どうか導いて



そしてカナダ大会当日。
わたしは、ロシアの自分の部屋のベットの中にいた。

―――
――

『久しぶりだな、名前』
「……ヤコフコーチ」

そうヤコフコーチから電話を受けたのはその1週間ほど前。
久しぶりの声に、わたしはすでに懐かしさを感じていた。

『ミラから聞いた。体調、あまり良くないらしいな』

ミラ、わたしが体調悪いって嘘、まだ続けてくれているんだとわたしは思った。ありがたい反面、とても申し訳なく感じる。
いつまでも逃げ続けている自分が、本当に嫌だった。

『カナダには来るのか?もしも来るならチケットを渡す』

いつもわたしをまるでリンクメイトかのように扱ってくれるヤコフコーチは、特にユーリが出場する大会のチケットを、何とわたしの分まで用意してくれる。
今回も、いつものようにわたしが行くのだろうと思っていたに違いない。
わたしも、必ずユーリの試合は観にいっていた。

だけど、今回わたしは初めてその好意を拒んだ。
恩知らずなのは知っている。
自分勝手なのも知っている。
けれど、今のわたしのまま試合を観に行くのは、本気で試合に臨もうとする選手陣、そして他の応援をする方々にとってとても失礼なことだと思った。

わたしの返事を聞き、ヤコフコーチが残念そうに言った。

『そうか…。ユーリ、見違えたように変わっているぞ。急に会ったら、驚くかもしれない』

その言葉は、まるでわたしの心の奥に棘を突き刺すように、とても重く響いた。
胸が痛む中、わたしは平常を装い、そうなんですか、と答える。

「……ユーリ、元気にしていますか」

ユーリとしばらく会わない間、ずっと彼のことを考えていたような気がする。
会わなくなったら、会いたくなる。
声が聞こえなくなったら、聞きたくなる。
当たり前のように募っていく思いに、わたしは胸が張り裂けそうだった。

『元気にしているよ』

だけど今は、その言葉が聞けただけで十分だった。

「…………そう、ですか」

わたしの精いっぱい振り絞ったような答えに、ヤコフコーチが『名前、お前…』と呟く。

『お前、ユーリと何か、』

おそらく『あったのか?』と続くはずだった電話は、誰かによって遮られた。

ヤコフコーチの声が聞こえなくなった電話口、ゴソゴソと向こうの音が聞こえる。

「ヤコフコーチ?どうしたんです…」
『もしもし。はじめましてね』

そして聞こえてきた声に、わたしは一瞬息を止める。

「……リリア、さん」

電話越しの相手は、驚くほどに凛とした、美しい声の持ち主だった。『お、おいリリア、』とヤコフコーチの声も聞こえる。

『あなたが名前さんね?ユーリやヤコフから話は聞いているわ』
「……ユーリから」
『あなたたちがどんな関係で、どんな風に互いを想っているかは、私にはもちろんどうでもいいことです』
「………」
『だけど、あなたの存在が彼にどれほど影響するかは、何となく分かります』

唇をきゅっと噛みしめる。
電話を、意味もなくぎゅっと両の手で握った。

『今までのあの子は死にました。ユーリは今、正しくプリマになろうとしています。自分の行動が、どれだけ彼に影響するか考えなさい。そして、今のあなたが与えてしまうであろう、彼への影響も…。あなたならきっと、何が一番最善で、何が一番彼のためになるか、分かるはずです。よく考えなさい』

そう言う彼女の言葉は、わたしが今まで踏み出せなかったことをまるで暗示しているかのような響きを持っていた。
すとん、と心の中に何かが収まるような気がした。
……そうだ。大切なのは、一番大事なことは何か、わたしはもう気づいていたではないか。

彼女の言葉は、わたしにあった最後の選択肢を消していった。

だから、わたしはリリアさんに向かってこう言う。

「………分かってます」


―――終止符を、打とう。

いつまでも逃げたように答えを出さない日々に。

そして、今も胸を焦がして止まない、この思いからも。

――
―――







そしてカナダ大会は始まった。
わたしはここ数日、スマートフォンから目が離せない日々が続いた。
ライスト、ツイッターにあがる情報の数々。
現地に行っていない分、誰かの投稿や動画を見ながら、大会を追っていった。

