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 様々なことがあった長野での一泊は、なまえの気持ちを以前よりも前向きにさせるには十分すぎるものとなった。一緒に同行したメンバーの中で唯一の成人済みだった彼女は、今回の運転手、兼、立派な保護者役としてちゃんと責任を持って、園子、世良、そして蘭とコナンの順に無事に送り届けると、レンタカーも返却してようやく工藤邸へ帰路につく。たった一日半ほど留守にしていただけではあるが、昨晩、高明と話をしてからはなぜか無性に我が家に帰るのが恋しくなっていた。

 その理由はきっと、もう過去のしがらみに惑わされないと決めたから。

 ずっと会いたかった景光の兄である高明と、この度、じっくり腰を据えて話をしてみことによって、なまえはもう過去の友人たちのことを考えて自分の気持ちをひどく締めつけるのはやめようと決意していた。安室透が降谷零かもしれないということや、その彼が黒ずくめの組織の一員であるということも、極論を言えばもうどうだっていい。ただ、それは決して景光と降谷のことを忘れてしまうという意味ではなく、この胸の中にしっかりと留めておきながらも、キラキラとした眩しくて甘酸っぱい記憶のままで永遠に保存しておくということだ。

 まるでレモンスカッシュのような、大事な大事な思い出として。

 そんなことを思いながら、普段帰宅するのと同じように玄関の扉を開くと、もう何ヶ月も前から当たり前になってしまったかのように暖かな夕食の匂いが家中いっぱいに立ち込めていて、なまえはつい笑顔を溢し、そしてやはり意識した途端、急にお腹が空いてしまった。さては今日は昴くんお得意のシチューだな? とわずかばかり期待を込めた推理をしながら、昨晩の嵐で泥のついたパンプスを脱ぎ捨てる。すると、まるでこちらの様子を伺うように顔を見せてきたのは、予想外にも沖矢ではなく赤井であった。

 その顔を見ると、なまえはとっさに胸の真ん中のあたりがじわじわと暖かくなるのがわかった。そしてその瞬間、彼女はこれ以上ないくらい思い知る。

 ああ、そうか。本当は家が恋しかったんじゃなくて、彼のことが恋しかったのだ、と。


「ただいま、秀一!」


 赤井が「おかえり」を言ってしまう前に、なまえはいつも見せないとびきりの笑顔とともに、まるで子どもみたく彼の胸に飛び込んだ。背後では旅の荷物が雪崩を起こすようにどさどさと崩れ落ちる音も聞こえたが、今の彼女にとってはそれに構っている暇などない。

 だって、本当に彼のことが好きなのだとわかったから。だから、長野に行っても何度も思い出した。大人びた高明の雰囲気と赤井を重ねて見てしまうほど、呆れるくらいに。

 あなたのことなんて絶対に好きにならないと、かつてそうとまで宣言した相手だったはずなのに、今から思うとなまえは弟の助言通りに行動することによって、完全にその手に「赤井」という名の幸せを掴んでしまったようだった。やっぱり、新一が言ってくれたことは本当だったんだなと改めて彼の推理力に感服し、恋人の腕の中でその当時のことを思い返してしまう。あのとき「赤井さんの手を取れ」と新一から言ってもらえなかったら、きっと今の自分はこんな幸せを知らない。

 一方の赤井は、珍しく甘えてきた恋人のことをしっかりとそのたくましい腕で抱き止めてやりながら、そのあまりにも不意打ちで愛らしすぎる彼女の行動にさすがに驚かされてしまう。あんなに頑なになびいてくれなかった女が、今となってはこうして自ら抱きしめられにやってくる日が訪れるだなんて。男として、これ以上の名誉なことが他にあるだろうか。そう思うと堪らず、彼はすぐになまえの細い髪に顔を埋めるようにぎゅっときつく抱きしめ、自然とその口元を緩ませる。体温、香り、体格、挙動。そのすべてが何よりも愛おしい。赤井秀一という人物をここまで魅了してしまう女は、もう彼の手中以外にはいやしないのだ。


