彼女を見ていた跡部

入学した時からテニス部を、いや、宍戸をずっと見ている奴がいる。あいつはどうにもただのファンという訳でないことは一目瞭然だった。無駄に囃し立てることも騒ぐことも応援することもない。話しかけることも無く接点すら必要としてこないあの女は俺たちテニス部のファンとしては本当に希少な人間だった。

そんな女が何故見ているのが宍戸か、それだけは俺には分からなかった。顔が別段かっこ良いわけでも背が高いわけでもない。実力も氷帝の中で見れば高いがそれが全国に通用するかと聞かれたら答えを悩んでしまう。あいつの努力は認めよう。ただそれは報われない。実を結ばない。

一度俺は宍戸に対して、ダブルスでならお前の努力も報われるかもしれない、そんな感じのことを言った。今思えばそんなことは間違ってたと言える。そして俺にそれを気づかせたのはの1人の人間だった。

俺が宍戸にそのことを告げて宍戸が去った時あいつは現れた。嫌でもこいつの顔を俺は覚えていた。この女が俺たちテニス部に直接関わってくるのはこれが初めてであった。正直何を言ってくるか全く予想がつかない上性格もわからないものだからもし過激なファンなら危害を加えてくるとさえ思った。そいつは唇が切れるんじゃないかというぐらい噛み締め目は真っ直ぐと俺を見ていた。この時初めて宍戸以外を視界に入れているのを見たのだ。真っ直ぐ俺の前まで歩いてくると初動は迷いなく素早く、俺は避けることも出来ずにあの女の平手を頬に受けることとなった。

俺は突然のことに何が起きたか理解できず顔の位置を元に戻すこともなく目を見開くことしかできなかった。痛みをジワジワと感じ始めてようやく我に帰る。俺は叩かれたのだこの女に。生まれて14年と少し。こんな経験は初めてだった。そして何より屈辱であった。この俺が理由もわからず女に叩かれただなんて誰に言える。まず最初に来るのは怒りだった。何と文句を言ってやろうかと女の顔を見ると大きな瞳から丁度大粒の涙が溢れる瞬間だった。俺はまた言葉を失った。

貴方が彼の何を知っているの。あいつはそう言った。俺は間を置く事もなく、お前こそあいつの何を知っている、と聞いていた。離れて見ていただけのお前に何が分かる。少なくとも3年間一緒のチームでやって来たのだ。喧嘩だって何度もした。そんな俺とこの女が同等である訳がない、むしろ俺の方が優位であると俺は思っていた。けれど彼女は引くことが無かった。

何も知らない、何も知らないからこそ私は彼の行く道を邪魔したくない。例えそれが間違っていたとしても彼の真っ直ぐな目を、道を曲げるなら私は許さない。彼を決め付けるのは許さない。彼の努力は彼の為のものよ。

俺はこいつのこの言葉で怒りを忘れてしまった。ただ物珍しい喋る勇気のないファンだと思っていた。それがどうだ。俺はこれ程までに真っ直ぐな気持ちで人を愛する人間を見たことがあっただろうか。これ程までに直向きに自分の気持ちを隠し人を見守ることができる人間が居るだろうか。こいつの気持ちはなんて美しいのだろうか。1人の人間のために危険を冒すことを恐れないこいつは凛々しかった。そして彼女の言葉は俺の考えを覆すには充分な力を持っていた。

宍戸は自分のことを多く語らない。いや、他の奴らは知っていたかもしれない。けれど俺とあいつはそう言った話をする仲ではない。お互いがお互いの首を狙っているかのような関係。そんな俺たちがお互いの本質を理解出来るはずもなかった。ただ数年という年月と俺の目に入るだけの情報で俺は宍戸という人間を勝手に作り上げていた。勿論この女の中にも作り上げられている宍戸は存在するのだろう。しかしそれは理にかなっているのだろう。現に俺に言ったことは冷静に考えれば至極真っ当なことである。愛する人間の否定に対する正しい怒りである。

