98...


 高明に連れ出されたなまえは今度は初めてシロトエンCXの助手席に招かれ、運転席からこちらを見つめる彼によりいっそう優しく微笑まれた。改めてまじまじと彼の顔を見つめてみたが、その顔が景光に重なって見えてしまうことに変わりはない。だが、その絶大な包容力と、時折、垣間見せてくる大人の余裕を含んだ圧倒的な雰囲気は、六年前で止まってしまった記憶の中の友人とは次第に乖離していくようで。それよりも今は、先ほど守ってくれたときに感じたように、自分の恋人である赤井との性格的な重なりが強まったように思われて、いつの間にか彼のその笑顔が自分を困惑させるほどの破壊力を孕んでいるのだということには気づいていた。

 今さらながら、きっと彼は赤井と同じ歳の頃だろう。ついこの間まで碌に恋愛経験もなかったくせに、この年代の男に弱いのだろうか、と半ば自分に呆れてしまう。しかし、その引き金になったのはもちろん、今も家でなまえの帰りを待っているはずの赤井秀一。彼以外にいなかった。

 当然、高明はそんなことを知らず、なまえのことは弟の大切な友人として丁寧に接しているだけだった。だが、今日の夕方、レモンスカッシュを差し出したときにわずかに彼女と話した「景光がなまえのことを好きだった」という話に関して言えば、弟の気持ちが以前よりも痛切に理解できる。助手席で困ったような表情を浮かべて視線を逸らした彼女を、今は絶対に逃したくない。

 彼はそのとき、わずかに思った。もし、彼女が弟のかつての想い人でなければここまで遠慮はしなかったかもしれないな、と。


「昼から何も食べていないのできっとお腹が空いていることでしょう。捜査に連れ回してしまったお詫びに、何でも食べたいものを言ってください。まあ、時間も遅いので店は限られるかもしれませんが」


 そんな提案とともに、彼はようやく車のエンジンをかけた。するとなまえはお腹のあたりをさすりながら、わずかにはにかむ。

 取りつけていた約束通りに事が進んでいれば、今日の昼は、本来であれば彼と一緒にランチでもしながら景光について話すことができていたのかもしれないな、と彼女はとっさに思った。しかし、赤女事件に巻き込まれ、話しをするどころか、わずかに期待していた昼食さえも食べ損ねてしまっていたことを今さら思い出し、そして思い出した瞬間、現金なことに無性にお腹が空いてしまうのである。そしてそれを、長野県警随一の頭脳には完全に見透かされてしまっているような気がしていた。


「……じゃあ、パスタでもいいですか?」


 なまえがそう言うと高明は一度は頷く。しかし、すぐにこんな言葉を返してきた。


「あなたがそう言うなら別に構いませんが。……けれど、一応、お節介ながらお伝えしておくと、ここはご存知の通り、我々の根城としている長野県。蕎麦所としては日本屈指でその名を馳せているつもりではありますが?」


 少しおどけたように伺いを立てる彼のその口調がおかしくて、さすがのなまえも軽く吹き出すように笑ってしまう。そして、県警に入る前に何気なく考えたこと思い出し、どこまで自分は見透かされているのだろうかと思うと尚も余計に笑えた。


「ご提案ありがとうございます。でも、本当にパスタの気分だったんです。諸伏警部が美味しいパスタ屋さんをご存知なければ、蕎麦でももちろん構いませんけど」
「いえ。では、行きましょうか」


 パスタなら宛ての店があるので、と。その一言を皮切りに、車はようやく山を下り始める。

 獣のような嵐はどこかへと先に逃げていったらしく、頭上にはわずかに瞬く星も見え始めていた。なまえはその星空を見上げて、つい呑気にもにこにこと車に揺られる。今からお兄さんと一緒に美味しいパスタを食べるんだよ、なんて。ヒロに言ったらきっと驚くだろうな。



case98. あなたは今を生きている


 高明に連れてこられた店はあまり街灯のない田舎道にぽつりと立った、品のいいイタリアンレストランであった。ロッジ風の木の内装が暖かい印象を与えており、いくつも頭上から吊り下げられた長さの違う橙色の電飾は、まるで願いを込めて空に放たれたランタンを思わせる。まさに知る人ぞ知る隠れ家的な名店の雰囲気を醸し出しており、東京でも十分通用するほどお洒落な店のように感じられた。

 夜、遅い時間ではあったが、店主によれば今日は特別に営業時間を延長したという話であった。ここは普段から高明が常連としてよく通っている店らしく、車内から一本電話を入れるだけで融通を効かせてくれるほど彼に対する店主の恩義が見える。きっと高明が優秀すぎるが故に、店の困りごとか何かをその頭脳を以って解決してあげたことでもあるのだろう。そんな風に決めつけで勝手に想像するや否や、なまえは見開きのメニューの影に隠れて「絶対そう」とちょっと微笑むのである。

