“愛について”
数日後。
わたしが温泉から出てみんなと合流すると、勝生さんとユーリはすっかり憔悴しきっていた。
せっかく目の前には二人の大好きなカツ丼が置かれているのに、彼らはただただ机に突っ伏している。ユーリなんて、今までに見たことないような顔をしていた。
唯一元気そうにカツ丼を頬張るヴィクトルが、「名前〜オシャクして!」と熱燗を煽ってくる。お酌って、誰に習ったんだろう。
そうしてわたしも目の前に出されたご飯を食べはじめると、急に目の前の勝生さんが立ち上がった。
「わかった!カツ丼!それが僕のErosだ!!」
ようやく発見したような……というよりは半ば無気になっているような勝生さん。
シーン………と部屋の空気が一瞬にして変わる。わたしとヴィクトルは目をぱちくりとさせながら。ユーリは未だに机に項垂れたまま。
「OKそれでいこう。ユニークでいいね」
ヴィクトルがいつもより少し戸惑ったような表情で、苦笑いをする。隣からユーリが「ふっ、マジか」と馬鹿にしたように笑うと、勝生さんは顔を真っ赤にして飛び出して行った。
……前出て行ったときは、まるで違う理由だ。
・
・
・
そんなこんなで、二人の猛練習の日々は続いた。
わたしはゆーとぴあの手伝いをしたり、西郡家の手伝いをする毎日。二人の練習を観に行ったりもした。
毎日疲れ果てて帰ってくる二人のためにも、自分にできることは何でもしようと思った。部屋の掃除や、洗濯物など。
「滝だ。お前も来い」
そんな毎日が続いたある日、ユーリがわたしにいきなりこう言ってきた。
ユーリとわたしの部屋の整頓をしていたときに、突然。
「え、え、ちょっと訳がわかんないんだけど………」
「さっさと用意しろ!」と、ダンダンと足で床を踏むユーリ。
いや、ユーリ、あまりにも言葉が足らなさすぎるよ…。
「わ、分かったからちょっと待ってて!」
十分な説明も成されないまま、ユーリがさっさと出て行こうとするので、慌ててそう言うと、「俺がカツ丼連れて来るまでにさっさとしろよ!」と言われる。
勝生さんが来るなら……わたし、もっと行く意味ないんじゃないかな…?
でもここでそんなこと言ったら絶対に怒鳴られるので、わたしは黙って用意を始めた。
・
・
・
「ぶっ殺す…」
「なんで僕まで……」
白い浴衣を着て、滝に打たれる二人。
わたしは二人分のタオルを持って、側の川辺に座ってそれを見ていた。
ぶつくさと文句を言いながら滝に打たれているユーリ。どうやら相当ヴィクトルに振り回されたみたいだ。
そうして、すっと目を閉じるユーリ。
そのまま何かを考えだしたようなユーリを見て、わたしも同じように目を閉じた。
ごおごおと、滝の音が脳内に嫌に響く。
(Agape……。わたしにとっての、Agape…)
勝生さんはようやく自分なりのErosを見つけたけれど(カツ丼)、ユーリは未だに答えを見つけれずにいた。
わたしも考えてみようと、周りにいるみんなの顔を思い浮かべる。
ユーリ。ずっと一緒にいた、わたしの好きな人。
ヤコフコーチ、ミラ、ギオルギーさん、ヴィクトル。わたしを受け入れてくれたみんな。
勝生家、西郡家。今とてもお世話になっている方々。
でも、どの人も『Agape』には当てはまらなかった。
わたしにとっての、わたしのAgapeは。
(………お父さん、)
カメラを片手に歩く後ろ姿を、わたしはずっと追いかけていた。
日本で一人になったわたしを、ロシアという新しい土地に連れてってくれ、そして新たな仲間をくれたお父さん。
仕事で忙しいのに、いつもわたしのためにご飯を作ってくれた、お父さんの姿を思い出す。
――惜しみない愛情をくれた。見返りを求めない、非打算的な愛情を。
(…………そっか。これが、きっと…Agape)
