽそう。微睡んだ声で目を擦りながら「なわけねーだろ」と言われても迫力がない。

「ユーリ、部屋行こ。わたしももう寝るから」
「……んー」

今にも寝てしまいそうなユーリの手を引っ張る。いつもとは逆だな、なんて思った。

「……豚の」
「ん?」
「豚の応援なんか、してんじゃねーよ…」

後ろでユーリがポツリと呟く。
いつもとは違って随分と頼りない声だ。わたしは笑って、前を向いたまま答える。

「もちろんわたしは勝生さんを応援してるよ。同じ日本人だし…」
「…………てめぇ」
「でもわたしにとって、ずっと一番なのはユーリだよ」

そうなのだ。どんなに他の選手を応援しようとも、結局わたしは、ユーリの一番のファンなのだ。

「…………バーカ」

そう言ったユーリの声は、どことなく、ほんのちょっとだけ優しかった。






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