100...


 逃げなくちゃ、と反射的にはそう思った。ここにいてはならない。いるべきではない、と。気がおかしくなりそうなくらいに頭の中からは激しい警鐘音が聞こえていて、なまえはその恐れから微動ほどの後ずさりをする。しかし、それ以上はなぜかそこから一歩たりとも動けやしなかった。だって、このタイミングで彼に会うことこそが呪われた自分の運命なのだと悟ってしまったから。

 もう何も包み隠すこともなく、なまえに初めて圧倒的な「黒」を感じさせるような恐ろしい冷徹さを放った彼の目は、まるで心の底から忌み嫌うものを眺めるみたいにこちらのことをじっと睨めつけていた。嫌悪。その言葉が最も似合うほど冷え切った絶対零度の蒼い瞳は、少なくとも彼女の知る友人の降谷零のものではない。

 しかし、なまえはそのことに安堵してもいいのか、それともすべきではないのか、わからないのだ。何も。

 そもそも彼に関して言えば、その存在自体が最初から永久にわからないことだらけだった。正体も、目的も。かつては通じ合っていたと感じていた恋愛感情の真偽も、正解も。今、自分がどんな顔をしているのかも含めて、監察医としての評判も名高い才女であるなまえの頭脳を以ってしても、まったくと言っていいほどわからないのである。安室透という人物のルーツを辿ろうとすればするほど、まるで暗い闇の中をずっと心細くひとりで疑いながら彷徨い続けているような気分になって。それがもう嫌だから、せっかく赤井の手だけを取って、徐々に彼のことを思い出さないようにしようと決意した矢先。まさかこんなタイミングで引き戻されてしまう。絶対に逃してやるもんか、と意地悪くもいたずらに。

 なぜか、ふと。真っ赤な夕日を背負うようにこちらを見据える彼の姿に、十二年前の斜陽差す通学路での風景がなまえの頭を過っていった。いつもの三人で、レモンスカッシュを片手に歩いていた高校二年の修了式の帰り道。ひとしきり寄り道を繰り返した後、真っ赤な色をした燃え落ちるような空の下で、初めてなまえの口から「光」を語ったあの日のこと。

 と、突然、現実に帰るように、安室の腕に抱かれた大尉がにゃあと呑気にひと鳴きした。その瞬間、面白いほど呪縛が解けて、なまえは冷静に彼に背を向けることが可能になる。このまま、何事もなかったかのように逃げ切ろう。大丈夫。あんなに嫌悪を滲ませる彼が自分なんかを追ってくるわけがない。そう思って一歩踏み出すのと、そのわずかな期待を裏切るような声が彼女の華奢な背中にかかったのは、ほぼ同時であった。

 なまえは伸びた自分の影を踏み締めて、止める必要もないはずなのに、彼の言葉に耳を傾けるために意図せずぴたりとその足を止めてしまっていた。待って、と短く言われた声は冷たいのにどこか穏やかで、嘘だらけの彼にふさわしい声色をしている。


「せっかく久しぶりの再会なのに、どうしてそんな怖い顔をして僕から逃げるんですか? ベルツリー急行以来、避けていますよね? 僕のこと」


 そんな問いを投げかけてくる理不尽な彼の顔は、未だ背を向け続けているせいで見れなかった。いや、本音を言えば見たくもなかったのだ。まるで心の底から、避けられている理由がわからなくて心外だと責めるような被害者ぶった口調を装ってはいるが、本当は彼の胸にうちにこそ、その答えがあるに決まっている。ベルツリー急行で彼がしたことは、誰がどう考えたって立派な犯罪だ。


「あなたが……」
「……」
「あなたが、本当は悪い人だってわかったから」


 震えた声ではあったが、なまえははっきりとそう告げると、一度返したはずの踵を再び返し直して、彼と真っ向勝負をするためにまっすぐ見据えるように向き直った。その目は負けず嫌いな彼女らしく、安室の冷たい目にも匹敵するほど強く睨みつける眼光を放っていて、それこそ過去の工藤なまえではないということを十二分にも彼に思い知らせる要因になると思う。まあ、それは彼が本当に降谷零であれば、の話ではあるが。

 しかし、安室は彼女のその猛攻をかわすように、しらじらしくも肩をすくめた。そして堂々と、こちらの神経をわざと逆撫でするかのように反復するのである。先日の花見のとき、一般人の身分と顔を奪ってのうのうとなまえたちに近づいてきた彼に、直接、告げていたはずの「悪い人」という言葉を。


「悪い人だなんて。でも、おかしいな。あの日、僕はあなたを客室まで送っていった後『何が起こっても絶対に部屋から出ないように』と告げて別れたはずなのに。その言いつけを守っていたのなら、あなたはそれからずっと自室にいたはずですよね?」
「……」
「まさか、おてんばにも殺人犯がうろついているかもしれない室外に出ていたとでも言うんですか? そして、証拠もないのにそこで何かしら僕の悪行を見た、と?」
「……」
「誰と?」


