アバンチュール

「おーい、越前。」

そう小走りでそばに来るのは苗字先輩。あの日以降、以前よりやたらと絡まれるようになった。

普通のなんでもない日だったはずなのに。突然先輩は俺を好きだと言い出した。どういう意味か聞くまでもなかったのは試合でのラリーが余りにも熱かったから。俺が見ると言ったからか先輩は他の3年生が驚くぐらい本気で向かってきていたし更には機嫌が良いのも相まり絶好調であったらしい。俺はというと、そんな先輩の気持ちが乗ったボールに戸惑うしか無くこれ程まで酷い試合はいつ振りかというぐらいの絶不調であった。そういう、意味での好きを同性、しかも先輩に告げられてどうしたらいい。俺はその日までただの先輩だと思っていて、テニスプレーヤーとさえ思ってもいなかったかもしれない。だって俺はあの人の本気を見たのがこの前の試合が初めてだったのだから。

先輩のプレイは想像以上だった。全国、いや世界の選手たちと戦ったとしても俺に勝敗は予想できない。もし俺が絶好調だったとはいえ絶対勝てたとは言えない。いや、俺が勝つけども。まあそれほどまでに本気の先輩は強かったし結局はあの人もテニスが好きであった。俺は先輩の気持ちなどお構いなしでけれどテニスにだけは興味があって面白くて、以前はお互いに渋っていた試合も今はしたくて仕方がない。と言いつつここ最近俺があまりにも先輩と試合をしたがるせいで断られることが増えてきたけど。けれど試合以外なら大抵なんでも聞いてくれるし構ってくるしどちらかというと俺の方が鬱陶しいと思われているかもしれない。だいたい先輩も先輩で構ってくることは増えたけれどそれ以外は全く今までと変わらず、あの人のどこに俺への恋情があるのか分からず俺としても態度の変えようが無かった。

「桃がお前のこと探してたぞ。何したんだよ。」
「別に…お弁当の唐揚げ1個もらっただけ。」
「もらったんじゃ無くて盗み食いだろうが。」

可愛い後輩の小さないたずらと空腹ぐらい許してくれてもいいだろう。この人の顔を見る限り桃先輩は結構本気で俺のことを探しているに違いない。またどうせ見つかってもあの甘い人のことだから少し戯れたら許してくれるのだろうけど。

「先輩はどうしたの。わざわざそれ言いに来るためだけに来たわけ?ただの偶然?」

少し嫌味ったらしい言い方になってしまっただろうか。いくら態度が変わらないと言ってもこの人の気持ちは理解しているつもりで、やはりつい意識はしてしまう。虚をつかれたのか先輩は整った顔を少し崩していた。少し、ほんの少しだけ面白いと思う。

「好きな奴に会いに来たって言ったらどうするわけ。」

今度は俺が虚をつかれる番だった。さっきの顔は一瞬で真面目な顔になり俺の目を見てきた。どうすると言われても俺にとっては先輩は先輩で、ちょっとプレイヤーとしての興味がある程度だ。けれど先輩からして俺はただの後輩じゃないらしい。どうしたものか、俺の頭の中に先輩に返す言葉は見つからない。

「お前とはこうして昼の短い時間にな、わざわざ会いに来ないと部活でしか会えないわけですよ。」

柔らかな笑みを携えて伸ばされる手。俺の頭に向かって真っ直ぐに伸びる手。前まで俺の頭をグシャグシャにしてきた俺より少し大きな手。前とはもう違う手。

「っ、」

強張る体に気付かれたか、先輩の腕は空を切った。何なんだろうこの罪悪感は。先輩の顔は見たことがないぐらい悲しそうで、そんな顔して欲しいわけじゃないのにその顔にしてしまったのは紛れもなく俺だ。

「せ、んぱい…。」
「そりゃ、怖いよなぁ…。2個も上の、しかも男にな。いくらお前でもビビっちゃうか。」
「ちがっ、」
「全然お前拒否しないから調子乗ってたわ、悪かったな。」

