101...


 どこをどうやって帰って来たのかなんてまるで何も覚えていなかった。ただ焼けるように痛む左首筋の痕を押さえながらなまえは涙でぼやける道を無我夢中で走り、そしてようやく家にたどり着くとばたばたと階段を駆け上って自室へと逃げ込む。当然、下階にいる赤井には不審に思われただろうが、今の彼女はそれに構っていられる余裕などないほど激しく取り乱していた。とにかく、今は誰にも会いたくない。自分がひどい顔をしているということは、指摘されるまでもなく明らかだったから。

 全力で走ったことによる息切れなのか、それとも入り乱れた感情による作用なのかはわからなかったが、異常なほど弾んだ息遣いが部屋中いっぱいに充満していて、それが自分のものであるということが余計に彼女の困惑を増長させていた。ぽろぽろと流れる涙が悔しくて、みっともなく布団を頭から被ってまるで少女みたいに咽び泣く。その頭で思うのは、当然、安室透のこと。

 あの絶対零度のような恐ろしく底冷えする瞳。紳士的だった態度からはかけ離れた、荒々しい口調とその行為。こちらに包み隠すこともしなくなった嫌悪。赤井のことを無理やりにでも聞き出したい欲が見え透いたあの話題。それらから自ずと推察できることは、やはり彼が黒ずくめの組織の一員で、探り屋としての呼び声が高い「バーボン」であるということ。それだけなのに。

 本当は最初から自分が嫌われていたという事実は火を見るよりも明らかだったはずなのに、なぜかなまえには彼のことだけはどうにも放っておけないように感じられていた。たとえ彼が降谷であっても、なくても。安室透という人物は、まるでこの世界にたったひとりぼっちで立っていて、必死に強がりながら、誰の手も借りずに満身創痍で生きている。そんな風に見えた理由は、他でもなくなまえが孤児だったからだ。自分にもそんな経験があったからこそ、傷だらけの彼を誰よりも先に見つけられた。かつて優作が自分を見つけてくれたときと同じように。

 そして、その記憶をなぞるように、もしも手を差し伸べて助けてあげられるものならば、今すぐにでも孤独の闇から彼を引きずり出してあげたいと思う。迷惑だと、お節介だとなじられたっていい。その冷えた目に「光」を見せてあげたいと馬鹿みたいに願ってしまう。


「何考えてるんだろう……」


 そんなことできるはずもないのに。

 つけられた痕が「宣戦布告」だと彼が言い放ったことから、その言葉の意味はつまり、なまえの表向きな恋人である沖矢昴が、本当は赤井秀一であるということに半ば当たりをつけていて、それに対する挑戦状がわりに彼女が使われたということを指していた。むしろ、彼は最初からその事実を見越していて、なまえの同居人が赤井かどうかを確かめるために、好意を寄せているふりをしながら近づいてきたと考えた方が説明がつくことも多い。もし本当にそうなら、自分はまんまとその策に嵌ってしまったということになるが、彼への気持ちが本物で、しかも初恋であったからこそ、今、こんなにもこじれた状況に陥っていることが容赦なく胸を刺し続ける。

 安室が「悪」だと証明する証拠の方が「善」を証明する証拠よりも、圧倒的に多すぎて。

 でも、そう考えたとしても、やっぱりなまえにはどうも腑に落ちることができなかった。「お前を必ずあいつから奪い返す」という信念にも似た言葉が気にかかって、同様に、幸せだったあの日々を彼の方も本気じゃなかったと証明することができない。

 ちらりと布団の隙間から見えたクローゼットの中。なまえは、今もそこでひっそりと眠り続けているレモン柄のワンピースのことを思い出していた。袖を通すことはもう二度とないはずなのに、今も尚、捨てられないという行為自体が「駄目な自分」をすべて物語っている。


「なまえ」


 部屋がノックされたと同時に、彼女はどきりと心臓を縮めた。途端に布団の中で息を押し殺し、ぎゅっときつく膝を抱える。この部屋は一応鍵もかけられるが、帰宅時は気が動転していたため無意識で、今かかっているかどうかに関しては自信がない。

 それに、曲がりなりにも恋人の部屋でもあることだ。一度入ったことのある彼なら、心配して入って来ることは悠に想像できる。

 とっさに、この涙を引っ込めなきゃと思った。いつも赤井には泣き顔を見られてばかりで、もういい加減、これ以上、弱い自分を見せたくはないと強く思う。それに、彼への挑発を目的としてつけられたこんな痕なんて、絶対に見せるわけにはいかない。


