思い返す宍戸

氷帝学園中学テニス部としての最後の活動が終わった。もう引退をしてあとは後輩の指導をしつつ高校に上がる準備をするだけ。俺は触り慣れたラケットのグリップを握りながら夏の終わりを告げる風に当たっていた。喪失感、なんて大それたものでは無いが確実に俺の中に抜け落ちている物はあった。それもそうだ。この3年間は余りにも濃いものだった。

入学すぐ、テニス部は跡部の支配下となった。その結果に納得する者も居れば異論を唱える者も居る。俺は後者であった。奴は何度でも誰とでも試合をした。俺は何度負けようともあいつに挑んでいた。最初のうちは余所者が急になんだ、という子供じみた動機であった。しかしそのうちそんな小さな気持ちはこいつを倒したい、その思いだけになっていた。あの頃は若かった。負けることも怖くなかった。今はそう簡単にあいつに試合に挑めるほど子供ではなくなっていた。きっとその迷いがいけなかった。

跡部や他のやつに負ける時とは違う感覚。膝をつかされた時のあの屈辱感。驕っていたつもりはなかった。いつだって全力だった。足りなかったと言われればそれまでだ。負けに自分以外の理由はない。いつだってそうだ。けれどあの時俺はその今までの全てを否定された気がした。俺の今までの努力全てが否定された気分だった。何度だって立ち上がってきたこの足はもう力を無くしていた。

話は戻るが、入学当初からテニス部、というか知っているのは俺と跡部だけだろう。ただ1人のギャラリーの中に居た人間を僅かに俺たちは意識していた。1人で静かにじっとコートを見つめていた。自惚れでなければその目はいつだって俺を見ていた。自意識過剰と言われるだろうがそう思うに至る事実は幾つも有るのだ。

あいつの存在を知るのは割と早かった。甲高い声を上げないあいつは他の連中とは何処か違っていた。俺は最初、妥当に跡部やら忍足やら他のやつのファンだろうと思っていた。そう例えばふとした時、視線を上げた時とか、やたらと目が合うのだ。いやもしかしたら勘違いかもしれない。合ったと思った瞬間には何事もなかったかのようにその視線は去っていく。けれどそれは入学当初から3年間続いていた。いくら周りに鈍感だと言われてもこれには流石に気付くしかない。しかしあいつが何を思って俺を見ているのかだけは最後まで分からなかった。ただそれが恨んでるとかそういう類ではない事だけは自信を持って言える。

一度跡部に、ダブルスでならお前の努力も報われるかもな、的なことを言われた。俺は言い返す気にもなれなかった。だってそうだろう。こいつに俺を分かってもらおうなんて思ったことはない。けれどそこを履き違えるとは思っていなかった。俺は無言でその場を去るしかなかった。

数分経っても跡部は戻って来なかった。俺が言い返さなかったぐらいで何か思う跡部ではない。何かあったかと思った俺は、ああ言わせてしまった俺としての責任として元の道を戻って行った。戻ると見えるのは跡部と見覚えのある女子。一目であいつと分かった。俺が見間違えるはずがない。いつだって視界の端に写っている。ああけれどこれまでのは全部俺の痛い勘違いだったのか。この女子も結局跡部が目当てだったのか。そう思った矢先乾いた音が響く。俺もだが、跡部も何が起きたのか理解できていないようでこの場の時は停止したかの様だった。

あいつは泣いていた。見たところどうやら原因は跡部にある様だ。もうこれ以上見ている意味もないだろうと思い俺は再び足を翻そうとした時、聞きなれない女子の声がした。

貴方が彼の何を知っているの。お前こそあいつの何を知っている。

どうやら告白現場に遭遇してしまったわけではなさそうだった。寧ろ2人して別の1人の人間の話をしている様だ。

何も知らない、何も知らないからこそ私は彼の行く道を邪魔したくない。例えそれが間違っていたとしても彼の真っ直ぐな目を、道を曲げるなら私は許さない。彼を決め付けるのは許さない。彼の努力は彼の為のものよ。

それが俺と跡部の会話の続きの様であることにはすぐに気づいた。やはりあの目はいつだって俺を見ていたのだ。俺のことを見ていてくれている、応援してくれている、俺のために怒ってくれる、泣いてくれる。それがただ1人のスポーツ選手に対する気持ちでもいい。俺は無性に嬉しくて仕方がなかった。それだけで救われた気がした。他のやつらが何と言おうと俺は前を向ける気がした。名も知らない女子に俺は救われたのだ。おそらく俺はその時から、いや最初からかもしれない。あいつに名前の付けられない何かを抱いていた。