遠くで聞こえる滝の音が、遠い昔の日と重なる。
――あの日、激しい雨が降る日、わたしは一人家でお父さんを待っていた。
帰ってこないお父さん。もうそこそこ大きくなったのに、不安になってぬいぐるみに顔をぎゅっと埋めていた。
そして、家に鳴り響いた電話の音。
それに出る、まだ幼いわたし。
切迫した声、理解できない脳みそ、
(―――そうだった。お父さんは、あの日、)
「ユリオ?」
その声に、わたしも同じようにハッとした。
「大丈夫?もう滝行止めとこ」
「あぁ……うん」
ユーリを引っ張って滝から引き上げる二人。
いつもとどこか様子の可笑しいユーリ。
さっき考えていたことで、何かあったのな。
(………わたしも、今は、昔のことは考えないでおこう。)
そう思って、二人にタオルを渡しに行く。
「勝生さん、使ってください」
「あーありがとう…」
「ユーリが無理矢理言い出したようで、すいませんでした…」
「そんな。大丈夫だよ」
勝生さんにタオルを渡すと、笑いながら髪の毛を拭いていった。
「ほら、ユーリも」
「………あぁ」
まだどこか上の空のような顔をしているユーリ。
くしゅんと小さくくしゃみをするので、わたしは有無を言わさずタオルでユーリの髪の毛を拭き始めた。
「…!おいっ、何すんだよ」
「だってユーリ、このままだったら風邪ひいちゃうでしょ」
「ひかねーし、大体一人で拭け………って、名前お前、」
わたしの行動によってようやく正気に戻ったらしいユーリは、ぐい、とわたしからタオルを強引に奪う。
そしてわたしを見たエメラルドグリーンが、丸みを帯びたように固まった。
「なんで、泣いている?」
わたしの呼吸は、その言葉を聞いた瞬間、少しの間止まったような気がした。
「え………?泣いて、なんか、」
そっと自分の頬に手を当てると、そこには確かに雫の痕があった。
いつの間にか、わたしは泣いていた。
自分でも気が付かなかった。
昔を思い出した。
もう平気だと思っていたのに、わたしの胸は、小さく痛んでいたのだ。
――まだ、わたしはどこかでこの滝の音を恐れていたのかもしれない。
あの日の雨音と、よく似ていたこの音を。
「……っ」
すると次の瞬間、首の後ろに手が回り、そのまま押された。
コツンと額があたったのは、目の前の華奢な胸元。
遠慮がちに、何も言わずにわたしを抱き寄せるユーリ。衣服が濡れていても、お互いそんなことはどうでもよかった。
わたしの瞳からは、これまた遠慮がちに涙が落ちてくる。
前にも言ったが、ユーリの存在は、本当に大きかった。
普段は何もしない。こういう時も何も言わずに、ただわたしのそばにいてくれる。
『一人じゃない』ということを、いつも教えてくれるユーリ。
溢れだしてしまった気持ちだけを、そっと受け止めてくれるユーリ。
その存在が、今は何だか奇跡のように思えた。
「ユーリ、わたし、なんで泣いているんだろう…」
「…さぁな」
「久しぶりにね…お父さん思い出してたの」
「…そーか」
「わたし…悲しいのかな…怖いのかな」
「かもな」
「……ありがとう」
「…ん」
小さく涙を零しながら、うわ言のように言うとわたしに、ユーリは不器用ながらも一つ一つ答えてくれる。
まるで安心させるかのように、さらりと後頭部を撫でる手のひらの温もりを感じながら。
――ユーリがいるなら。
いつかこの滝の音も、ちゃんと聞けるようになるかもしれない。
冷たい中感じるその体温が、何よりも大切なものだと思った。
「…ユーリも、自分なりのAgapeが見つかったんだね」
「…おう」
(木の下でわたしたちを待っていてくれた勝生さんと、そのあとヴィクトルを追いかけて長浜ラーメンを食べに行きました。)
←→
戻る
top
ALICE+