溶け出した心臓ごと包んで



「……いろいろお前には聞きたいことがあるけど、とりあえずもう体調は平気なのかよ?」

温かいホットミルクを二人分用意して、わたしはダイニングで、ユーリの正面の椅子に座る。

「………うん、平気だよ」
「ならよかった」

意味もなくホットミルクをちびちびと飲む。
落ち着かなかった。
意志の強い、それでいてどこかわたしをちゃんと心配しているようなエメラルドグリーンを見ると、どうしようもなく泣きたくなってしまうから。
視線をなかなか合わせられなくて、思わず俯いてしまう。

「……カナダ大会も、体調不良なのか?」

そう聞いてきたユーリ。
わたしは、用意していた言葉を言おうと思ったのに、喉が、口が、動かなかった。

何も言わないわたしを、ユーリはどう思ったのだろうか。
何か一つでも言葉を発したら、今ギリギリのところで繋ぎ止めている思いが溢れそうで怖かった。

「………優勝、できなかった」

わたしの言葉を待たずに、ポツリと、でも悔しそうにそう言うユーリを、わたしははっと見つめる。
ギュッと拳を握っているユーリの顔がわずかに歪んでいるのに気がついて、わたしは思わず口を開ける。

「そ、そんなことないよ!わたし、ちゃんと見てた!ユーリの演技、本当に感動したよ。だからユーリ、何も後悔する所なんて全然ない!」

目頭が熱くなるのを抑えることもできずに、わたしは自分の思いを次々と口に出していた。

ユーリがすごく頑張っていたのなんて、ミラから、ヤコフコーチから、痛いほどに聞いていた。

だから、そんな苦しそうな顔しないで。
そう思いながら必死にユーリに気持ちを伝える。

「今回は、相手が強かっただけ。大丈夫、ユーリは大丈夫だ………、」

溢れるまま必死で言っていたわたしの頬に、温かな感触が広がる。
わたしの頬にそっと当てられたのは、紛れもない、目の前の彼の手。

「また、泣いている」

気がついたら、抑えきれない涙が、ポロポロとユーリの手の甲に滑り落ちていっていた。

ユーリの綺麗な瞳の中に、とても情けない表情をしているわたしが映っているのが分かった。
目を逸らしたいのに、今度は、捕らわれたかのようにもう離すことはできなかった。