「おかえり、なまえ。えらく機嫌がいいみたいだが、旅先で何かいいことでもあったのか?」
「うん。でも、それもあるけど、いいことなら今もあったよ」
「?」
「やっと秀一に会えた」


 満面の笑みでそんなことを簡単に言ってのけてしまうなまえに、赤井のハートは完全にスナイプされてしまう。そして、そんな恐ろしい女を放っておくことは当然できず、彼は得意げに軽々と彼女を横抱きすると、その頬に熱いキスを落とした。

「That's my line, princess?」

 それはこっちのセリフさ、お姫様?



case99. Lesca.


 弟に呼び出されるときは決まって事情聴取を受けるような気持ちになる。なまえはそんなことを思いながら、やや不安げな表情で彼に指定されたコーヒーショップにいた。ここは以前、蘭に沖矢との初めてのデート場所について相談を持ちかけた場所でもあるが、そのときも偶然通りかかったというコナンが一緒にいて、結局、その場所に関する助言をしてくれたのは彼であったことを思い出す。人生初に近いロマンスに対して問答無用で面倒くさいと投げやりになっていた姉に、だったらと彼が提案してくれたのは「いつもより高価な食材を買いに行き、沖矢と一緒に料理をしてみてはどうか」という良案であった。

 弟の助言はいつもながら本当にすごい。それは、本人を目の前にしては絶対に調子に乗りそうなので言わないようにしているが、本当は敬愛するシャーロック・ホームズに匹敵するほどだとその力量を彼女も完全に認めているのである。ただし、あまりにも見通しすぎていて、時折、逆にこちらの運命でさえもすべてお見通しなのではないかと疑うほどなのだ。

 なまえは思い出す。あの日のこと。

 あの日。新一がここにいたからこそ、後に爆破騒ぎのあった米花百貨店に沖矢と一緒に行くことになった。そして、同日に再会してしまったのだ。黒ずくめの組織の一員で、赤井に関する情報を集めていた、火傷の男。安室透と。

 なまえはそこまで考えて、ふっと笑って打ち消した。いけない、もう彼のことは考えないんだった。そう思って、大きく首を横に振るとアイスコーヒーの波面も一緒に光を反射してちらちら揺れる。

 今回、弟から言われるであろう話の内容は実はもうわかっていた。先日の、長野からの帰り道。コナンが何度か聞きかけてはそのタイミングをわざと逸らして潰していた、あの話題についてである。

 すると突然、隣にあったデザイン性の高い椅子が床を引きずってひとりでに動き出し、びくりと視線を向ければそこに人の姿はない。いや、そのまま視線をつつと下げると、そこには椅子に器用によじ登って座る眼鏡の小学生、江戸川コナンがいたのであった。


「こ、こんにちは……コナンくん」


 周りに知り合いはいなかったが、なまえは一応、人の目を気にして今の彼の名をきちんと口にした。しかし、その気遣いを台無しにしてしまうように、コナンは挨拶もそこそこに大人びた口調でこう問いかける。


「で? オメー、諸伏警部と何の話したんだよ?」
「うわあ、単刀直入……」


 なまえはやや引き気味にそう言うと、白い目で彼のことを見た。いつもそんなんだから、蘭ちゃんや哀ちゃんにドン引きされるんだぞ、と。


「別に、新ちゃんが心配しているようなことは何も」
「へえ? じゃあ、内容だって言えるよな?」


 まるで煽るようにそう言ってくる弟の態度はすこぶる気に入らないが、なまえの方が大人なので、ここはぐっと堪えておいた。そして、長野で会ったばかりの高明の顔と、当然その顔によく似ている景光のことを思い出し、はあと大きくため息混じりに言う。


「……彼は、私の友達のお兄さんなの」


 すると、一瞬にしてコナンの目の色が変わった。なまえの友達と言われて真っ先に思い浮かぶのは、彼女の高校時代の友人であったというAくんとBくん以外には考えられないからだ。


