世界を掴む5分間



ロシア大会フリー当日。

ユーリの機嫌は、最悪だった。

「ユーリ、そんな怖い顔しないでよ…」
「クソ………ヤコフも何考えてんだよ」







それは昨日のこと。

ユーリも演技が終わり、ショートプログラムが終了したあと。

わたしもヤコフコーチらと共に舞台裏に入れて(関係者パスをくれたヤコフコーチにすっごく感謝した)、演技後のユーリのところに向かった。

さっそく反省会をしている二人の少し後ろを歩いているとき、前方から見慣れた声が聞こえてきた。

「ヴィクトル、今すぐ日本に戻って。――――――。」
「でも、――――。」

目の前にいたのは、同じくショートプログラムが終わったばかりの勝生さんとヴィクトル。
周りの喧騒で、内容まではあまり聞こえなかったが、いつもの二人とは様子が全然違うことは分かった。

必死で何かを訴えている勝生さんと、頭を抑えて困惑しているようなヴィクトル。
そのヴィクトルの青い目が、ヤコフコーチを捕らえたかと思うと、次の瞬間彼は、

「ヤコフ!」

と、こちらに駆け寄って来た。

「よかった。俺にとってのコーチはヤコフしかいないんだ」
そう言うヴィクトル。ヤコフは「なんだ、戻る気になったのか?」と、そんな彼にどこか期待したような顔で聞く。

いつもとは違う様子のヴィクトル。
次の言葉に、わたしたちは揃って驚きの声をあげた。



「明日一日だけ、勇利のコーチやってくれないか」







「でも仕方ないよ。マッカチンが危険な状態だったんだし………」
「………クソ」

わたしがそう言うと、ユーリはイライラした様子はしていたものの、言葉を詰まらせる。
……ピリピリしてるなぁ。
ただでさえあの二人に対して並ならぬ対抗心を抱いているから仕方ないんだろうけど。
でもユーリは、気持ちの荒さが演技に出てしまうことが時々あるから。

なんか、気持ちを少しでも軽くできるようなことはないのかな。

「ユーリ」

わたしがそう思いながら会場を二人で歩いていると、後ろからヤコフコーチがユーリを呼んできた。
「お前の爺さんが来ているぞ」という言葉を聞き、ユーリは外に飛び出していった。
どこかワクワクしているような、少しソワソワしたような表情で、駆けて行くその横顔。

………うん。とりあえず、わたしの心配も無意味になりそうだな。

わたしはそう思って少し安心すると、ヤコフコーチに「観客席で観てますね」と伝える。

「名前」

観客席に向かおうとすると、後ろからヤコフコーチに呼ばれる。
振り返ってヤコフコーチを見ると、彼はやけに真剣な顔をしてわたしを見ていた。

「ユーリのフリー、よく見ておけよ。もう、逃げ出すな」

端的な言葉。でもわたしの胸には重く響く言葉。

それだけを言ってわたしから去って行くヤコフコーチ。
その背中を見送りながら、「…ありがとうございました」とわたしは勢い良く頭を下げた。

………ヤコフコーチ、わたしはもう逃げません。
そのスピードについていくのは確かに大変だけど、ユーリと一緒に、わたしも成長していきたいと思うから。







―――そして始まった、ロシア大会、男子フリープログラム。

ミスはありながらも悔いの無い演技をしていく者。
自分の限界を超えて、納得の行く演技をしていく者。
誰かへの愛をひたすら想いながら演技をしていく者。
ミスが目立ち、後悔の残る演技をしていく者。

そこには、たくさんのドラマがあった。

(みんな、すごい真摯なんだなぁ………)

誰もがいろいろな思いを胸に、リンクを滑っていくこの競技。

演技は、その人の心そのものなんだ、とわたしは思った。

(…ユーリは今日、何を思いながら滑るんだろう)


もしも。すごく、欲張りな願いをしてしまうのなら。

その中の、少し、ほんの少しにわたしがいたらいいな、なんて思った。



「…………あれ、ユーリ、髪型…」

滑走順が回ってきて、ユーリがリンクに飛び出していく。
彼のポニーテールを少し驚きながら見ていると、「あぁ」とミラが言う。

「昨日、いきなり言ってきたのよ。明日は髪の毛まとめるって。大変だったのよー?まだ自分ではできないからリリアさんに頼んだり」

まさか、とわたしは思った。
少し前に一度、わたしはユーリをポニーテールにしてみたときがある。
その時わたしはフリープログラムでやったら?と言ったが、ユーリはあんまり乗り気じゃなさそうだった。

(あの髪型………してくれたんだ、ユーリ)

小さな彼の優しさに、胸が温かくなるのを感じた。


――ピアノ協奏曲 ロ短調 アレグロ・アパッショナート。

振付師、元ボリショイ・バレエのプリマ、リリア・バラノフスカヤ。

(……心臓破りの最高難度の曲)

前見たカナダ大会の動画でも分かったが、生で観るとより鮮明に分かる。

この曲が心臓破りだと言われる理由が。

驚異的なスピードで流れていくピアノや管楽器の旋律。
少しでもスピードを落としてしまうと、一気に音楽との統合性が失われてしまう。

――だけど、ユーリはそんなの物ともしない。

「たっか。気合い入り過ぎじゃない?」
ミラの声を聞きながら、わたしは言葉を失ってしまう。

着実に決まっていくジャンプ。
息吐く暇もない、鬼のようなステップ。
そして、彼の覚悟が詰まった技術構成。

「後半にジャンプ6本入れる気?!」
驚いたようにそう叫ぶミラを横目に。

(………ユーリ)

わたしはぎゅっと服を握る。

彼は、このフリーに全てを賭けている。
彼の表情を見たら、そんなの一目瞭然だった。



――――圧倒的な演技。
ホームというプレッシャーも、全てを跳ね除けた、圧巻のフリープログラムだった。


『ユーリのフリー、よく見ておけよ』

ヤコフコーチの言葉をわたしは思い出した。

(………もし、仮に見るなって言われても、無理だ)


一度見たら虜になってしまうような、正に彼の最高傑作。



大歓声に包まれる会場内で、わたしも負けじと誰よりも大きく拍手を送った。



―――なんでわたし、ユーリが進化していくのを怖がっていたんだろう。

目を逸らすなんて勿体ない。
一寸足りとも逃さず、見ていたいと思った。

彼の驚異的な進化を、一番近くで見ていたい。



熱気が渦巻く会場内、そういう思いに、わたしは溢れていた。






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