 そう問いかける彼の発音は、やけに強く、なまえの鼓膜に訴えかけるようにクリアに聞こえた。やはり、彼はベルツリー急行の八号車と貨物車の車両連結部で、裏切り者のシェリーを追い詰めている際に、煙の中から爆弾を投げ込む火傷の「ない」赤井本人を見たのだ。そしてもちろん、その隣で不安そうな表情を浮かべるなまえのことも、同じようにその目に映していたのである。それを確信した上で、今度は確証得るために、組織随一の探り屋バーボンとして他人のふりをして花見会場に潜入した。

 そして今、真っ向から安室透という不確かな顔を用いて警戒心しかないなまえの口からも果敢にも情報を引き出そうとしているらしい。聞き出したいことはただひとつ。うなされるほどこの世で最も見たくない取り合わせである、なまえと赤井との関係性について。

 ベルツリー急行の話題が出てからは、未だ鋭く見据えているだけで、なまえは彼に一切の返事をしていなかった。たとえそれが肯定の意として思われたところで、だんまりを決め込んでいる限りは、安室にはまだ赤井が生存しているという肝心の確証が掴めないはず。それに、もしもこの場で、逆上した彼に無慈悲にも殺されてしまったとしても、こちら側には赤井と新一がついている。きっと彼らなら自分の仇を取るために、死ぬ気で安室の正体ごと暴き、必ず組織の壊滅に尽力してくれることだろう。だから、なまえは自分の命に代えてでも、今も家で自分の帰りを待ち続けている赤井のことを絶対に口外するわけにはいかない。

 一方の安室は、彼女のその考えをまるで見透かしたようにふっと冷たく笑った。そして、そっちがだんまりなら話を変えようと提案する。自信ありげに続ける次の話題は、わずかに彼女の動揺を誘い、怯ませるには十分すぎるものであった。


「なまえさん。そういえばあなたは、ルームシェアをされていたあの大学院生の方とお付き合いを始められたそうですね。おめでとうございます」
「……それが何?」
「いえ、ただ悔しいなと思って」
「……」
「これでも僕たちは何度か逢瀬を重ねて、それがあなたに嫌悪を抱かれない程度には好印象を与えていたと僕はわずかばかり期待していたんですよ。月明かりの海辺でそれはそれはおとぎ話のようなロマンチックなキスも交わしましたし、気持ちは口にせずとも、互いの感情面は通じ合っていると信じていたんですが」
「……」
「どうやらそう思っていたのは、僕だけだったようだ」


 安室はそう言うと、抱えていた大尉を一度、手元から離し、颯爽とこちらに近づいてなまえとの距離を詰めた。突然のその行動に、さすがの彼女もわずかばかりの動揺を浮かべたが、すぐにまた意識的に頑なな目に戻して安室を睨みつける。彼にはそれが不愉快だった。

 本当なら、その目は安室にとっては残酷すぎる意味を放っていた。いや、安室にとってではなく、降谷にとって、と言うべきだろうか。歪んでしまうくらい強く積年に渡って恋心を抱き続けている相手に、いつの間にかこんなにも嫌われてしまっていること。それは六年前、幼馴染の景光とともに彼女との連絡を一切断つと決めたときから覚悟していたことのはずなのに、今でもちりちりとこの胸が焦げつくほど痛む。

 だったらいっそ、全部壊してしまえばいいんだ。壊して、壊して。取り戻す。彼女を傷つけてでも。自分が傷ついてでも。

 なまえは壁に押しやられ、背後に後ずさっているうちについに身動きが取れなくなっていた。真っ赤に染まった空に、赤く蕩けるような太陽が沈んでいく。その太陽とは対照的なほど安室は依然として冷たい目をしたままで、自分の複雑な胸のうちを隠しながら、今はただの組織の一員、バーボンとして彼女から情報をひとつでも多く聞き出そうと躍起になっていた。

 安室はなまえの顎に手をやって、そのまま上にぐいと持ち上げる。彼はその甘美とも言える光景を楽しむみたいに、甘くて溶けるキスを迫るように告げる。


「このままもう一度、あなたに無理やりにでもキスをすれば、悪い夢から早々に目を覚ましてくれますかね?」


 もちろん、安室のその言動は揺さぶりをかけるためだけの行為で、唇を重ねるつもりなどなかった。だが、なまえは怒りを孕んだ勝気な目のまま噛みつくように言うのである。


「……あなたが」
「?」
「あなたが何も言ってくれなかったから、私たちはこんな関係になってしまったんじゃないですか?」


 その発言は非常に断定的で強い語気であった。その様子を安室は再び面白いと思い、口角を上げて、今まで面と向かって言えた試しのない言葉を悠然と言い放つ。


「好きだ」
「!」
「好きだ、とそう伝えていたら、あなたは僕と一緒に落ちてくれたんですか?」


 地獄の底まで。耳元で囁かれた言葉は、まさに今、彼のいる場所こそが地獄の底なのだと思わせるほど冷え切っていた。安室はなまえに対して「そんな幸せな世界なんてありはしないだろう」とまるで鼻で笑い飛ばしてしまうかのように言ってのけるのである。安室透の口から好きだと言ったところで、降谷零の想いは遂げられない。その気持ちが、なまえにわかるわけがない、と。