「……入るぞ」


 遠慮がちではあったが、やや強めの口調でそう言った声の後。静かにドアが開く音がして、なまえは首筋に手を当てたまま、その場でじっとうずくまっていた。ひたすらに心を固くして。まるで練習みたいに無理やり口角を上げて引きつった笑顔を作ってみせる。布団の中から「びっくりした?」なんて冗談を言って、おどけられそうな顔にまで、また戻れるように。

 でも、駄目だった。笑えば笑うほどおかしいくらい涙が出てきて、虚栄心は早々に打ち砕かれた。涙腺が馬鹿になってしまった、らしい。


「何かあったのか?」
「……」
「顔を見せてくれないか、このままじゃ俺が安心できない」


 彼がベッドに体重をかける気配があった。なまえは身をすくめて静かに泣いている。声も出ない。


「頼むよ、なまえ」
「……」
「心配なんだ、お前が」


 珍しく切なげに懇願するような赤井の声色を無視し続けているということに、なまえはわずかばかり胸が痛んだ。どうしようと逃げ場さえなくなってきたと思った瞬間、業を煮やしたように隙間から手が入り込んできて、一瞬ビクついた隙をついて布団を剥ぎ取られる。暗闇に慣れた目が眩みそうになって、つい、彼の手を払いのけるように自分の腕を伸ばした。

 だが、その手も当然、捕まえられた。


「いやっ」
「!」


 赤井は驚いていた。それはもちろん、とうとう想いが通じ合ったと思って安心しきっていた自分を、嫌いだと撥ねつけるように拒む彼女の態度も要因としてはある。だが、布団を剥ぎ取った先にいたのは、痛々しいほど赤い目をした無防備に震える女。自分が想像していたよりもあまりにひどいその光景に赤井は息を飲み、そんな姿を見てしまった自分の方が悪いことをしたような気持ちにさえ陥る。そして。

 何よりも気になったのは、彼女の左首筋の。


「……お前、それ」


 見られた。そう思った瞬間、なまえの目からは大粒になった涙がとめどなく溢れ落ちていった。他の誰に見られてもいいが、赤井にだけは見られたくなかった。

 彼女の透き通るほど白い肌の上に浮かぶ、所有を示す毒々しいほどの華。

 赤井は堪らず、彼女を引き寄せてきつく抱きしめた。途端に大声で嗚咽し始めるなまえを甘やかしてやりたいのは山々なのだが、生憎、それができるほど自分に余裕のある状態ではないことに赤井は愕然とする。こんな感情、今まで知らなかった。いつも相手より先の展開を読んで行動しているような彼にとっても、突然訪れたこんな状況は、さすがに許容できない。

 なまえと交際を始めてから未だかつて誰も侵したことがなかった彼女と自分の聖域。そこへ初めて「第三者」が踏み込んできたこと。それがあまりにも彼には許せなかった。

 赤井は自分の気持ちが恐ろしく冷えていくのを感じながら、なまえのことをただじっと何も言わずに力強く抱きしめていた。そして、彼女が少し落ち着いたのを待って、努めて優しい表情を貼りつける。そうでもしないと、壊してしまいそうだったから。

 いや、正確に言えばこちらが狂ってしまいそうだからか。激情なる嫉妬心によって。


「おいで、手当をしよう」


 なまえの目には、その顔はまるで聖君のように映ったことだろう。しかし、その内心は、はらわたが煮えるほどの激しい憎悪を抱いている。

 赤井はそのとき、生まれて初めて気がついた。自分の独占欲が、こんなにも強かったことを。そして、大事な彼女の首筋に噛みついた代償を、その「第三者」にどう落とし前つけてもらうか、ふつふつと考え込むばかりだったのだ。



case101. 独占欲


 赤井と一緒にキッチンへと降りたなまえの表情はいつにも増して暗かった。俯いた目には光が灯らず、涙を止めようと何度も乱暴にこすったせいで化粧も崩れ、目が赤く腫れてしまっている。ダイニングテーブルの中央あたりをぼんやりと見つめているだけのまるで人形のような恋人の様子に、赤井はいたたまれず紅茶を入れて彼女の前に差し出した。それでもなまえの視線は動かない。


「……」
「暖かいものを飲むと、気分も落ち着くだろう」


 そう言って砂糖とミルクまで律儀に用意されたそれに、なまえはようやく気づいたように視線を配った。生憎、手をつけることができないほど憔悴しきっていて、その紅茶はただ彼女の目の前で冷めるのを待つのみ。すべてが申し訳なく思えた。

