102...
時刻は午前四時三十分。まだ静かな眠りの中に落ちている、東京都内の、一棟のアパート。メゾン・モクバ。その一室で目を覚ました降谷零は、かけていた目覚まし時計よりも半時間ほど早く起きてしまったことを苦々しく思いながら、立てた片膝に顔を伏してぼんやりとうなだれていた。今日はもう既に二時間も眠っていたので、もともと眠りの浅い彼にしてはよく寝た方である。これなら、日中の仕事にも十分対応できる体力に繋がることだろうと安心し、今日の予定を思い出しながら頭の中でゆるやかに仕事上の計算をしていた。
しかし、未だ布団から這い出せず、気怠くうなだれ続けていた原因は今しがた見ていた夢にある。
あの日以来、どうやったって毎日のように夢に現れ続けるのはやはり積年の想いを抱き続けている工藤なまえの存在であった。彼女に笑顔を向けられている都合のいい夢ばかりを見ては、起きてからの自己嫌悪に苛まれるまでがもはやルーティン。夢は記憶の整理とはよく言うが、彼氏ぶった身に覚えのない甘い生活まで試すように見せてくるから、起きたときに現実的なギャップを思い知って相当に堪える。笑顔にしたことなんて、数えるほどしかないくせに。
先日から飼い始めることにした「ハロ」と名づけた白い犬が、降谷の足元でもぞもぞと動き出し、ふわふわの尻尾がまるで愛想を振りまくみたいに小刻みに揺れているのが明け方のぼんやりとした光のせいで部屋に浮かんで見えた。どうやら身じろぎで起こしてしまったらしく、甘えるようにすり寄って降谷の指を舐め始めるハロの愛らしい献身が、ささくれ立った心を深く浸透していくように癒される。飼い主としては、その行動にふさわしい見返りを与えてやるべく触り心地のいい彼の小さな頭を優しく撫でてやると、途端に目を細めて気持ちよさそうにうっとりしているようで。その様子すらあまりに可愛いので、これじゃ見返りをあげられたのか返されたのかいまいちよくわからないな、と降谷は笑みを溢した。
トレーニング中の河原で出会った迷い犬のハロを飼おうと決めたとき。一瞬、頭に思い浮かんだことは、やはり笑えるくらい一途に想い続けているなまえのこと。
『私もいつかは父さんと母さんみたいな夫婦になりたいな。素敵な家で、犬とか飼ってさ』
もう何年も前に言われたはずのことなのに今でもずっと忘れられないのは、少年心にもその話を聞いて、いつかこの気持ちが通じて添い遂げることができた暁には彼女のために犬を飼ってあげようと馬鹿真面目に思ったからなのかもしれない。いや、考えてみると本当に馬鹿だ。なまえは傍にいないのに、その彼女のために犬を飼い始めて。そして、その犬に自分たちの思い出の歌である『ふるさと』の音階にちなんだ名前をつけてやるだなんて。
十一年前の記憶からまるでページをめくるように早送りし、次に思い出したのは掻き消したいほどひどすぎる直近でのなまえとの記憶。荒々しく首筋に噛みついた、燃えるように赤い夕焼けの中でのこと。
あのときはらしくもなく、我を忘れるくらい無我夢中だった。顔を使い分けることなんて普段なら造作もないくせに、余裕ぶった紳士的で優しい安室透でいられることができず、想いが通じずに無様に葛藤し続ける降谷零としての顔を迂闊にも覗かせてしまったのだ。後で悪いことをしてしまったとは思ったし、泣き顔を見たいわけじゃなかったと届かない言い訳を心の中で繰り返した。それでも、なまえに触れた手や唇は異様に熱くて、ずっとその熱が引かないことに降谷は今も困惑しきっている。そして、気づいた。
自分はいじましいほど強欲に、彼女との「次」を求めている。
「……もっと、したいな」
腰が砕けるような甘いキスをして。もう二度と離れないように抱きしめて。何のしがらみにも囚われずに「好きだ」とその形のいい耳に囁いて。その先だって、本当は。
降谷はハロを優しく撫でながら、再びベッドに横たわった。やっぱり、あと三十分寝よう。手に入れるのが難しい、都合のいい夢が見たいから。
case102. 想像したくはない事実
「博士の新しいゲーム、一体、どんなのかなーっ!?」
下校中。歩美が元気いっぱいにそんな話題をみんなに投げかけると、いつもの如く、元太と光彦が真っ先にそれに反応した。前のは結構イケてたよな、とか。今日のはきっと本格的なRPG超大作ですよ! とか。いつもは博士に対して何だかんだ冷たいことを言ったり、寒いオヤジギャクが答えのクイズに辟易としたりするものの、結局はそんな天才発明家のことがみんな一様に大好きで、放課後に揃って遊びに行くのが毎日の楽しみで仕方がないといった風である。
そんな様子を微笑ましく彼らの一歩後ろで見つめていた灰原は、コナンと並んでまずはいつも通りまったく口を挟まず、黙って小さな友人たちの可愛い話に耳を傾け続けていた。彼女は特に同居している関係上、博士が徹夜でどんなゲームを作っていたのかは既に知っていたが、その答えを知っているからこそ繰り広げられる三人の予想合戦が意外にも不毛で面白い。
とはいえ、今のところ、全員ハズレなので。ここは自他ともに認める稀代の推理オタク・江戸川コナンをこの的外れな会話に引きずり出し、名探偵としてのお手並みを、是非とも、拝見させてもらおうと思って灰原は隣にいる彼に視線を向けたのである。