「友達って、まさかオメーのこと音信不通にしてるっていうあの……っ!」


 彼のその発言には、笑えるくらい目に見えて嫌悪感が滲んでいた。新一として当の姉の友人たちに会ったことはないし、写真も見たことがないから、彼らの顔も形も、その名でさえ何ひとつ知らない。だが、大事ななまえのことを理由もなくいきなり無視するかのように一方的に連絡を断ち、ないがしろにしているひどい人物なのだということは、新一のみならず、両親までも思い込んでいたことである。

 もちろん、本当は何か理由があってのことなのだろう。しかし、それを何も言わずに卑怯にもずっと黙っているというのもどこかおかしくて懐疑的だし、姉がひどく傷ついている姿をずっと傍で見ていた新一なら、その友人たちのことを悪く言うのもなんら不思議ではない。

 しかし、当の本人であるなまえの顔はというと、以前とは見違えるほどなんとも晴れ晴れとしていて。そして、何もかもふっきれたような顔をして太陽みたく笑う。


「うん。でもね、もうやめるんだ。考えるの」
「え……?」
「去る者は日に以って疎し。来たる者は日に以って親し……って。諸伏警部がそう言ってくれたから。だから、私はもう過去を見ない。忘れないけど、極力思い出さない。それでいいかなって思ってる」


 ね、それでいいんだよね? そんななまえの言葉は、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。中国の古い漢詩からの出典であるその言葉は、引用したのがあの高明だというところにも説得力がある。「いくら親しい者でも離れれば忘れ去られていく。そして、身近にいる人がより愛しくなるものだ」と。まさに人生の無常について詠った現代にも通ずる深い名句は、彼女の人間関係にも無論ぴたりと当てはまる。

 コナンは姉のその言葉と表情を見て、最初は純粋に驚いていた。しかし、次第に口角を上げて、とびきり嬉しそうに微笑むのである。


「いいんじゃねえか? それで!」
「……」
「ねちねち悩んでるよりかは、よっぽど今の方がいいぞってことだよ!」
「ねちねちって……」


 なまえは再び大きくため息をつき、そしてその後、彼と同じく口角を上げて嬉しそうに笑った。彼らの間に血の繋がりは確かにないが、こういうときの仕草や表情はなんとなく似ている。傍目にもそう思わせるほどに。


「ところで、新ちゃん? 話は変わるけど、父さんが脚本を手がけた『緋色の捜査官』がマカデミー賞の最有力候補にノミネートされてるらしいけど……どうする? もし賞を取ったら、私もたまには家族水入らずで盛大にお祝いでもしたいなあって思ってるんだけど?」
「ああ、そうだな。でも、俺はさすがにこの体じゃパスポートも取れなくてアメリカには行けねえし、ロンドンのときみてーに灰原に頼むか……あるいは、父さんたちにこっちまで来てもらう必要があっけど」
「だよね? あーあ。もしキッドみたいに魔術が使えたら、小さくなった新ちゃんでも海外まで一気に運べちゃうだろうになあ」
「んだよ、それ? っつーか、あいつのは魔法でも何でもねえぞ?」
「うん、ちょっと思っただけ」


 そう言うと、なまえはコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。話が済んだのなら、もう長居は不要だろう。日も既に傾き始めていて、一応、コナンは小学生でもあることだし蘭も心配するだろうから早めに帰宅を促したい。

 それに、なまえの方にも早く帰りたい理由があったのだ。それは今日の昼頃、赤井からきた絶対に見逃せない連絡。「阿笠博士から取り寄せの高級レモンケーキをもらった」というなまえを垂涎にさせるメールである。だから早く帰って、彼と一緒に食べたいな。レモンケーキ。