「………おめでとう、ユーリ」

そして、ユーリは見事、シニアデビューシーズンながら、銀メダルという成績を残したのだ。

表彰式の映像を見ながら、わたしはベットに横になっていた。

「一位はジャンさんか…すごいなぁ」

ユーリも特別大きなミスは、ショートとフリーともになかった。
それなのに、勝てなかった。
改めて、シニアの厳しさを思い知っただろう。
そして、きっとライバルが増えただろう。

(………あ、今、絶対不機嫌そうだよね。何でだよって、怒ってそう…)

映像を見ても分かる、ユーリの美しさに、そして相変わらずの怒りっぽさに、わたしはそっと目を閉じた。


――もう、終わりにしよう。

わたしは、そう決めたのだ。

ユーリの夢に進んでいく道が、わたしなんかのような重荷で塞がってしまわないように。

ユーリの、輝かしいシニアデビュー。
それを目に焼き付けながら、わたしは一人で、また少しだけ涙を流す。


もう、涙からもサヨナラをしよう。
だから、この日だけは、わたしは過去を消し去るかのように、いつまでも泣いた。







「…………え、」

だから、数日後、買い物の帰りに見えたわたしの家の前で蹲る影に、わたしは心底驚いた。

ロシアのとてつもなく厳しい寒さの風が、わたしとその人の間を通り抜けていく。

「………よぉ」

鼻を真っ赤にしてわたしを見上げてきたそのプラチナブロンドに、わたしはしばらく固まったまま、動けなくなってしまった。


・・・


いくらなんでもこの寒さの中ずっとあそこにいるのは命に関わる、とわたしは急いで彼を家に入れた。
風邪を引かないように暖房で部屋を温め、お風呂に彼を連れ込む。

案の定くしゃみをしている彼に、わたしは慌ててティッシュを渡す。

頭の中は、混乱したままだった。

(え。なんで、まだ、わたし言うタイミングとか全く決めてないのに、え、どうしよう…)

あまりの急すぎるユーリの訪問。
覚悟は決めたはずなのに、次はそれのタイミングを決められない自分が、とても歯がゆい。

「はー、あったけー。死ぬかと思った…」

わたしがあれよあれよと考えこんでいる内に、ユーリは、お風呂から出てきてしまった。
前よりも引き締まったように見えるその華奢な体に、わたしは嫌でも胸が鳴る。
そしてユーリは、混乱しているわたしに、「飯食わせろ!」とだけ言って来たのである。


「っ、カツ丼、やっぱうめぇ!」

ある具材で、なるべく簡単なものにしようと思ったが、少しわたしは頑張ってカツ丼にした。
大会後だったし、本当はダメかなと思ったけど、今までがんばってきたユーリへの、わたしなりのご褒美のつもりだった。

(それに、多分…最後になるから)

言おう言おうとずっと考えていた言葉。
わたしは、たった5文字のその言葉を頭の中で何度も繰り返していく。

もう、随分と上手に箸を使っているユーリ。
米粒を頬につけている姿も、誰も取らないのに掻きこむようにして食べていくその姿も、全部を目に焼き付けておこう。

そう思いながら、彼が食べ終わるのを、まるでタイムリミットが近づいているかのように待っていた。


「あぁー食った食った!最近こーゆーの食わせてもらえなかったからな」
「そっか…それならよかったな」

お腹が一杯になって少し上機嫌そうなユーリに、今から言うのは少し憚れたが、それでもこのタイミングを逃したら一生言えないだろう、わたしはそう思って、迷わない内に口を開いた。

「あ、あのね、ユーリ。わたし、話が……」
「名前」

しどろもどろになりながらも、何とか言おうと決めたわたしの言葉を遮るかのように、被さってきたユーリの声。
もう何も入っていないカツ丼の器を覗いていたその瞳が、静かにわたしを捉えていく。

「話したいことがある」

「………え?」

急に雰囲気を変えるようなその声色に、思わず驚いたように彼を見る。


―――見間違えてた。
ユーリは、上機嫌なんかではない。

すごく鋭く、それでいて真剣な顔で、エメラルドグリーンはわたしを真っ直ぐに見つめたまま、輝いていた。






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