 なので、店内にはなまえと高明のふたりきり。普通なら気にならないほどの音量で流れているはずのBGMが多少大きいと思えるほど静寂に包まれている。しかし、これから腰を据えて話をしようという彼らにとっては、その環境すら非常に心地のよいものであった。

 この店のパスタは、メニュー表を見る限り三種類しかないらしい。クリーム、トマト、オイル、という三つのベースとなるソースしか客は選ぶことができず、具はそれぞれそのときの仕入れや、旬によって変化を持たせるのがこだわりなのだと注文を取りにきた店主は自慢げにそう言った。なまえはしばらくその三つの誘惑に目が眩みそうになるほど真剣に悩んで、結局、断腸の思いでクリーム系のパスタを選ぶ。すると、それに対して高明は真っ向シンプルに「じゃあ、私はクリーム以外で任せます」とだけ店主に言って静かにメニューを閉じた。

 しばらく待っていると運ばれてきたのは、きのことサーモンのレモンクリームパスタであった。その名を告げられた瞬間、反射的に「レモンだ!」と子どもみたく嬉しそうに声を上げてしまった彼女を、トマトベースのパスタを受け取った高明はかなり楽しそうに見つめている。しかし、笑われていることに気づいたなまえはハッと我に返ると急に恥ずかしくなり、その後は無言で美味しすぎるパスタを黙々と食べた。

 食後の紅茶とともに、店からのサービスだという小皿の上に乗った小さな焼き菓子が出された後。高明は自分の分のそれをなまえに与えてやりながら、おもむろに内ポケットの中を探り始めた。そして、今日、彼女に見せるつもりで持参してきていた「あるもの」を提示するために警察手帳を取り出すのである。


「実は、あなたが来ると思って今日はずっとこれを持っていたんです」


 そう言われたなまえは、手帳を開く彼の手元をまじまじと見つめていた。するとそこから取り出されたのは、丁重に折りたたまれた一枚の紙。開いたそれを彼から受け取れば、その瞬間、彼女は思わず息を飲み込んだ。

 それは一般的なL判サイズの一枚の写真であった。中央に写るのは、高明に初めて出会った十一年前の、高校三年生の自分。そして、その両脇から暖かく彼女に視線を送っているのは、当然、降谷と景光である。卒業式の日にいつの間にか撮られていたらしいその写真は、後に景光が他の写真とともに束でくれて、かつて彼らとの思い出を刻むために作っていた専用のアルバムに大事にしまい込んでいたはずのものだった。しかし、今はそのアルバムごと何者かによって盗難に遭い、この写真を見るのは彼女にとっても久しぶりのことだったのである。


「これ……っ!」
「あなたたちの卒業式の日に私が撮った写真です。よく撮れているでしょう?」
「そういえばあのとき……確かヒロが珍しく一眼レフのカメラを持っていて、これは兄のだって嬉しそうに言ってました」


 なまえはまるであの日を懐古するかのようにそう言いながら、改めて高明に聞き返す。あなたもこの写真を現像して持っていたのですか? と。しかし、高明はやわく首を横に振ってそれを否定した。


「この写真は、今、我々の目の前にあるものを含めて、この世にたった三枚しかありません」
「え?」
「弟があなたに差し上げたものと、この細かく折りたたまれた景光のもの。そして……ゼロと呼ばれた、あの青年のものです」
「!」


 なまえは急に彼の口から出てきた「ゼロ」という名に、衝撃を受けざるを得なかった。だが、高明は尚も静かに続ける。


「弟はこの写真をたいそう気に入って警察手帳の中にずっとしまい込んでいたようなのですが、久しぶりに会って見せてくれた際に、誤って私が持ち帰ってしまったようなのです。それを機に、今もこうして私の手元に残ったままになってしまいましてね。返そうにも、景光は数年前に『警察を辞めた』と連絡してきたきり、今も音信不通なので」
「……警察を辞めた?」
「ええ。あんなに警察官になることを所望していた彼が、どうしてその職務から降りることになったのかは私にもわかりませんが」


 その話はなまえには些か衝撃的すぎた。確かに彼の言う通り、景光は周りが進路を決め始めるよりもずっと前から、兄に憧れて警察官を目指しているのだという話を嬉しそうに語ってくれた。なのに、その養成所でもある警察学校を出てしばらくした後、彼はあんなに希望していたその職を自らの意思で辞めていたのである。