「じゃあ、私、帰るね」
「おう。あ、なまえ。今日、バイクじゃねえんだな」
「うん。少し調子悪いみたいで。修理に出してるから」
「そっか。じゃあ、気ぃつけろよ!」
「新ちゃんもね! たまには博士の家じゃなくて、うちにも遊びに来てよ?」


 実家なんだからさ。なまえが寂しそうにそんなことを言うと、コナンは引きつった苦笑いでこう思う。確かに俺の家だけど、オメーらが付き合っちまったから遠慮してやってんだよ、こっちは。と、しかし、彼はこう見えて大人なので、口にせずまま手を振って彼女の背中を見送った。なんとも、似た者同士である。

 なまえは寄り道はしないが、ここしばらく歩いていなかった米花町内を悠然と闊歩しながら帰ることにした。バイクじゃない分、なんだか景色も新鮮で。こんなところに新しくカフェができたんだとか、ここの美容院はなかなかいい感じとか、年相応にそんなことを思いながらまるでウインドウショッピングでもしているみたいに賑やかな街を歩く。米花町は割と店がたくさんあって、長年住んでいる街だが全然飽きない。

 今度、世良とまたショッピングでも来ようかな。蘭たちも、誘って。

 なまえが呑気にそんなことを考えていた、その矢先のことであった。ふと、なんとなく視線を投げた先の建物と建物の隙間。人ひとり分ほどの絶対に誰も気に留めないような暗い路地にいたのは、挨拶をするようにひと鳴きする、よく見知った三毛猫。


「大尉!?」


 なまえは思わず、その猫に駆け寄る。大尉とは、かつて喫茶ポアロで餌をもらっていた米花町を根城とする野良猫で、紆余曲折を経て今は梓の元で飼われることになった希少価値の高いオスの三毛猫である。先日、緑も含めた三人でカラオケに行った際、可愛いでしょ? と写真を見せてもらったことがあるから、たぶん間違いない。

 まさか彼女の家から抜け出してきてしまったのだろうか。そんな風に思い、なまえはコナンから聞いていた大尉の破格の価値について思い出して、その丸い目をじっと見つめたまま考え込む。

 このまま、また野良猫になったら。それこそ、もう大尉の価値を知った人間が彼を掻っ攫ってしまう可能性だってある。そう思うといても立ってもいられず、気づけばなまえはその隙間に飛び込むように入り、人懐こい大尉を呼び寄せて捕まえようとした。

 しかし、大尉は後もうちょっとのところでひらりと身をかわすと、彼女の手元から逃げ出したのである。そして、率先して路地の奥深くへと走って行ってしまう。まるで「こっちに来い」と暗部へと誘い込むように。


「あっ、待って! 大尉!」


 考えるよりも先に体が動いていた。服に煤がつくのも厭わず、必死に猫の背中を追いかけ続ける。「大尉! 大尉!」と何度も呼びかけながら、片方の手では梓に連絡を取るために携帯電話を操作して。けれど、操作しているうちに見失ってしまったらと思うと、結局、電話もかけられず、路地に転がったゴミを蹴飛ばしながら懸命に走った。

 走って、走って、走って。それこそ、息が切れるまで走った先に、ようやく夕焼けの光が見えて。開けた道に出るということがわかった瞬間、息を飲む。こんなところまで猫を追いかけてやってきたなんて、まるで不思議の国のアリスみたいだ。薄汚れた服のまま飛び出した先が、異次元ではないことを祈るばかり。

 しかし、その後。異次元の方がまだマシだとさえ思えた。大尉が走っていく斜陽差す坂の途中で、出会ってしまったのは。


「う、そ……」


 体を屈めて大事そうに猫を抱きしめ、立ち上がるのは。夕日を受けて橙色に染まったように見える色素の薄い髪色をした、日本人離れした見た目の彼。

 睨みつけるように鋭い眼光の蒼い瞳が、こちらをじっと見つめていた。なまえは息を止める。

 安室透。もう思い出さないと決めた矢先に出会ってしまったのは、この世で最も会いたくない人だった。

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