なきむしの夜空



ユーリが新しい振付師――リリアさんのもと、住み込みで特訓をすることになったのは、その後すぐだった。


わたしはリンクの外、自動販売機のあるベンチの前でココアを飲みながら、先ほどの会話を思い出していた。

――『フリーのプログラムは私が振付をします。今シーズンのプリンシパル…いいえ、プリマになりなさい。魂を売ってでも勝ちたいのなら』

――『魂売ったぐらいで勝てんのなら、この体ごといくらでもあんたにくれてやるよ』

「……ユーリ…」

ポツリと呟いた言葉は、どこにも届かずに消えていった。

強い意志を持つエメラルドグリーンの瞳。
あんなに強い輝きを持った瞳を見たのは、本当に初めてだった。

ロシアの妖精は、いつまでもわたしが知っている、怒りっぽくて、単純で、猫みたいな少年のままではいない。
喉から手が出るほどに渇望する金メダルのためには、きっと何でもするのだろう。
妖精は、ただの男の子ではない。
一人の、立派なソルジャーなのだ。

それはきっと、わたしがどうがんばって手を伸ばしても、触れられない存在。


「……名前、ここにいたのね」

俯いていると、いつもより優しい声をしたミラがわたしの隣にいた。
驚いて顔をあげると、ミラの青い瞳がわたしのそれとぶつかる。

「ユーリ、さっそく練習始めたのよ。リリアさん、とても厳しそう」

ミラがブラックコーヒーを選び、ボタンを押す。
ガコンと出てくるコーヒーを、わたしは静かに見つめていた。


プシュッとプルタブを開ける音が響く。
コーヒーの香りに包まれる空間。
わたしの脳裏には、ある記憶が蘇った。



―――『ユーリ、もう練習始まる時間じゃないの?』
『いーんだよたまには。昨日ちゃんと行ったんだから』
『もう…。またヤコフコーチに怒られても仕方ないよ』

ある冬の朝。暖房で温かい部屋の中、ユーリがコーヒーを飲みながら、わたしの作った朝食を食べる。
わたしは食器を片付けながら、呑気にスマートフォンを弄っているユーリを見てため息をついた。

『ユーリ、早く食べて。洗い物残っちゃうじゃん』
『お前、もう食べたのかよ』
『さっき、残り物少しだけ。朝、あんまりお腹すかないんだよね』
『ふーん……じゃあ、ほら』

そう言ってユーリがわたしに差し出してきたのは、彼が飲んでいるコーヒー。

『え、いいよいいよ。そんな空いてないもん』
『いいから、飲めよ。お前今日練習見に来んだろ?途中で腹鳴ったらどーすんだよ』

コーヒーで空腹は満たされない。
だけど、そんな彼の優しさが、わたしは嬉しかった。

『……うん。ありがとう』

体全体に温かさが広がったのは、きっとコーヒーのせいだけではない。
わたしはエメラルドグリーンを見ながら、そう思って笑った。―――



「名前、」

ミラは、わたしを見つめたまま、小さな声で、でもどこか確信めいた声でわたしに問いかける。


「ユーリと、別れるの?」


そう言われて初めて、わたしは全てが分かった。

わたしは、怖いのだ。
気がつけばいつも隣にいたはずのユーリが、どんどんと前に進んでいき、もう手が届かない場所に行ってしまうことが。

わたしなんか置いてけぼりにしても、ユーリは迷わずにまっすぐに進んでいくだけ。

手を伸ばしても、走っても、声をかけても、差はどんどんと開いていくことが。

わたしはずっと、怖かったんだ。

“欲”がないアスリートなんて、この世に一人もいない。
そしてそれは、ユーリももちろん例外ではない。
金メダルというただ唯一の真実だけを求め、彼は猛スピードで走っていくのだろう。