「それ、いつの話ですか?」
「もう六年ほど前になるでしょうか」
「じゃあ、私と連絡が取れなくなった時期と一致します」


 まさか何かあったんじゃ。なまえは泣きそうな顔でそうひとりごちて、悲しげに気持ちを沈ませた。高明にはそれがなまえのことを「危うい」と思う原因となる。

 しかし、彼が気がかりにしていることは何もその件だけではない。もうひとつ。それはこの手元の写真に写る、もうひとりの人物についての話である。


「なまえさんはあのゼロという青年とも連絡は取れていないのですか?」
「はい、同じく六年前から……」
「そうですか」
「でも……」
「?」


 怪訝な表情を見せる高明に、なまえはこのまま言葉を続けるか迷ってしまう。

 確かに景光と同様、六年前から彼女は降谷とも一切の連絡を取れていなかった。だが、嫌が応にも思い起こされるのは、弟の新一が居住する下階に店を構える喫茶ポアロ。最近になって、あそこでアルバイトを始めた安室透という人物が、もし降谷零であった場合は違う。そのことを高明に告げてもいいのか、迷っていたのだ。


「でも、何ですか?」
「……」
「なまえさん?」


 強くすがるように高明に名を呼ばれて、なまえはふとその視線を上げた。すると、そこにいたのは普段から冷静沈着を貼りつけた、県警随一の秀才、諸伏高明という人ではない。実の肉親の行方を本気で心配している、兄の顔つきをしていたのだった。

 なまえにはそれが堪らなかった。だから、降谷零に関する情報を、たとえそれが不確定であったとしても、今にも消えそうな震える声で漏らしてしまうのである。


「でも、零には……零には会った、ように思います」


 高明はその様子に、並々ならない感情を読み取った。そして、ここまで緊迫してしまった話を一度打破するようにため息をつき、背もたれに体重を預けて口を開く。


「失礼ですが、なまえさんは彼と交際していたわけではないのですか?」
「えっ!? い、いえ! 全然! その……考えたこともなかったです」
「じゃあ、弟が敵わないと言って身を引いたのは、あなたと彼が交際を始めたからというわけではなかったのですね」
「……敵わないって?」


 なまえがおずおずと心配そうに尋ねると、高明はまるで呼応するように優しく笑う。


「景光は確かにあなたのことをずっと好いていたようでしたが、その思いもある日を境にぷつりと断ち切ってしまったようですよ。彼は以前から遠慮深いところもありましたが、好きな女性をむやみに渡してしまうような男ではないと私は勝手にそう思っていたので、好奇心から彼にそれを問いかけたのです。しかし、彼は笑っていました。『ゼロには敵わないんだ』と言って」
「……」
「きっと、景光は正々堂々と彼に負けを感じたのでしょう。ゼロと呼ばれたあの青年が、何よりも大切にしていたのがあなただという話でしたので」


 その話を聞くと、なまえはとうとう胸を詰まらせて。何があっても泣かないと決めていたはずのその目からは、自然と熱い涙がぽろぽろと溢れ出してきてしまった。一筋、二筋、と頬を流れていくそれを「あれ?」と首を傾げながら必死に指の先で拭い続ける。おかしいな。こんなに泣き虫なつもりはなかったのだけれど。

 それにしたって私はあまりにもひどいことを彼らにしてきてしまったのだ。写真だけ見ても、ふたりにこんなに思われていたということは一目瞭然だったのに。ひとつもそれに気づけないまま、ただ自分は、甘えて、一緒にいて、笑って、傷つけた。最低なくらい、ひどい仕打ちとして。

 だから、傍にいられなくなったのだ。ふたりに置いていかれて、もうどこにも行けなくなってしまった。

 高明は目の前で必死に涙を止めようとする彼女に、薄水色のハンカチを差し出す。そして、何もかもを見透かしてしまうようになまえにこんなことを告げたのだ。


「なまえさん。今、あなたには大切な恋人がいるのでしょう? 比較的真新しいそのペンダント、男性が女性に贈るもののようですし。……まあ、私はその贈り主がてっきりあの青年かと思ってしまいましたが」
「……」
「去る者は日に以って疎し。来たる者は日に以って親し」
「え……?」
「過去の記憶を捨てろとは言いません。ですが、その過去にずっと囚われ続ける要因になるのであれば、それを『彼らのため』という建前で、無理に自分を傷つけてまで覚えておく必要などありません。そして、そのことで、今、交際中の彼に罪悪感を抱く必要もないのです」
「……」
「だって、あなたは今を生きているのですから」


 その言葉は、ずしりとなまえの胸に響いた。そして、彼に借りたハンカチを握ったまま、みっともなくも大声で泣きじゃくってしまったのである。

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