「お前は一体、何を考えている?」


――『何が一番最善で、何が一番彼のためになるか』
――『どんどんプリマになってきている』
――『ユーリ、見違えたように変わっているぞ』

わたしが、するべきことは。


「ユーリ………もう、終わりにしよう」


彼の瞳から逃げることはできずに、ボヤケる視界を拭う選択肢もなく、ただわたしは涙を流した。

口に出した瞬間、胸がひどく痛み、大切な何かがなくなったかのような、そんな気分になる。

ユーリの瞳が瞠目するのが分かり、わたしは嗚咽を思わず零す。


前だけ進むユーリのそばに、後ろばっかり振り向いてしまうわたしがいていいはすがない。
―――そう覚悟していたはずなのに、離れてほしくないと思ってしまう。

そんな気持ちを振り切るかのように、わたしは持てる全ての力を使い、両手を使い、ユーリの手を剥がそうとする。


「………なんだ」

だけど、その手は逆に絡まれてしまい、気がついたときには、わたしは彼の腕の中にいた。

頭が呆然とする。
何が起きているのかさっぱり分からないのに、体は、心は、この温もりを欲していたのか、ひどく安心した。

場に合わないような気の抜けたような声でユーリが息をつく。

「お前が、何を考えているか分からなかったから、何も言えなかった」

ユーリの声が、わたしのすぐ耳元で響く。
わたしの涙が、彼の服にどんどんと吸い込まれていっているのが分かった。

「だけど、もう言える」

そうしてわたしを一回離し、じっと目を見てくる。
ボロボロの顔をしたわたしと、そんなわたしを見つめるユーリの顔は、何故か、どこか優しげだった。

「行くな」

たった三文字、されど三文字。

その言葉が、わたしの体全体に染み渡っていった。


「…………ユー、リ…」

「何で、俺と離れようとすんだよ」

涙が止まらないわたしを落ち着かせるように、もう一度抱き寄せ、頭をゆっくり撫でてくるユーリ。
こんなに優しいユーリを、わたしは、見たことがなかった。

今まで、自分の中で封じ込めようとしていた思いを、彼は、いとも簡単に紐解いていってしまう。

「………怖かった」

ポツリと呟いたのは、今までのぐちゃぐちゃなわたしの心の中。
存外小さな声だと思ったが、構わずわたしは続ける。

「ユーリが、どんどんいなくなっちゃう気がした…。わたしなんか、いていいのかなって、思った。ユーリのためなんて思っていたけどね、本当は、わたしが怖かっただけ…」

リリアさんの言葉さえも、ただのわたしの言い訳だった。
人に言われたから、ユーリのことを考えたから、そんな大層なものではなかった。

わたしは、ユーリといつまでも隣にいたかっただけなのだ。

「今までのユーリが、いなくなっちゃうのが怖かった。結局わたし、自分のことしか考えていなかった…」

ゆっくりと瞳を閉じる。
わたしの小さな声に、ユーリは、果たして何を感じているのだろう。
そんなことも考えるのが億劫になるくらい、彼の温もりは、本当に心地よかった。

「ほんとバカかお前は」
「……バ…ッ?!っう、」

だけど、次に聞こえた言葉は、わたしを心底バカにしたようなもので。
わたしは顔をあげようとしたが、後頭部をそのまま押さえられて、彼の肩に顔が埋まる。

バカにしたような声。だけど、その声が微かに震えているのが、わたしには分かった。

「……俺が遠くなるって、なんだよ」

ユーリが、苦しそうな表情をしているのが分かった。
抱きしめる力が、無意識なのか強くなっているから。
こんな顔をさせてしまっていたんだな、とわたしは思う。

「…俺が上手くなっていくのがそんなに嫌だったのかよ」

「違うよ。……ただ、ユーリにわたしは不釣り合いじゃないのかなって思ったの。ユーリはすごいのに、わたしは、何もなくて…」

「俺は俺だろ」

その言葉に、わたしは首だけを動かし、ユーリの顔を見る。
ユーリもまた、その綺麗な瞳で、わたしを見ていた。

「お前が俺に対して変な距離だろーが、何を思ったとしても、俺がそんなもんぶち壊してやるよ」

―――その言葉で、わたしの今までの不安が全て溶かされていくのが分かった。

ユーリは、この人は、きっとわたしが作った変な距離も、全てを乗り越えてくれるだろう。
彼の言葉は、そんな確信さえ感じるような、頼もしいものだった。


ユーリの背中に、震える腕を回す。
言葉にならない思いで、胸はいっぱいになった。

「大体俺の気持ちも考えろよ。何年いると思ってるんだよ。お前を離すわけねーだろ」
「…そんなの分からないよ。だって、わたしはユーリじゃないもん」

「でも、俺はお前が分かる」

ぐいっと離された体。ユーリがわたしの頬を両手で包み込む。絡みあう瞳同士。


「名前、お前はどうしたい?」


――――ポロリ。
ひと粒、新たな涙がわたしの頬を滑り落ちる。それを掬い上げるように、親指をわたしの目尻に這わすユーリ。

「わ、たしは………」

わたしが本当に望んでいるもの。そんなの、たった一つしかない。

「ユーリと……ずっと、一緒にいたい。隣にいたい…!」

――わたしが張り裂ける胸を抑えながらただ願っていたのは、こんなにシンプルなこと。

“行かないで”

あの電話でユーリに伝えられなかった言葉を、わたしはようやく伝えられた。

嗚咽をこぼしながら、そのまま、ユーリの胸に滑り込むように顔を埋める。

ユーリの香りが、わたしを包んでいく。
ひどく溺れてしまいそうな、そんな感覚さえする。
でも、今はそれでよかった。
余計なことは考えず、溺れていたいと思った。

「………それでいーんだよ、バーカ」

優しく回してくれた腕に、より深くなった香りと温もりに。

わたしの目から、涙が止まることはなかった。






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