完敗だと思った。俺は静かに謝ることしかできなかった。こんな事で女に謝ることになるなんて思ってもみなかった。左の頬は未だ微かに痛みを持っていた。この空気をどうしたものかと思案していると突如左の頬にヒヤリとした感覚が訪れた。突然のことに後ずさると女の手には濡れたハンカチがあった。後ろの水道で濡らしたのだろう。しかしついさっきまで怒りで震えていた彼女のその行動に俺はまた困惑するだけだった。次に口を開いたのはこの女だった。ごめんなさい。そう言う彼女の目と俺の目が合うことはなかった。行き場を失いかけた女の手の上のハンカチは心からの善意と謝罪であった。俺はそれを黙って受け取ると女は立ち去っていった。

その日から俺の中の何かが変わり始めていた。何となくコートの外に目を向けることが増えた。いつだってあの女の目は宍戸ただ1人に向けられていた。呆れるほど馬鹿な女だと思う。宍戸だってただの男だ。あの女からどれだけ愛されているか知って何も感じない筈がないのにそれを一寸も望まない。そんな女の姿を見ると何故か俺の口元は緩むのだ。忍足に指摘されるまでその事に気づかなかったが。けれどあの女が泣く時だけはどうしても俺も笑えなくなってしまう。あいつが泣く時は宍戸のことを想っているからだ。馬鹿にできないほど大きな想いだからだ。現に今も宍戸の代わりに女は泣いていた。代わりというのも俺が勝手に思っているだけだが。

膝を抱えて声を殺して静かに木の陰で隠れる様に泣いていた。あいつの存在を視認している俺でなければきっと見つけられなかっただろう。けれど見つけたからといって俺にはどうする事もできない。宍戸が負けたのは自業自得だ。これは全員が分かっている事実。そしてあの女が俺に慰められることを望んでいないのも事実。きっと俺でも宍戸でもない。ただあの女は1人で気持ちを消化するしかないのだ。あいつが選んだのはそういう道だった。

それから数日間。コートの近くに現れるも女の目は何も写すことがなかった。宍戸の姿を探し、見つからなければいつか見た日の様に唇を強く噛んでいた。数日もすれば諦めると思ったがそんな予想は裏切られ、毎日女は宍戸がコートに現れるのを待っていた。最早それは意地のように見えた。様々な想いを留めておく為の手段のようだった。けれど今回も女の勝ちであった。宍戸は再びコートに現れた。女はそれだけで嬉しそうに涙を流していた。試合が終わると感極まったのかまた以前のように膝を抱えていた。けれど今回は特に心配する必要もない事に俺は安堵し騒ぎの中に足を進めた。

結果から言うと宍戸はレギュラーに戻ることとなった。髪は短くなり新たに青い帽子がトレードマークになっている。鳳とのダブルスに転向することについてあの女はどう思っているのだろうか。俺のせいだと思いまた怒っているのだろうか。変わらず毎日宍戸を見に来るあいつの顔は晴れやかで楽しそうであった。こうなっているのが宍戸の意思であると女は自分の中で完結したのだろうか。一番遠いところにいるあの女が誰よりも宍戸という男を理解しているように感じるのは俺の願望がそう思わせているのだろうか。女は決して俺を目に写すことはない。あの時以降俺とあいつが関わり合うことは無かった。俺はあの目に写ることはない。あの目は宍戸しか写さない。俺には到底理解のできないことでもあの女にとってはそれが真理なのだ。

関東大会が終わる頃、開催地枠として全国への切符を得た頃、宍戸は言った。報われるために努力をしてるんじゃないと。あの女は宍戸がこう言うのを知っていたのでは無いだろうか。湧き上がる不思議な気持ちは笑いとなって出る。勝手にしろ。俺はそれだけを告げる。お前が何をしようともお前を見守ってくれている奴が居る。きっとあいつはお前をずっと愛している。俺にお前の考えなんて分からない、そう教えてくれた奴が居ることをお前は知っているだろうか。お前のその考えを放任出来るのはあの女のおかげだと知るべきでは無いのか。いやきっとあいつはそれを望まない。献身的すぎるあの女の愛は遠廻しでも愛する人間を守っていた。

あんな女きっとこの世に2人といない。そんな女が愛するのはいたって普通の人間であった。しかしそんな普通の人間を盲目的に愛しその人間以外を視界に入れることは無い。そんな女に愛されることを羨ましいと思うのは間違いだろうか。視界に入りたいと思うのは間違いだろうか。いつかあの女のことを忘れられる時は来るのだろうか。いやきっとそれはありえない未来。絶対に叶わない願い。

あいつの真っ直ぐ宍戸に向く目を俺はずっと見ていた。