 しかし、なまえには安室がその発言をしたとき、口では皮肉を言うようであったものの、なぜかとても彼が悲しい顔をしているのではないかと思えた。その表情を考えただけで、なまえは意味もわからず無性に胸が苦しくなる。彼のことなんてどうでもいいとあんなにも思っていたくせに。

 まるで地獄の底へ蜘蛛の糸を垂らすみたいに、この人を孤独から救ってあげられるものならば助け出してあげたいと思ってしまったのだ。そして、それができるのはなぜか自分しかいないのだとなまえはなぜか自意識過剰にもそんなことを思った。


「……落ちましたよ」
「え?」
「安室さんが『好きだ』とちゃんと私に言ってくれていたとしたら、地獄でも何でも一緒に落ちる覚悟があったのに。あなたにその覚悟がなかっただけの話じゃないんですか?」


 向き合っているうちについ感極まって涙声になっていたなまえに対し、安室は初めて激しい動揺の色を見せた。そして、みっともなく取り乱した顔を見られないようにさっと視線を逸らして、迫っていた態度を急に軟化させる。そして困惑したように額に手をやると、苛立ちからだろうか、自身の前髪をぐしゃぐしゃに握りつぶした。

 安室は当然、そんな返答を予期していなかったのだ。この世に存在しない「安室透」という人物。その亡霊のような姿のままでなまえのことを手に入れてはいけないという思い込みとエゴに、今までずっと苦しめられていた。自分が動けないのを他人のせいにしながら。

 限界を勝手に決めていたのは、自分だったのに。


「俺は……、……お前を」


 初めて彼の使う人称が変わったことに、なまえは少し驚いていた。きっと自分を見失ってしまうほど、相当に混乱しているのであろうということは見て取れる。その証拠に、隠しきれていないその瞳が夕焼けみたいにぐらぐらと揺れている。

 しかし、さすがは彼だ。すぐに正気を取り戻したように、再び余裕なくなまえを壁に押しやると、そのやわらかい体を強引に抱きしめる。そこにどんな意図があるのか、すぐにはなまえにもわからない。


「あ、むろ……さん?」


 そんな困惑気味のなまえの呼びかけに、彼が当然、応じることはなかった。なぜなら今の彼は「安室透」ではないから。

 次の瞬間、降谷は少し離れたかと思いきや、彼女の左首筋に激しく噛みつくと、抑え切れない激情を発散させるようにそこにきつく吸いついた。途端、焦げるような痛みが走り、押し返すために伸ばされた手も握られて強引に指を絡ませられる。

 薄い皮膚からは血さえも滲んでいるのではないかと思うほど執拗に痛みを与え続けるキスは、唇がつけられた瞬間から鬱血させることを目的としている行為だということは目に見えていた。それは確かに今まで赤井から数回受けたことのある行為と同じはずなのに、そのどれとも性質がまったく異なる。

 怒りと悲しみをない交ぜにした、歯止めの効かない荒々しい破壊衝動。愛というものなど、そこにはひとつも存在しない。身も心も傷つけることを目的としたような、あまりにも身勝手でひどすぎる感情を、容赦なく彼はぶつけてくるのだ。


「あっ、いやっ、やめてっ、やだあっ、っ……!」


 降谷は、必死にもがきながら耳元で扇情的に喘ぎ続ける声をその喉が枯れるまでもっと引き出させてやりたくなった。抵抗されれば抵抗されるほど。そして、彼女が傷つけば傷つくほど、このキスマークをつける意味がある。

 でも、ひとつだけ。どうしようもなく惨めにさせるのは、こんなに可愛い嬌声を、あの男が彼女を散々抱き散らかしながら聞いているのかと思うと、殺したくなるほど虫酸が走るということだ。

 猟奇的な唇が彼女の白くて滑らかな首筋から離れると、既にそこには消えない刻印のような赤黒い鬱血痕が浮かんでいた。降谷は彼女の体にその痕跡を残せたことにわずかばかりの征服感を抱き、その味を占めるみたいに荒々しく唇を拭う。そしてその場にずるずると座り込み、半ば泣きそうななまえを見下げて冷酷に告げるのだ。


「お前を必ずあいつから奪い返す」
「……」
「そのキスマークはいつかのお返しとして受け取ってくれ。もちろん、今も家にいる奴への宣戦布告として」


 そう言うと、彼は途端に顔色を普段通りの安室透に戻す。そして「大尉は僕が責任を持って梓さんの元に戻しますよ、ご心配なく」と平然とそう言ってのけると、まるで何事もなかったかのように離れていくのであった。彼のその足音だけが、夕焼けの中で虚しく聞こえる。なまえは大きなその両目からぽたぽたと涙を溢し、痛む首筋を押さえながら、心の中にいる神様に強く強く祈っていた。

 もうこれ以上、誰も傷つかない結末をください、と。

case100. 誰もが傷つかない結末を祈って
 

 - back/top -