昨日よりも遠い背中
ロシアに帰ってきて、まずは各々がそれぞれの家に一旦帰ることにした。
荷物を整理するのも、掃除をするのも億劫で、わたしは部屋に着くなりすぐにベットに飛び込む。
(今日は……なんか、いろいろ疲れたな)
結局あの後は、両方とももう一度寝たので、話したのは寝ぼけながらの「またね」だけ。
わたしが泣いた理由も深くは追求してこなかったユーリに、ただただ感謝した。
カバンからちらりと見えるエメラルドグリーンのストーンがついたネックレス。
同じ色の瞳をした男の子が、わたしの頭を埋め尽くしていく。
(……さっき別れたばっかなのに、もう会いたくなる)
どうしようもなく、胸が焦がれてやまない。
こんな気持ちは、初めてだった。
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『明日はお前も必ず来いってヤコフが言ってきた』
ユーリからそんなLINEが入ってきたのは、またわたしがひと眠りした後。
そのLINEをみた瞬間、わたしはギクッとなる。
ユーリにヤコフが電話をしてきたとき、彼は本当にご立腹していた。
…忘れていたけど、わたしも同罪だったっけ。
ガミガミとわたしたちを怒るヤコフが思い浮かぶ。
指は、勝手に動いていた。
『行きたくないです』
そうわたしが送ると、時間をかけずに、『いーから来いよ!』と怒りのLINEが来て、わたしは思わず深いため息をついてしまった。
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「……ヤコフコーチ、お久しぶりです」
リンクに着くと、すっかりカンカンとなっているヤコフコーチと、ブスッとした顔でそっぽを向いているユーリが出迎えてくれた。
『クソテメー遅いぞ何だよテメー殺すぞ』みたいな顔でわたしを睨みつけてくるユーリに、わたしは思わずあさっての方向を向く。
だって、ヤコフコーチ、怖いんだもの。
「名前、ユーリ、……そこに並べ」
ヤコフコーチの静かな声が、わたしとユーリをビクッとさせる。
いつもヤコフコーチにこってり怒られてもケロッとしていたユーリでもそうなるのだ。
今日のヤコフコーチは、まさに大魔王が君臨したが如く。
そしてそこから、わたしたちへの長いお叱りが始まった。
「あ、ユーリだ!帰ってきたんだ!」
「名前もいるー!」
無邪気な声で駆け寄ろうとしてくる子どもたちに、わたしたちは一体どんな風に見られているんだろう。
ひたすらヤコフコーチの説教が続く。
多分、横のユーリは目を開けながら半分寝ている。
半分聞き逃すようにヤコフコーチの説教を聞いていたわたし。
「大切な準備期間を削ってまで日本に行った甲斐があるのか?!」
だけど、ヤコフコーチのその言葉を聞いた瞬間、わたしは一歩前に進んでいた。
ウトウトしていた隣のユーリも、キョトンとわたしを見てくる。
「ヤコフコーチ、大丈夫です」
「はぁ?!」とヤコフコーチがわたしをグイッと睨んでくる。
もともとこういうのに慣れていないわたしは一瞬身を引きそうになるが、それでも何とか声を出す。
「ユーリは、日本に行って、すごく変わりました。練習を見れば分かります」
ユーリの日本でのがんばりを思い出す。
ヴィクトルがいなくなった今のロシア、きっとユーリはエースとして恥じない選手になるに違いない。
「今回は、止める立場だったのに止めなかったわたしが悪かったです。ユーリは、何も悪くないです。だから、怒るのはわたしだけにしてください」
そう言って頭を下げるわたし。
以前、頭を下げることにユーリがかなり抵抗を持っていたのを思い出す。
なら、わたしがユーリの分まで頭を下げるよ。
そう思っていると、横から「…おい、名前」と言う、ユーリの驚いたような声が聞こえてくる。
ヤコフコーチは、何も言わなかった。
わたしはしばらく頭を下げていたが、不思議に思い、ふと顔をあげる。
すると、どこか苦虫を噛み潰したような表情をしているヤコフコーチがいた。
どうしたんだろう?と思って首を傾げると、「……それなら、その成果を見せてみろ」とそう言って、呆気無く説教は終わったのだった。
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ヤコフコーチが去っていった後、久しぶりのわたしたちに飛びついてきた子どもたちの頭を撫でる。
「日本楽しかった?」
「お土産あるのー?」
と聞いてくる子どもたちとお喋りをしていると、ユーリがわたしを見つめているのが分かった。
「ユーリ、どうしたの?」
「お前……すげぇな」
わたしを感心したように見ながらそう言うユーリに、わたしは「でしょ」と笑って答える。
いつもだったらここで「調子に乗るな」とか言われそうだったけれど、ユーリは思ったよりも早くヤコフコーチの説教から解放されたのが嬉しかったのか、上機嫌そうだったから何も言われなかった。
「ヤコフも何だかんだお前に甘いんだよな……。けど、まじ助かった」
そう言うユーリに、わたしも笑って答える。
「わたしにできることは、これくらいしかないもん」
そのわたしの答えに、ユーリが、少しだけ目を見開いてわたしを見つめてくるのが分かった。
わたしは笑ったまま、胸が微かに痛むのを感じる。
可笑しい。昨日からわたし、本当に可笑しい。
分かっているのに、自分でも、止めらなくなってしまう。
「名前、やっぱお前………」
「でも、さっきヤコフコーチにも見ていてくださいって言っちゃったから、ちゃんと練習しないとダメだよ?」
何かを言いたげにしているユーリを遮り、わたしがそう言うと、「……分かってるよ」と少しふくれっ面で返してきた。
「名前」
そして少し真剣な目でわたしを見てくるユーリ。
真意を探られるような、そんな瞳の力強さに、わたしは咄嗟に目を背けてしまう。
「………練習、観て行けよ」
そんなわたしをユーリは怒ったりはせず、ただそれだけを言った。
「…うん」と、そう答えるわたしを最後まで不思議そうに見ながらも、ユーリはリンクへと入っていった。
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「あら、名前、練習観に来てたんだ!」
リンクに行くと、笑いながらミラがやって来る。
そんなミラに挨拶をしながら、わたしはリンクサイドのベンチに座り、ユーリの練習風景を見つめた。
「日本で何かあった?さっきヤコフとも話していたんだけど、ユーリ、随分と真面目になったわね…」
ミラが、そしてわたしが思った通り、今のユーリには少しの緊張感が漂っていた。
今まで以上に練習に対して、そしてスケートに対しての思いが強くなったと思う。
ヤコフコーチもさっきのわたしの言葉が間違っていなかったことに、気づいたようだった。
ライバルを見つけたことによって火がついた闘争心。
それは、やはり彼に大きな影響を及ぼしていた。
「うん……ユーリは、どんどんすごくなっていくよ」
そう言うと、胸がチクリと痛んでいく。
良いことなのに、もちろんそのはずなのに、こんな風に寂しく、不安に思ってしまう自分が、わたしは心底嫌だった。
「……名前、あなた、」
「おお、来てくれたか」
ミラの言葉は、ヤコフコーチに遮られて最後までは聞こえなかった。
ヤコフコーチが声をかけた先には、スラっとした女の人が立っている。
「誰…?あの女の人」
見かけたことのないその顔に、わたしは首を傾げる。
「あれ……元ボリショイ・バレエのプリマだった、リリア・バラノフスカヤよ!」
驚いたように言うミラに、わたしはその人を静かに見つめる。
精悍な眼差しをしているその女の人の目線の先に写っていたのは、紛れもないプラチナブロンドで。
―――胸の鼓動は、嫌に響いていた。
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