 優しくされただけで泣きそうになるから、今は極力何もしないで欲しいのに。そう思っていても言えなくて、なまえはまるで心の傷にまで甲斐甲斐しく手当を受けるように赤井から患部に軟膏を塗られ、その上から蓋をするみたいに手際よくテープを貼りつけられる。それはなまえのためというよりも、赤井がその痕を見て嫉妬にかられないようにするための行為に等しかったのだが、今はその話をよそう。

 対面する席に座った彼は、同じように入れた紅茶を口に運びながら商談でも交わすような神妙な面持ちで告げる。


「それで。話ができそうだったらさっそく話してくれないか、その涙の経緯について」


 君とバーボンとの間に、今日、何があったか。そうつけ加えて言われた瞬間、なまえはやはりこの痕をつけたのが安室であることを彼に見透かされてしまっていたのだと思い、少なからずショックを受けていた。このまま押し黙っているだけなら、事が事だけに、安室との浮気や密会などを疑われる可能性だってあるかもしれない。赤井は今、いつも以上に優しいが、どこか怒っているようにも見えるし。それは、恋人関係を結ぶ彼としてはあまりに当然の感情だった。

 しかし、そう言われても、なまえは未だ大きく動揺の中にいて何も返すべき言葉が見つけられなかった。ただぼんやりと思い出すのは、夕焼けに染まった道の向こうで冷血にこちらを見下ろす彼。時間が経つにつれて夢だったんじゃないかと思えるほど記憶の境界線が曖昧化してきていたのに、首に貼られたテープが、それが現実だったと引き戻すように教えてくる。夢ならどれだけいいものかと、思うほどに。


「これでも俺は嫉妬してるんだ」
「……」
「自分の女に手を出されて、嫌な気分にならない男もいないだろう?」


 そう言って赤井は前髪をかきあげる。その顔は思ったよりも苦々しい。

 彼の心情的には、本当はその忌々しい痕に噛りついて、今すぐにでも彼女の記憶ごと上書きしてやりたいくらいだった。赤黒く、痛めつけることを目的としたようなそれには、非道にも愛情の欠片すらない。もし、安室が本当になまえのことを愛しているのなら、こんなにひどい真似はできないはずだろう。たとえ、赤井がバーボンから根深い憎悪の対象として思われていたとしても、それはこちらに向けられるべきであって、なまえに向けられるべきものではない。

 だとすれば、その証をつけた理由として考えられることはひとつ。


「……宣戦布告、か」


 そう言った赤井には、なまえの目の色がわずかに変わったのがわかった。当然、彼はそれを見逃さず、何も言わない彼女を見据えたまま言葉を続ける。


「おそらくバーボンは俺にそれを伝えるためにお前の首筋に噛みついたのだろう。家にいる俺が赤井秀一だと見当をつけていて、その手に尻尾を掴むため。性悪な奴が実に考えそうなことだ」


 黙ってその推理を聞いていたなまえは、内心、とても複雑な心境に浸ってしまっていた。安室の好意が最初から自分には向かっていなかった。赤井にそう宣言されたような気持ちになって、それが組織の彼としてのハニートラップであったのだと改めて悟る。

 彼の行動のすべては赤井をあぶり出すため。自分は単なるその駒として使われただけに過ぎない。

 わずかな目線の動き以外、なまえは一貫して表情も変えず、絶えず何も言わなかった。駒なら駒でいい。でも、過去、彼のことが好きだった自分を踏みにじるような真似だけは、できれば安室にはしないで欲しかった。好きなのは歩くことだけじゃないと言った夜の悪い遠足も。この鼓動が今の真実ですと暗い夜の浜辺でキスしたことも。全部が嘘だった、なんて。

 最初からずっと嘘まみれじゃないか。なのに、なんで。なんで、嫌いになりきれないのだろう。

 赤井はなまえのその不安げに歪む表情を読み取ると、不敵な笑みを作ってみせた。それから、まるですべて見透かしたかのようにこう告げる。


「受けるよ、その宣戦布告」
「……」
「そっちがその気ならいくらでも相手になってやるさ。だから、お前は何も心配するな」


 赤井はそう言うと、なまえの頭を撫でて立ち上がった。それからはいつも通り。「博士からもらったレモンケーキ、食べるだろう?」と、キッチンから飾らずに呼びかけるのである。なまえは相変わらず何も言えなかったが、赤井がそれ以上の詮索をしてこないことにひたすら安堵していた。

 だが、このときの彼らは何も気がついていなかったのだ。何もかもをかなぐり捨ててでもなまえのことを奪い返そうとしている安室が、彼らの仲を引き裂くとっておきのカードをその手に隠し持っていることなど。何も。

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