やさしい獣は恋をする その1


 その日、百々子はとても緊張していた。いつもであればこれは兄・億泰の仕事であるからだ。特に意味もない咳払いをして、前髪と服装のチェックを何度も入念に済ませ、深呼吸をする。意を決した百々子はいつも兄が押しているこの家の呼び出しベルに指を添えた。少し力を込めて押すとカチッという音の後に呼び出し音が響く。その後中から二言三言の会話が聞こえた後足音が近付いてきた。このドアから出てくる人物は二人に限られているが、そのどちらが出たとしても緊張してしまうらしい。百々子は再び深呼吸をする。

「はーい、億泰くんね。ごめんけど仗助さっき起きたばっかでいつもより時間かかりそうだから……、あら今日は百々子ちゃんだけ?」
「お、おひゃよう、ございましゅ…っにじゅ…んら、ですッ」

 扉を開けたのは東方朋子であった。どちらにしても彼女の話を全く聞き入れる余裕のなかった百々子は、盛大に噛み散らしながらもなんとか朋子に挨拶をする。しかし朋子の方はしこたま笑っているので、家の奥から仗助が怪訝そうに出てきたのだ。

「おふくろ、何爆笑してん…」
「あ、仗…すけ…くん?」

 仗助と百々子が固まってしまったのは何故だろうか。それは仗助のこの後の言動でよく分かる。

「おふくろ!百々子来てんなら先に言えよ!」

 と真っ赤になりながら廊下を戻って行ってしまったのだ。そして先程朋子が言った通り寝坊したらしい仗助の頭は、いつものようにビシッとセットされておらずだらしなく降ろされていただけだった。仗助にとってはそれがなによりも恥ずかしかったらしい。
 百々子の方も普段と違う仗助の姿を見て思わずドキッとしてしまうような緊張してしまうような感覚だったのだ。正直先程の朋子の前で晒した緊張など比べ物にならないほど、心臓がドクドクと煩かったとかなんとか。

 百々子から億泰は風邪を引いたらしく今日は休みであることを聞いた朋子は仗助に「ちょっと百々子ちゃん待たせないの」といつもより急かす。仗助もできる限り高速で準備をしているのが百々子にも伝わったので「ゆっくりで大丈夫だよ、仗助くん」と言うも仗助は聞く耳持たずに準備に没頭していた。

「そうだ仗助。私昨日銀行行きそびれて昼ごはん代無いから、立て替えててくれる?」
「あいよー」
「仗助くん!それだったら今日お弁当食べない?」
「弁当?」
「もしかして百々子ちゃんの手作り?」
「はい…」

 いつも作っているわけではないが、昨晩の夕飯が思いの外残ってしまったので自分の分と億泰の分と作っていたが、登校ギリギリになって億泰がぶっ倒れたため弁当が一つ余ってしまったらしい。

「億兄には別でお粥を作ってきたんだけど、捨てるの勿体ないし、学校に持って行ったら誰か食べてくれないかな、と思って」
「へえ〜良いじゃない仗助ぇ〜!せっかくだからもらっちゃいなさいよォ〜!」

 これ見よがしにニタニタと笑いながら仗助を突つく朋子に正直仗助は言い返してやりたい気持ちもあったが、今はそれよりも嬉しいが勝っている。

「じゃあせっかくだし」
「なぁにカッコつけてんのよ、素直に嬉しい!やったー!って言いなさいよ」
「ちょっと黙ってくれ」

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