貴方のその指先が恋しい
その日の夜。
明日のためにすぐに寝てしまったユーリとは違い、当の本人よりも緊張とかでいっぱいになってしまったわたしは、なかなか寝ることができずにいた。
(……ココアでも買いに行こうかな)
そう思い、そっとホテルの部屋から出る。
「あれ?……オタベックさん」
そしてホテルの自動販売機の前に行くと、すでに一人先客がいたようだ。
カザフスタンの英雄と言われている彼、オタベックさんは、暗い廊下の中、飲み物を片手にソファーに座っていた。
「………君か」
それだけ言って、飲み物を飲み干したオタベックさんが去ろうとしたので、わたしは慌てて呼び止める。
「あ、あの、オタベックさん!」
「……なんだ?」
ペットボトルを捨てながら、オタベックさんはわたしに目を向ける。
そんなオタベックさんに、わたしは頭を下げた。
「ユーリと、仲良く………って言ったら何か変ですけど、友達になってくれてありがとうございます」
「………」
「わたし、ユーリがあんなに楽しそうにしてるの始めて見ました。今までライバルとか、チームメイトとかはいたけど、あんなにユーリが笑顔を見せるのは、見たことがなかったです」
そう言いながら、わたしは夕方に見たユーリの笑顔を思い出していた。
とても、キラキラしたような、15歳らしい笑顔。
引き出してくれたのは、他の誰でもない、目の前のオダベックさんだ。
「だから、ありがとうございました」
そう言ってもう一度頭を下げるわたし。
そんなわたしをオタベックさんはしばらく無言で見つめながら、もう一度ソファーに座り直した。
そんな彼に首を傾げるわたしに、オタベックさんはこう言ってくる。
「ユーリ・プリセツキーに会ったのは、俺がジュニアで、彼がまだノービスの時だった」
思い出すようにわたしに話し出すオタベックさん。
わたしも遠慮がちに彼の隣に座る。
「ユーリ・プリセツキーは、一度見たら忘れられないソルジャーの目をしていた」
「ソルジャー………」
「だから、あっちがジュニアに上がってからも、俺が一足先にシニアに上がってからも、アイツからは目が離せなかった。そんな時、気が付いたんだ」
オタベックさんが、わたしを見てくる。
彼の黒い瞳に、わたしは視線が逸らせなくなってしまう。
「彼……ユーリ・プリセツキーは、いつもある一人の子を見ていた。試合のときは、いつもその子のことを気にしていた。その時のアイツは、俺が今まで見たことのないような表情をしていた。それが、君だ」
射抜かれるように見られて、わたしは思わず呼吸が止まりそうになる。
「……わたし?」と、何とか言うと、オタベックさんはわたしから目を離す。
「不思議な表情だった。まるで俺がカザフスタンに寄せている思いみたいだと思った。確かに恋愛感情なのだろうけど、それだけでは収まらないような何かを含んだような表情。アイツは俺と似ていると思った。どんなところかは俺もよく分からん。だけど、そんな顔をしているアイツのことは、本当に意外だった」
「………」
「君だけが、アイツを………そういう顔にさせられるのだろうな」
そうして今度は本当に去っていくオタベックさん。
わたしはそんな彼をただ黙って見送っていた。
(わたしにしか、できない表情………)
その言葉を噛みしめる。
(………わたしが、ユーリにしてあげられること)
そうして、わたしは前を向いた。
ユーリのためにできることなんて、たった一つだけだ。
力いっぱい応援しよう。
世界中の、誰よりも。ユーリにまでも届くような。
・
・
・
次の日。
朝わたしが目を覚ますと、もうユーリは隣にいなかった。
(………ランニングでも行ったのかな)
わたしは寝起きで重たい体を起こし、簡単に着替えると、ユーリを探しに外に出た。
バルセロナの早朝は、さすがに肌寒い。
マフラーでも巻いてくればよかったな、なんてわたしは思いながら、ホテルの裏にある海沿いを歩いて行く。
「あ、ユーリ…!」
お目当てのフード姿は比較的すぐに見つかった。
海岸沿いにいるユーリに声をかけようと思ったが、途中でやめる。
(……ヴィクトル?)
ユーリは、ヴィクトルと対峙していた。
ユーリが何かを言ったかと思うと、ヴィクトルがユーリの頬を掴む。
「……!」
どこかピリピリしている二人の空気。
入ってはいけない。
そう思って、わたしは少し遠くで待つことにした。
――――ユーリとヴィクトル。
この二人は、同じリンクメイトだが、仲良し、なんて言葉は似合わない。
もちろん普通に話すし、お互いいがみ合っているわけでもない。現にユーリはヴィクトルを追って日本まで飛んでいったくらい。
だけどユーリは、ヴィクトルを、勝生さんたちのように単なる“憧れ”の対象としては、決して見ていなかった。
誰であろうと構わない。
生きる伝説であろうが、チームメイトの先輩であろうが、ユーリは全ての人に勝ちたいと思っている。
(ヴィクトルがロシアにそのまま残っていたら……きっとここまで闘争心剥き出しにはならなかっただろうなぁ)
―――二人の間に流れる空気は、確かにピリピリしている。
だけど、これも、ユーリの著しい成長の重要な要因なのだろう。
わたしは対峙し続ける二人を見ながらそう思っていた。
やがて、会話が終わったようで、こちらに向かってユーリが歩いてくるのが分かった。
「ユーリ!」
「名前」
わたしに気が付いたようにはっと顔をあげるユーリ。
わたしの方に向かってくるユーリに「おはよう」と言うと、キュッと鼻を抓まれた。
「痛っ!」
「もうちょっと気ィ使えよ。鼻真っ赤んなってるぞ」
そうわたしに言ってくるユーリ。
わたしも、そんな彼の鼻を真似して同じように抓む。
「ユーリもだよ」
お互いに真っ赤になった鼻を見ながら、わたしは笑う。
「お揃いだね」と言うと、ユーリもつられるように、いつもより優しく笑った。
『君だけが、アイツを………そういう顔にさせられるのだろうな』
オダベックさんの言葉を思い出す。
ユーリは、ショートプログラムを控えた今、どんな気持ちなのかな。
わたしは、出来るだけ、それに寄り添っていたいな。
そう思って、彼の冷えた手を取った。
「ユーリ」
そうして彼のエメラルドグリーンを見て、しっかりとその名前を呼んだ。
たった三文字。だけど、この世界で一番大事な三文字。
噛みしめるように、その名前を呼ぶ。
「見てるよ」
温泉 on ICEのときにも送ったこの言葉。
たったその一言だけで、十分だと思った。
それだけで、全てが伝わると思った。
ユーリにとって、今までの、どの大会よりも思い入れ深い大会だと思う。
だからもう、後はユーリの思うままに。
ユーリが一番自分を出せるような滑りをしてほしい。
ユーリがわたしの手を握り返す。
綺麗な手だと思った。
その手で、きっと栄光を掴んでいくのだろうと思った。
「すげーの見せてやるよ」
そう返すエメラルドグリーンは、力強く光っていた。
きっと大丈夫だ。
ユーリなら、余計な心配はもういらない。
――――この後、世界の勝ち進んだ6人が挑むグランプリファイナル、男子ショートプログラムが、始まる。
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