「で。江戸川くんは博士の新作のゲーム、どんなのだと思う?」
しかし、その相手であったコナンの方はというと。そんな灰原の話は耳にも入らず、何やら明後日の方を向いてじっと考え事をしているらしかった。
彼のその脳裏に浮かんでいたのは、数週間前、世良に誘われた長野への赤女事件解決のために運転手役として同行してくれた姉のなまえのこと。
彼女が最近、以前よりもずっと赤井とうまくいっているということは少し前に本人から受けた清々しい決意からも伺えて、よもやまさか本当にゴールインが近いのではないかと彼は人知れずそわそわしていたのである。なまえが結婚……となると、自分の義理の兄があのFBI切っての切れ者である赤井秀一になるわけで。そう思うと、味方にしておくには十分すぎるほどの心強い相手であり、傷つきやすいなまえのことも交際時以上に手放しで任せておけることだろうと思う。始まり方は自分が斡旋した強引なルームシェアだったとはいえ、コナン自身が引き合わせた巡り合わせによる今の彼らの恋人関係なので「運命」というものは本当にあるのかもしれないなとしみじみ感慨深くなった。
だが、コナンはそれとは別になまえに関してどうしても気になっていることがまだあったのは事実だった。それも、ふたつ。
ひとつめは、なまえが何かと安室のことになると彼に肩入れをしているように見えるという点である。長野に出発する前も、あろうことか、組織の一員であるバーボンに対して「悪い人には見えない」などと驚愕の言葉を言い放ち、コナンに安室のことを調べるようにと頼み込んでいたのであった。調べて、と言われても。確かに安室に関しては注視を怠りたくない相手ではあるが、弟の一件以外は組織とは何ら無関係であるはずのなまえが何を考えてそんなことを言ったのかがいつまでも要領を得ない。赤井とうまくいっている分、安室にはもう近づかないで欲しいのに。彼にこだわり続ける理由が、姉に何かあるというのか。
そしてふたつめは、音信不通になっているなまえの友人の件についてだ。彼女が長野に向かった理由は、かつての友人の消息を掴もうとその兄であったという諸伏警部に会いに出向いたためだと判明したが、確か友人はもうひとりいたはず。その人物とは、一体。
そこまで考えたとき、彼の頭の中では、今、一番想像したくない答えが暗黒のように差し迫る感覚に襲われた。コナンはそれを懸命に首を振って払拭し、そしてひとりごちる。
「……まさか、だよな」
「何が『まさか』なのよ?」
「えっ、あ、いや……」
突然、隣にいた灰原からジト目で睨まれたコナンは一気に現実に引き戻され、ついその目にたじたじになって苦笑いを繰り出す。どうやらその様子だと、本当に何も話を聞いていなかったんだなと察して彼女は呆れた。悪い悪い、何の話だった? と悪びれずに聞いてくる同級生をなじりたい気持ちにもなるが、今はやめておく。
それよりも灰原には、そんなに上の空になるほど彼が考えている内容の方が気になっていた。こちらが声をかけるのもためらうほどの百面相ぶりであったが、最後に見せた表情が何やら思いつめたような神妙な表情に見えたから、余計に。
「人がせっかく話を振ろうってときに、考え事?」
「ああ、まあな」
「まさか、組織に関係することじゃないわよね」
「違えーよ。なまえのことだって!」
「なまえさん?」
灰原はその名を聞いて、怪訝そうな顔をした。コナンがあの女子高生探偵の誘いで長野県に旅行したと言ったその後しばらく経ったある日。ちょうど今と同じ下校途中になって、彼はまるで自分のことを話すように「あいつ、もうすぐマジで結婚しちまうかもな!」なんて、嬉しそうに語っていた出来事が思い起こされる。そのときは、随分あの沖矢という男と隣家で仲良くやっているのだと思って灰原も安心しきっていたが、そういえばと思い出すように彼女にも気になるところがあったのだ。
「ねえ。そう言われてみれば、ちょっとなまえさんのことで気になってることがあるんだけど」
「え?」
「この前……確か、時間は夕方頃だったかしら。血相を変えて家に飛び込んで行く彼女の姿を見かけたの。何かにひどく怯えてるみたいな、逃げてきたみたいな……顔を拭っていたから、泣いていたのかもしれないわね」
コナンは初耳なその話にひどく驚き、そして彼女を心配する。また何か波乱があったのだろうか。でも。
「家に逃げ込むってことは、昴さんと何かあったわけじゃないと思うんだけど。でも、だとすると、彼女はどこから逃げてきて、どうしてあんなに急いで帰ってきたのかしら。私たちが詮索することじゃないのかも知れないけど、ちょっと気になるわよね」
「……」
「江戸川くん?」
灰原に問いかけられたコナンの瞳は、大袈裟なくらい大きく揺れていた。
もし。もしも。灰原が見たというその話が事実で、誰かから逃げていたということも本当なのだとしたら。そして、先ほど想像もしたくないと思って必死に打ち消した推理が、まさにその通りなのだとしたら。
もしかすると。なまえのもうひとりの友人は、安室透なのかもしれない。
「……まさか、だよな」
「何?」
「いや、何でもねえよ」
一気に青ざめたように顔色を悪くした彼を、もう指摘できる無慈悲さは灰原になく。ただ、そのまま博士の家に着くまで彼はひたすら焦っているように表情を暗くしていたのであった。