聞く耳持たず、こちらを見ることなく早口にそう告げ足を翻そうとする。先輩の言うとおり確かに少し怖かった。真っ直ぐ向けられる気持ちに慣れなさすぎて、自分の知らない感情を向けられていることが怖かった。でも嫌なわけでは無かった。この人はいつだって優しくて意地悪な時もあるけどでもちゃんと俺のことを考えてくれる。俺のわがままも何だって聞いてくれて俺のことを守ろうとしてくれている。この人の気持ちが理解できずとも受け入れられずとも優しいのは本当で助けられているのも本当。そんな人が嫌なわけがない。

「待って先輩!」

自分で思っていたより大きな声と無意識に伸びた手。俺は先輩の腕を掴んで無理矢理こちらに向かせていた。

「えっ。」
「っ、見るなバカ!」

顔を真っ赤にさせて潤んだ目。いつもダラけて飄々とした顔と真剣な顔しか知らない俺にとって今の先輩の顔は予想外。

「何、その顔。」
「なっんなんだよお前は!!離せ!!」
「ヤダ。」
「あぁ!?」

そんな顔した先輩に凄まれても怖くない。口には出せないけど。でも今のこの人を見ると何か変なものが、腹辺りをフワフワとした実体のない不確かな、しかし暖かくてくすぐったいようなものが浮かぶ。

「離せって…。」

顔を真っ赤にして涙目で苦しそうに焦ったような先輩。

あ、ヤバい。

「離したくない。」
「は……、」
「離したらどっか行っちゃうでしょ。」
「そら、俺でも嫌がる相手に無理矢理構うほど、人でなしじゃねえよ…。」
「嫌じゃないし。俺今のあんた見て何思ってると思う?」
「し、知らねえよ。」
「俺、今あんたのこと可愛いって思っちゃった。」
「はあ!?な、に言ってんだお前、頭ぶつけたか!?そんなこと言う子じゃないでしょ!?」
「あんたも口調おかしくなってるけど。」

さっきと一変変わった顔の赤さ。逃げようと引かれる腕は熱くてでもその腕を離す気はない。いつもの余裕綽々とした様はどこにもなく俺に対して一生懸命なとことか、テニスに一生懸命なとことか、今みたいに逃げようと必死なとことか、それがどうやら俺の琴線に触れてしまったようで。

「好きとか、そういうのは分かんないけど、少なくとも俺、あんたのこと嫌じゃないし。今のあんたは可愛いし。」

先輩はあんぐりと大口を開けて言葉が出ないようだった。それもそうか。先輩にとったら振られる前提だったらしいし。俺だってどうしたらいいかついさっきまで分からなかったのだから。

「あんたがさ俺のこと見てたみたいに俺もあんたのこと見てていい?そしたら俺あんたのこと好きになるかもね。」
「な、は、…え…?」

見下ろしてくる目は困惑で揺らいでいた。あんたのこんな顔見たことあるの俺ぐらいじゃないの、なんて少し優越感。ジッとその顔を見たら先輩は自分の頭を掻きむしって大きな溜息を吐き出す。

「っはぁ〜…お前本当ズルいよな…。」
「何が。」
「ははっ、ズルい。」

少し治った頬の赤みは完全には消えなくて、ほんのり残った赤みを帯びた笑顔は嬉しそうで、ああこの人こんな顔もあるのかって新たな発見。俺もしかしたら結構この人のこと知りたいのかな、なんて。

「ああ、じゃあ見てて俺のこと。全部見せてやるよ。んで、俺のこと好きになって。」



「リョーマ。」



さっきまでの慌てぶりはどこへ行ったのやら、いつもの余裕そうな顔に更には楽しさと嬉しさで上がっているのであろう口角は色っぽくて。耳元に寄せられる口から響く
のは低音で初めて呼ばれる俺の名前。



「…っ、ズルいのはあんたじゃないの。」

去っていく背中に届かないように俺は一人呟いた。