プレリュード

始まりはどこだったか。

あいつが桃と試合してるのを俺は屋上から見ていた。なんとなく部活に出る気分じゃなくて、というかあの日は部活に行ってもろくに練習なんてしなかっただろう。なんて言ったってとんでもない一年生が入ってきたと部内は持ちきりだった。外に出ていたレギュラー陣に着いて行く気もなかった俺は春の暖かな風に髪を流していた。

「あーあ、怒られるぞ〜。」

とあいつに届かないのを理解しながらぼやく。二年にに絡まれる一年生たち。缶倒しといういう一見簡単そうなゲームには裏がある。ほらな。予想通り缶の中には小石が詰められていた。

その時の俺はたぶん、ワクワクしていたんだと思う。何となく過ごしていた今までが変わりそうな気がした。遠くからでもわかる。あいつのテニスを見る目は余りにも熱を帯びていて最早暴力的だ。俺の中に何かが這い上がってくる感覚。今日は部活に出る予定なんて無いのにラケットを握りたくなってしまった。なあ手塚、俺もしかしたらレギュラーもう一回目指すかも。



遠征組が帰ってきて一年生の入部もある程度集まった頃。予想通りというか荒井が越前と揉めた。ゆるゆるのガットと手に合わないグリップ。そんなラケットで越前は荒井と戦っていた。上級生として止めた方が良いだろうが俺を含めこの2人を止めようとする者は1人もいない。俺が止めないのはこういう奴はこういう時に止められるのを嫌がるだろうという勝手な予測。越前は見たところ追い詰められれば追い詰められるほど楽しんでしまうだろう。荒井には悪いが、かくいう俺はそんな越前の姿を見て楽しんでいる。越前の大きな瞳に写るのは黄色いボールとネット、そしてその向こうに居る敵のみ。コートの外のことは一切視界には入っていない。漠然といいな、と思った。何がかは分からないけれど。越前自体に対してかもしれない。いいなと、思ってしまった。

越前と荒井の試合が終わった。結果としては越前の勝利。しかし風紀の乱れとして部員全員がグラウンドを数十周走らされた。相変わらず我がテニス部の部長は頭が硬い、と思いながら流すように走る。3年もこの部に居た上それなりの実力を持つ自信もある俺にとってはこの程度のランニングは準備運動の様なものだ。レギュラー陣とともに並んで走っていると周回遅れの人間の中に荒井の姿を見つける。あんな試合の後じゃ何時も通りのペースで走るのは無理な話だろうが自業自得だ。

「なあ荒井。」
「な、なんすか。」

息を切らしている荒井に後ろから追いつき声をかける。やはり喋りながら走るのは今は厳しいのだろう。声が途切れ途切れだ。

「これ終わったらさ、たぶん今日部活終わるだろうからさ。お前ちょっと残れ。」
「は?」

俺の突然の発言に意味がわからないという顔。そりゃそうだろう。お願いでもなく誘いでもなく完全なる命令だ。

「俺と試合しよっか。」

顔面を蒼白にする荒井。よっぽど嫌らしい。それもそうだ。俺は後輩に好かれている自信がある。程々に厳しく優しく真面目すぎない俺は後輩にとって気が楽だったのだろう。割と好き勝手するもそれなりに許されるし俺の気まぐれに付き合わされることも多々あった。けれど今回の気まぐれはそれは衝撃だろう。疲労しきった所にこの俺と試合をするというのだから。ましてや普段の俺なら絶対にそんなことを言わない。けれど今回もやはり先輩には逆らえないと思っているからか小さく了承の声が聞こえる。

やはり俺の予想通り今日の練習はランニングで終わった。俺は部室で他愛もない話をしながらみんなを見送り人が減るのを待った。暫くして大体の人間が居なくなると、愛刀とも言えるラケットと越前が使わされていた古いラケットを手に持ってコートに向かう。ライトアップされたコートには既に荒井の姿があった。

「よお。悪いな付き合わせて。」
「いえ…。」
「でさあ、どっちがいい?」

そう言いながら二本のラケットを持ち上げる。左手には俺のラケット。右手にはボロボロのラケット。

「どっちって、俺自分のありますよ。」
「あ?んなこた分かってるよ。俺がどっちがいいか聞いてんだよ。」

俺が選べと言えば選ばなければならない。そんな状況でもこの2択はどちらが正解でどちらが不正解か分からないのだろう。俺にも分からない。

「はぁ……じゃあもういいよ、こっち使え。」

そう言って手渡したのは左手に持っていたラケット。

「え、いやこれ先輩のじゃないっすか。」
「ああ、だからそれ使え。俺これでやるから。」
「わざわざそんなガットも緩いやつで…、俺も先輩のラケットとか使えねえっすよ……。」
「…おいさっさとコートに入れよ。」

俺の我慢は限界であった。完全に糸が切れた俺に笑顔を向けてやる余裕はない。今日のいい先輩の営業時間はここまでだ。ここからは俺の私怨だけ。



「おい足止まってんぞ!!ボール追えよ!!」
(っくそ、何でこの人あんなラケットでこんなにうめえんだよ!!越前といい先輩といいどいつもこいつも…!!)
「"俺"のラケットがそんなに気になるかよ!!あぁ!?たかがラケットだろ!!」
「っ…!」

6-2で俺の勝利。当たり前だ。珍しくそこそこ本気でやったのだから。それでもこのラケットの使いにくさは身を持って知れた。こんなラケットでよくあいつもやったな。

「荒井、そんなに俺のラケット傷付けるのが怖かったか。」
「…はい。……すみませんでした。」
「いーよ、分かったなら。別に気に入らないからっていじめるなとは言わないけど。気に入らないものは気に入らないだろうし。でもお前にとってもラケット、大事だろ。」

頷く荒井に滲む反省の色に俺の怒りも穏やかになる。こいつだって悪い奴じゃない。十分にそれは理解している。

「ホラよ。」
「ありかとうございます。」

キンキンに冷えたスポドリは体に染み渡るようであっという間に渡したペットボトルの中身は半分以下になる。俺も熱い体を冷ますように一気にスポドリを流し込む。程よい甘さと塩分が爽快だ。

「あ、荒井。」
「なんすか?」
「最後の方は良かったぞ。前より打球の威力上がってる。ガット切れるかと思ったわ。反応速度も上がったな、迷いがない。ただ攻め急ぐ癖、直せよな。」
「は、はい!」
「よし!んじゃ帰るか!」

ラケットバッグを肩に背負いコートを後にする。そう言えば一つ言い忘れていたことがあった。肩越しに荒井の姿を視界に収める。

「…忘れてたんだけどさ。」
「はい?」
「越前のこといじめるなとは言わない、って言ったけどさ。」
「はあ。」
「やっぱなし。いじめないで。」
「は、」
「あいつの事いじめたら、俺何するか分かんねえわ。」

笑って行ったつもりだったのに荒井の顔は試合をすると言った時より色を失っていた。俺だって何でこんなこと思ったのか自分で分からない。ああでも名前を付けるならこれはたぶん


一目惚れってやつだ。