そのスピードに、置いて行かれてしまうのが怖かったのだ。

どんどん開いていく二人の間を考えるのが、とても怖いのだ。


「………っ、」

ココアを持つ手が、震える。
溢れて止まらない気持ちは、涙となって零れ出していく。


「ミラ…、わたし、どうしたらいいのかな」
「名前…」
「ユーリの隣にいる自信が持てないの。もっと上手にユーリを支えられる人がいるべきじゃないのかなって。ユーリは、わたしがいなくてもどんどん進んでいくのに、わたしはユーリがいないだけで、………っ、こんなに、寂しくなって、っ」

一度溢れてしまった思いは、もう収まる術がなかった。
今までの不安も、すべてを吐き出すようにわたしは泣いた。

好きなのに。ただ隣にいたいのに。
わたしはきっと、彼が望む方向と全く同じ方向を見ることができない。

ミラが、そっとわたしを抱きしめてくる。
声をあげて泣くわたしを、彼女は黙って背中を撫で続けてくれた。

「わたし、スケートしてればよかったかな?そしたら、もっとユーリの側にいる自信が持てた?ミラ、わたし、どうすればいいの…?」

答えなんかどこにもないのに、わたしはそれを探していた。

例えば、わたしがミラだったら。
ユーリと同じ方向を向いて、一緒の歩幅で歩けたのかな?

「………名前、あなた、本当にユーリが好きなのね」

優しい声で、ただそれだけを言ってくれたミラに、その温もりに。
そして、頭に焼き付いているわたしの大好きなプラチナブロンドの姿に。

わたしはただ、泣き続けていた。







その後、わたしはすぐに家に帰った。
こんなぐちゃぐちゃな気持ちのままあそこにいるなんて、がんばっている選手たちに申し訳なかった。
自分の練習もあるのに、わたしのところに来てくれたミラには、本当に感謝しかない。


家に帰ってしばらくしてからかかってきた電話。もう辺りは真っ暗になっていた。
ディスプレイに表示されている名前を確認して、わたしは目を閉じる。

「…もしもし、」
電話の声色で、悟られないように。気づかれないように、わたしは普通を装う。

『…お前何で勝手に帰ったんだよ』

いつもより低いユーリの声が聞こえる。
本当はもっと怒りたいのに、その気力がないといった声だった。

「練習大変だった?」
『……やべぇよ。大変どころじゃねぇよ、ってお前、はぐらかすなよ』

心底疲れたようにため息をつくユーリに、わたしは電話口で思わず笑ってしまう。
しんどそうだけど、まだ冗談を言えるようなら大丈夫そうだよね。
そう思いながら、わたしは用意していた言葉を紡いでいく。

「ごめんね、ちょっと時差ボケしちゃったのか、体調悪いんだ」
『マジか、大丈夫かよ?』
「うん。だけど、回復するまで練習観にいけないかも…」
『………マジか』

本当はこんなの嘘だ。
わたしは、わたしの知らないユーリになっていくのを見るのが怖い、臆病者なだけ。

『あー、後さ。聞いたかも知んないけど、俺、コーチのところに住むことなった』
「…うん、知ってるよ」
『………そっか』

ユーリは、今どんな気持ちでいるのかな。どこにいるのかな。
そんなことを思いながら、わたしはベランダのカーテンを開けて、星空を見つめる。
一つ、とても綺麗に輝く星があった。
周りの星たちを置き去りにしてしまうように輝くそれに、わたしは思わず手を伸ばす。

――わたしの指先は、コツンと窓ガラスに遮られた。


『………なぁ、』

ユーリの声が、耳元に響く。

『お前、ずっといるよな?』

その言葉を聞いた瞬間、わたしの目からは、もう枯れてしまったと思っていた涙がもう一度零れた。

「……ユーリ、」

絞りだすように、懇願するようにその声を呼ぶ。
自分でも聞こえたか分からないその声は、きっと電話越しの彼には届いていない。

『行かないで』そんな言葉は、絶対に言えないから。

だから、わたしは明るいのを装って。
零れる涙はそのままに、こう言った。

「金メダル、獲ってね」

それが、ユーリが一番に望むものだから。






戻る


top
ALICE+