恋する乙女的思考回路
リンク内に入ると、その気温の冷たさにぶるっと震える。
春先だというのに、未だに手放せないコートの端を握りしめ、はぁっと息を吐くと、瞬く間に白くなる。
他に誰もいない、静かな空間に、ユーリの探し人はいた。
(ヴィクトルのスケート、久しぶりに見たな…)
久しぶりに見ても、そのスケートは、さすがとしか言えなかった。
ジャンプも、その他全部の要素も、正に完成されている彼のスケート。
今シーズン現役じゃないことさえも、忘れてしまいそうなほどに圧巻的なものだった。
その振り付けにどこか既視感があったのか、ユーリがリンクサイドの上で腕を組み、じっとヴィクトルを見つめている。
「この振り付け……ヴィクトルが練習してた来シーズン用のショートプログラムだ」
そしてはっと気づいたように言うユーリに、勝生さんが「え?」と返した。
「ヴィクトルは来シーズン用の振り付けをすでに始めていたんだ。でも随分悩んでいた」
ポツリと話しだすユーリ。
勝生さんがユーリの横に行き、二人でヴィクトルを見る。
わたしも一歩後ろで、彼のスケートを見つめていた。
「ヴィクトルは観客を驚かせることを一番大事にしている。世界中を振り回してきたけど、もうみんな何をやっても新鮮には驚かない。本人がそれに一番気づいている」
確かに、ヴィクトルのスケートにはいつも驚きが込められていた。
誰もがやらないことを、彼はいとも簡単にやってのけてしまうのだ。
多種類の四回転しかり、プログラム最後の四回転フリップしかり。
「自分にイマジネーションが沸かないなんて死んでるのと一緒さ」
後ろからだとユーリの表情が分からない。
だけどその声色は、真剣そのもの。
勝生さんからも息を呑む音が聞こえる。
ヴィクトルは、だからこそ勝生さんの才能に惚れ込んだのだろう。
自分では、もう成し遂げられなさそうな『観客を驚かせること』。自分がこれからできないようなことを、やってのけてしまいそうな勝生さんを。
「来シーズン休むならあのプログラム俺にくれねぇかな……」
「え?」
「俺ならもっとビックリさせることができる。な、そうだろ名前」
「…え、わたし?」
急に振られた話に、一歩反応が遅れてしまう。
ジロリとユーリがわたしを見てくるので、とりあえず「そうだね」と返す。
「シニアデビューでグランプリファイナル優勝するにはヴィクトルの力が必要なんだ」
どこか力強く言った言葉に、勝生さんは「え、優勝?」と信じられないような顔をする。
確かに現実味がない話だ。
世界にはとても多くの強豪がいて、シニア1年目でグランプリファイナルを優勝するなんて、決して容易くはない。
(でも、ユーリは信じているんだろうなぁ……)
自分がその栄光をとることを。
だからこそ、ヴィクトルの力を欲し、この日本までやって来たのだ。
(……なんだか、やっぱり頼もしいな。)
そう思いながら、フード姿の彼を後ろから見つめた。
「ピンピンしてんじゃねーかヴィクトル!!」
ユーリがすうっと息を吸ったと思うと、長谷津のリンク内に、彼の怒号が響いた。
ヴィクトルが、ふと顔をあげてこっちを見る。
わたしたちに気がついた様子で、咄嗟にわたしはユーリの横に並び、お辞儀をした。
「ユーリ、名前、来てたのか。よくヤコフが許したなぁ。何か用か?」
笑顔とともに言われたその言葉に、隣のユーリの驚愕が伺えた。…あ、今のユーリの顔、すごい。
「その顔はあれか。俺は何か約束を忘れてるってことかな?」
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リンクからあがってきたヴィクトルが、「ユーリのお守りかい?君も大変だねー」とわたしをギュッと抱きしめてくる。
ボンッと顔が暑くなる。ヴィクトルはこれを「あいさつ」と言うけど、ロシア方式のこのあいさつには、まだまだ慣れない。多分いつまでも慣れないだろう。
勝生さんが「わわっ」と、わたしと同じように顔を赤くしている。やっぱり同じ日本人だと思ったら、なんだか感動してしまった。
「〜〜っ、ヴィクトル!!!」
すると、ものすごい勢いで腕を引っ張っられ、ヴィクトルの腕から離れる。
わたしの腕を掴んだままのユーリの顔は、相変わらず歪んだまま。
「いつまでも抱きつかれてヘラヘラしてんじゃねぇよ!」
「わ、わたし?!」
「テメー以外に誰がいるんだよ!」
「な、何でそんな怒ってるの?」
「は?怒ってねーっつーの!!」
矢継ぎ早に怒鳴ってくるユーリに、わたしはあたふたしてしまう。えっと、これ、完璧怒ってるよね?
それに、ユーリ、腕を強く掴みすぎ。ちょっとだけ痛いよ。
「ユーリ、名前痛がってるだろ?ほんといつまでも子どもなんだから」
「お前に言われたくねーよ!」
「ただの挨拶じゃないか。そんなに怒らなくても」
「だから、怒ってねーよ!!」
そう言いながらもパッとわたしの腕を離したユーリ。「いたたた…」と反射的に腕を擦ると、少しだけバツの悪そうな顔をする。
「ユーリ、そういうときジャパニーズは『ごめんなさい』って言うらしいよ?言わなくていいのかい?」
にっこり笑顔のヴィクトルに言われ、ユーリはわたしからそっぽ向いたまま、「…………ワリィ」と言ってきた。すごく、すごーーーく不服そうな顔で。
でも、ユーリの行動、本当は嬉しかったよ。ちょっとだけでも、ヤキモチを焼いてくれたんだよね?
そう言うとまたヴィクトルにからかわれそうだったので、わたしは「いいよ」とちょっとだけ笑いながら頷く。
そしたらユーリにまた睨まれたので、わたしは咄嗟に明後日の方向を向いた。
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