綺麗事では語れない
ヴィクトルは語る。
――Agape。無償の愛。神からの無限の愛。それは自己犠牲的で非打算的――であると。
それを表現するのはとても難しいということは、苦い顔をしている勝生さんを見れば、手に取るようにわかった。
まずは『愛について〜Agape〜』の振り付けから始まった。
流れる音楽に合わせ、ヴィクトルが踊る。
無償の愛。神様からの愛。
ヴィクトルがやるからこそ、成立しているその世界。
(……でも、大丈夫だよね)
今わたしの眼の前で食い入るようにヴィクトルの演技を見つめているユーリ。
きっと、ユーリなら。
きっと、きっと物にしてくれるはず。
「て感じだけどどうかな?」
演技が終わり、朗らかにヴィクトルがリンクサイドに声をかけてくる。
「あぁ。大体覚えた」
「えっ?!」
そう言うユーリに、勝生さんが驚いたような声をあげる。
すると、ドアの辺りからパチパチと拍手が聞こえてきた。
「すごーい」
そう言って頬を赤らめながらやってきたのは、ここ長谷津のリンクを運営している優子さん。
彼女もスケートの経験者だそう。
ヴィクトルを見つめる目は、勝生さんのものとそっくりだった。
「なんだその女」と、ユーリは最初こそ嫌な顔をしていたが、なんだかんだで結局彼女も練習を覗くことになった。
そして次に、もう一つのテーマの振り付けが始まる。
――Eros。
性的な愛。快楽に続く快楽。ひたすら溺れる。
踊るヴィクトルは、言葉に表せられないくらいにカッコ良かった。
優子さんは一番初めの目線ですでにやられ、いま現在ユーリに介抱されている。
勝生さんは、その演技を見ながら頬を赤らめ、そして次の瞬間真っ青になる。
………これは、確かに、難しそう。
わたしはスケートのことはあまり分からないけれど、この色気のようなものを出すのは、なかなかに大変だと思う。
ヴィクトルだからこそ、できるものだと思った。
それは、Agape然り。
引き込まれるようにその演技を見ている。知らない内に顔が赤くなっていたようだ。戻ってきたヴィクトルに「あれ?惚れた?」と笑顔で聞かれたから。
じーっと後ろから視線を感じる。
振り返ると、優子さんの介抱をしていたユーリがわたしのことをじとーっと見ていた。ものすっごく不機嫌そうな顔で、わたしを睨んでいる。
「……どうしたの?」
「別に」
・
・
・
そうして氷上での練習が、いよいよ始まった。
勝生さんは本番での四回転ジャンプがまだ完璧じゃないとヴィクトルに指摘される。どうやらメンタルに少し問題があるらしい。
だから勝生さんはまず基礎練習から、そして最初にユーリから振り付けをすることになった。
スケート靴を履き、リンクサイドで準備をするユーリに、わたしは声をかける。
「ユーリ。楽しみにしているね」
「は、せいぜいそうしてろ」
鼻で笑ってきたユーリだが、なかなかヴィクトルからの声掛けがないことに首を傾げた。
リンクを見ると、勝生さんと二人でお話をしていた。
ていうか、何、あの二人の距離。
ヴィクトルは簡単にあぁいう事をしちゃう人だから、たまに見ていてわたしが恥ずかしくなっちゃうこともある。
あぁほら、勝生さんがカチカチに固まってしまっているよ。
そう思いながら、ふと隣のユーリを見ると、イラーッとした顔で彼らを見て、
「おいヴィクトル!俺先に教えんだろ!!」
と喚いた。
……自分を置いてけぼりにされるのは、彼は大嫌いだもんね。
「はーい」と言いながらこちらにやってくるヴィクトル。
最後に勝生さんに、「自分にとってのErosとは何なのかよーく考えておくように」と言い残して。
(勝生さんにとっての…Eros)
これは本当に難しい。
わたしも少し考えたけれど、全く思いつかずに断念した。
(少し勝生さんが気になって後を追いかけようとしたら、ユーリがすごい顔で見てきたので、それも断念した。)
「ストップ!うーん、何か違うんだよなぁ。今のユリオのままじゃ欲が全面に出過ぎてて、全然Agapeって感じじゃない」
リンクの真ん中で膝に手をついて息をするユーリ。
ヴィクトルが顎に指をあて、考えるような仕草をする。
「自信を持つのはいいことだけど、この曲では見せつけるべきではないな」
「はぁ?!散々今まで自信満々に滑ってたのヴィクトルだろ?!」
ヴィクトルと対峙するユーリを見ていると、不意に後ろからトントンと肩を叩かれる。
「あ、優子さん」
「ごめんね、いきなり。名前ちゃん、少しロビーにいてくれないかな?わたし子どもたちの迎え行かないといけなくて」
随分と前に鼻血も治まっている優子さん。小声で申し訳無さそうに言う彼女に、わたしは二つ返事で了承する。
ユーリたちのことは少し気になったが、わたしはリンクから外にでた。
「優子さん」
「ん?」
「振り付けって難しいんですね」
「そうだねー。今回は特にそうかも」
そんなことを話しながら、優子さんを手を降って送り出し、わたしはロビーの椅子に腰かける。
(Agape、Eros……ダメだわたしには全然わからない。)
とても難しい、ヴィクトルからの課題。
それでもいつかは彼らは答えを見つけるのだろう。わたしはそう思った。
………それからしばらくすると、かなり怒ったような顔で勢いよくリンクから飛び出してきたユーリ。
どこか出かけようとしているようだ。
「どこ行くの?」と聞くと、「寺だ寺!!」とぶっきらぼうに返され、わたしが呆然としたままユーリは出て行った。
………なんで、寺?
わたしは頭の中にハテナマークを浮かべた。
―おまけ―
(「寺」と言われる前の二人の会話)
「大体さ、ユリオには名前がいるでしょ?恋人なんだからさ、彼女を思い浮かべながらすべってみたら?」
「はぁ?!アイツを?!無理、絶対無理!」
「何でだい?」
「アイツに自己犠牲的だ……無償の愛だとか、考えたら吐き気がする」
「(ひどい言い方だなぁ)いーからいーから。今のままじゃAgapeなんて分からないよ。とりあえず滑ってみたら?」
「…………ッチ」
「………どうしたんだユリオ、何でこんなに演技が荒れるんだい?」
「オメーがアイツを考えながら滑ろって言ったからじゃねぇか!」
「だからってこんなになるものなのか?邪気しか見当たらないけれど。ユーリは名前に対して邪な気持ちしかないのかな?」
「うっせーな!!だから無理って言っただろーが!」
「(顔がリンゴのようだ……)うん、そうだよね、恋愛はキレイ事じゃないもんね」
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