強くなる人



そして遂にやってきた温泉 on ICE。


朝早くからリンクには、たくさんのお客さんが並んでいた。

テレビ局のアナウンサーが、二人の出演者に意気込みをインタビューする。
勝生さんは温泉のPRをするし、ユーリに至っては「ぶっ殺す」なんて言い出す始末(アナウンサーは「それそれ!欲しかったセリフもらったよスパシーバスパシーバ」と喜んでいた)。

どっちも見た限りは極度の緊張をしているようではなく、わたしもホッと胸を撫で下ろした。

最後にアナウンサーがヴィクトルに言葉を聞くと、「ハセツよかとこ一度はおいでー」と、機嫌がとても良さそう。

勝生さんとユーリが何かを言い寄ってるけれど………ヴィクトル、きっとまた約束のこと忘れているんだろうな、とわたしは心の中で思った。







二人が舞台裏でアップを取る中、わたしもそばでそれを見守っていた。
少しソワソワしているユーリを見て、わたしはどうしたんだろう?と首を傾げる。

「ユーリ、初演技だから緊張してるの?」
「はぁ?!してる訳ねぇだろ!」

どうやら緊張といっても、演技することに対するものではないらしい。
だけど、そのあと優子さんがやって来てユーリに「出番だよ」と呼びかけたとき、ようやく何故彼がソワソワしていたかが分かった。
うん、といつもより弱い返事をするユーリ。
そして意を決したように、ジャージを脱いだ。

「はぁーっ!これはヴィクトルジュニア時代の伝説のスケクロス…!」

恥ずかしそうに顔を赤らめるユーリ。
なるほど、衣装のお披露目に緊張していたんだ。
鼻血を出して興奮する優子さんが、「すっごい似合ってるよ。がんばって」と言うと、ユーリは安心したように「うん」と頷き、押されるようにして舞台裏から出て行こうとする。

「、ユーリ!」
わたしはそれを呼び止めてユーリを見つめた。
「?なんだよ」
キョトンとわたしを見るユーリ。

どんな思いで日本に来たかを知っている。
ここまでの彼のがんばりを知っている。
どれだけ彼が勝ちたいか、わたしはずっとそばで見てきたから。

………ガンバレという言葉は今は胸に秘めておいて。

「ちゃんと……見てるからね」

そう言ってわたしは自分の首元をすっと触る。
そうすると、ユーリがわたしをハッとしたような表情で見てきた。

ユーリが、わたしからの金メダル、衣装の下で付けてくれているの、知っているからね。

「……あぁ。見てろよ」

そう言ってユーリは、次こそ振り返らずに舞台に出て行った。



そして、ロシアの、ユーリ・プリセツキーの曲が始まった。
Agapeの曲の、綺麗なコーラスが流れていく。
白色の衣装を身に纏い、そして、舞っていくユーリ。

わたしは意識をユーリに集中して、祈るように手を組む。

(ユーリ、がんばれ、がんばれ…!)

ジャンプを次々と決めていき、どんどんと波に乗っていくようなユーリ。
会場中が、ユーリに引きこまれていくのが分かった。

すごい。本当に、彼はすごい。
わたしのちっぽけな祈りなどとは関係なく、自分の力で、力強く進んでいく。

(ユーリ………やっぱり、すごいなぁ)

試合の時には使わないいつもとは違う照明だから、本来の力が出ないのは当然。
まだ滑り込んでいないので、未完成なのは当然。


だけど、わたしは何故か泣きそうになってしまった。


ジャンプが、ノーミスだったからではない。

もちろんいつものように、呼吸を奪われるような時間だった。だけど、それだけではない。



すごい演技をしたのに、納得していないような顔をしている彼が、何故か遠くにいるように感じてしまったから。







次に、勝生さんの演技が始まった。
ステップから始まる、非常に妖艶な演技。
解説のとおりだ。とても、カツ丼を思って演技しているようには見えない。

(ユーリも、勝生さんも、練習とは全然違う。わたしには、勝負なんてつけられないよ…)

この二つを勝ち負けで決めてしまうのは、わたしには到底できなかった。
だけど、フィギュアスケートとはそういう競技。

(いくら全員がすごい演技をしても、必ず順位は着く…)

一番初めのトリプルアクセルを勝生さんが決めた後、わたしはそっとリンクから抜けだした。







リンクへと続く長い階段の一番下のところで、わたしは立ち尽くしていた。

(みんな、すごかったな)

わたしなんかには想像もつかないような世界。
どんなにわたしがすごいと思っても、当人がそう思っているとは限らない。
どんなに周りの人がその演技に感動しようが、フィギュアスケート選手だって一人のアスリート。
きっと、永遠に自分の望むところを目指していくんだと思う。

それは、きっと、彼も同じ。

「…名前、お前、なんで」

エメラルドグリーンを真ん丸に見開き、わたしを見つめるユーリ。
豹柄のトランクを持っていて、帰ろうとしているのは明白だった。

「置いていくつもりだった?」

そう笑って言うと、ユーリの顔はどんどんと歪んでいく。

「は?何言ってんだよ。お前の荷物、部屋に置いてなかったじゃねーかよ。むしろお前が置いていったのかと思った」

わたしを睨みながらそう言うユーリ。
そんなユーリに、わたしは「そんなわけないじゃない」と言った。

「帰ろ、ユーリ」

そう言い、わたしはもう一度胸元を握る。
コロンと彼の首元で光るもの。
彼は、苦い顔をして、わたしからプイと顔を背けた。

「…悪かったな」
「何が?」
「今日、……勝てなくて」

悔しそうに顔を歪ませるユーリ。
わたしはそんなユーリをじっと見つめる。

まだ少し生温い風が、わたしたちを包んでいく。

「何言ってるの」

そう言ったわたしを、ユーリはゆっくりと見つめる。

「それは、これから獲りにいくんでしょう?」

ユーリのプラチナブロンドが、風に乗ってサラリと揺れる。

ユーリは、天才だ。
だけど、それ以上に大きな野望を持っている。

素人だけど、これだけは分かる。


ユーリは、きっと強くなるよ。


「……そうだな」

そう言って歩き出したユーリを追うように、わたしも歩き出す。
二人の影は、夕焼けに染まって、大きく大きく伸びていた。






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