その日から跡部が変わった。具体的にどうとかは分からないが時折フェンスの向こうで何かを探している時がある。跡部を変えたのはあいつなのだろうか。俺は俺であいつの視線を受けながらいつもと変わらず練習に打ち込んでいた。もうあいつの目を見ようとするのは止めた。そもそも喋りかけても来ない奴と目を合わせても意味など無いのだ。そしてあいつは俺に気付いて欲しい訳じゃないんだろう。あいつにとって俺は俺の道を進み続ければいいのだ。

ただ真っ直ぐに進み続けるにも限界があった。折れた膝は地面に着いていた。ああやめてくれ、そんな目で俺を見ないでくれ。助けてくれ。もう立ち上がれそうにないんだ。

俺は縋るようにフェンスに目を向けるもあいつの姿は無い。その事実は思っていたよりも俺を深く抉っていった。それに加えレギュラー落ち。いくら覚悟していても突きつけられた無情なモノは俺を絶望に落とすには充分だった。

テニスをしなくたって死にはしない。俺はこの日、初めて練習に出なかった。けれど学校まで休むことを親が到底許すはずもなく、俺は極力テニス部の奴らを避けて過ごしていた。数時間、たったそれだけの時間テニスから離れていただけで俺の中で物足りなさが出てしまう。それでも今更戻ったところで俺の居場所が出来るわけでもない。あいつもきっと失望したのだ。そう思った矢先前から歩いてくるのはあいつで。俺は何も知らないふりをしつつ様子を伺うと泣きそうな顔をして通り過ぎて行った。

何でお前が泣くんだ。俺でさえ出なかった涙をなぜお前が流すんだ。もしかして昨日もそうやって周りの人間や俺に見つからない様にとひっそりと陰で泣いていたのだろうか。俺のために。いや、それは俺が救われたいがための戯言だ。きっと全て勘違いだ。今の顔も失望から来るものだ。

俺はそう思い込もうとしていた。けれど帰り際早々にその考えは打ち砕かれた。俺がいなくても変わりなく行われる練習風景。いつもと変わらないギャラリー。けれど俺が居るのはフェンスの外だった。3年間テニス部を見てきたあいつなら流石にこの氷帝学園テニス部のルールぐらい知っているだろうから俺が居ない事も分かっているだろう。だからフェンスの前にあいつは存在しない筈なのだ。その筈なのにどうしてあいつはフェンスの前に居るのだろうか。良く俺が使うコートの近く。恐らくそのコートが一番見やすい場所。俺は居ないのになんでお前は居るんだ。なんでお前は泣きそうな顔をしているんだ。

あいつは俺を待って居るのだ。俺が再び立ち上がってコートに立つのを。どんな形でも、俺が前を向いて戦うことを待っている。俺があいつに何かをしてあげたことなんて無い。話したことも無い。それでもそんな俺でもあいつはまだ俺を待っていてくれるのか。俺の応援をしてくれるのか。いや、そんな疑問は今更か。3年間あいつはずっと俺のことを見ていてくれた。それはまぎれも無い事実なのだ。

俺はたくさんの物を貰ったのに何も返せない。そんな俺でいいのだろうか。俺はどうすればいいのだろうか。答えは簡単だ。あいつは俺が立ち上がるのを待っている。あいつは俺が俺の進む道をずっと見ていてくれる。あの時見失った道はまたお前のおかげで見える。もう膝はつかない。二度と余所見はしない。お前を泣かせない。だからもう少しだけ待っていてくれ。そこに立つために。

一悶着はあったものの結果として俺は滝に勝ちレギュラーに復帰した。この事に関しては俺としても言い表せない複雑な感情があまりにも多い。なんて言っても俺はこの氷帝学園テニス部のルールを破っている。これが今後どうなるかだとか、滝や他の奴らに対してだとか。今もフェンスの向こうにいるあいつがどう思ってるかだとか。決意のために切って短くなったこの髪をどう思っているだろうか。盗み見れば嬉しそうにこちらを見ているあいつの顔。聞くまでもないのだろう。

たった3年間、されど3年間。あいつはずっと俺を見ていてくれていた。名前もクラスも何もあいつのことを俺は知らない。けれど俺はあいつのおかげで今こうしてコートに立っている。そこにある思いが誰に理解されなくても良い。あいつの俺に対する思いと俺があいつに思うものが違っていても知ることがなくても良い。

もう俺の中からあいつは消せなくなっている。