The sweetness I don't know

「名前、そろそろ帰ろう。このままじゃ風邪引くよ。」

砂浜に上がった僕らは会話をするでもなくただ立っていた。何を話せばいいのか分からなかった。けれど時間だけは無慈悲に過ぎ、すっかり朝日は昇ってしまった。へばり付いたズボンが気持ち悪くて仕方がない。それでも僕は白蘭の手を離せないでいた。離したら、また会えなくなる気がしたから。

「…名前の家にお邪魔していいかな?行くところ今無いからさ。」

そう言い笑う白蘭にきっと僕の事なんてお見通しだ。でも今の僕に白蘭のその提案を拒否する勇気も理由も無かった。僕らは手を繋いだまま人気の少ない道を歩んだ。



家の前に着いてようやく初めて朝まで家に帰らなかった事、そして親に連絡をし忘れていた事に気付いた。けれどいくら日が昇ったと言えどまだ気温は低く濡れたままの体は酷く冷えていた。白蘭と繋がった指先だけが僅かに暖かいだけで白蘭の体温もきっと下がっている事だろう。時間も時間だからと静かに扉を開ける。僅かな物音だから誰も気付かないだろうと思っていたが予想に反してリビングから音がした。

「名前っ。」

青白い顔をして焦った母さんの顔を見て心配を掛けたことを悟る。そもそも母さんの顔をちゃんと見たのも久しぶりに感じる程で最近の自分の視界が狭くなっていたことにも気付いていなかった。

「…ごめん、えっと……友達、と会ってて…。」
「すみません、こんな時間に。僕が引き留めてしまって。」
「そう…次からは連絡して頂戴ね。…って2人ともずぶ濡れじゃないっ。早くお風呂入りなさい。貴方も入っていって。」

存外優しい目で母さんは白蘭にも風呂を勧め、そのまま湯を沸かしに行った。そんな母さんに少し呆気に取られながらも僕は一度白蘭を連れて自室に向かう。僕の部屋に白蘭が居ることに凄く違和感があって、どこか浮世離れした白蘭にこの普通の部屋は似合わない。

「優しいお母さんだね。」
「普通だよ。」
「会ったこと無かったから。」
「え?」
「名前のお母さん。未来で一度も会わなかったんだ。理由も無かったしね。」
「何で…?」
「未来の事だから鵜呑みにしないで欲しいんだけど、名前だけを一番にしなかったから。」

白蘭でも着れるような服を手当たり次第探っていた思わず手が止まってしまう。僕は白蘭の事を何も知らない。だから今白蘭が何を考えて求めているのかなんて分からない。ここに居るのも気まぐれで本当にやりたい事はもっと別なのかも知れない。そもそも僕だって白蘭への気持ちの整理が付いていないし、白蘭への感情全てが思い込みだと今でも考える。白蘭が僕の事をどう思っているかなんて全く知らない。例えその目に映ってるのが僕じゃない"僕"であっても不思議ではないのだ。

「世界征服?」
「ハハッ、そう、その通り。そればっかだった。」
「今も?」
「どうだろうね。名前は僕の事何も知らないだろうし、僕も今の名前の事知らないから、断定するのはなぁ。」
「まあ、殆ど今の僕等じゃ他人だね。」
「でも、君を産んでくれた人に会えて良かったとは思えるんだよ。」

そう言う白蘭の顔は柔く笑って僕を見ていた。その目に映っていたのは他の誰でもない僕だ。

「それ、僕にも着れそう?」
「う、ん……。」
「アリガト。落ち着いたら午後からでも学校行く?綱吉クン達が心配してるだろうし。」
「え、」
「僕も色々やらないとだからね。学校まで送るし終わる頃にまた迎えに行くよ。」

忙しなく沈んだり浮いたりする自分の感情に着いていくのが必死な僕を置き去りに白蘭は勝手に話を進め出す。確かに今日は平日で普通に学校には行かなければならないが、夜通し起きている上に予想外の出来事の連続で僅かに疲労はしているし、白蘭がまたいつ居なくなるかという不安でサボるつもりでいた。それなのに心配の種は学校に行く事を勧めてくる挙句、こちらの心配を把握した上に解決策まで出して来る。そうまでされてサボる事はあまりにも子供っぽい上に出された条件でも充分に甘やかされている。僕が勝手に不安がっているだけで白蘭がそれに付き合う理由は今の所ない。だからこれは純粋に白蘭が僕の事を思ってくれたことによるものだ。沢田とも繋がりのある白蘭の事だから僕と彼等の関係にも気付いてるはずだ。沢田達も僕と白蘭が会った事を知ってるのだろう。ここまでしてくれるのは、他の誰でもない僕だからなのだろうか。思い当たる理由は一つも無いけれど、きっと白蘭もそんな事分かった上で甘やかしてくれている。小さく頷く事しか出来ない僕に白蘭はまた満足そうに笑ってみせる。

「知りたいんだ。名前の事。名前にも僕の事を知ってほしい。きっと今度こそ一番になるはずだから。」

また全部見透かしたような事を言う白蘭の言葉は多分間違っていなくて。何も始まってさえいない筈なのに嬉しくて泣きそうで、ようやく安心して、情けない顔を見られたく無くて僕は風呂に逃げ込んだ。けれどこれも白蘭にはお見通しで僕が居なくなった部屋で僕を笑っているんだろう。