103...
あの日を境に、なまえ本人はこれでも平静を保っているつもりであるらしいのだが、赤井の目にはまるで生気がなくなったようにしか感じられず、身につまされるほど物憂げで儚い存在としてしか映らなくなっていた。いつもより丁寧に愛情をかけて優しく抱きしめたり、普段は荒っぽい自分の口調もよりやわらかなものへと気にかけてみるものの、大した効果は得られず。ふとしたときに、今にも泣き出しそうになっている彼女の横顔を盗み見ては、珍しく耐えられそうにないくらい心がざわついてしまう。
おそらく、なまえは六年前に失踪したという友人達を失ったときにも、きっと今と同じような表情をしていたことだろう。そして、それが結局のところ、赤井ではどうにも太刀打ちができない遥かな壁として高くそびえ立っていることが歯がゆくて、気が狂いそうになるほど彼女を心配し続ける毎日を送っているのである。
確かになまえの首筋についた痕は、何も永遠に残るものではない。その証拠に、風呂上がりで濡れ髪の隙間から見えた彼女の首筋には、赤井の処置の甲斐もあって、既に薄紫色をした単なる打ち身のような痕がうっすらと残っているだけ。だが、そのときに同じくつけられた心の傷の方は、決してその限りではない。
しかしなまえは、その心の傷から他者との接触を意図的に拒否したり、距離を取ったりという、ある種わかりやすい孤高の態度を取っているわけでもなかった。むしろ、以前よりあまりにも素直に何でも言うことを聞いてしまうので、赤井にとってはそれが逆に不安になる。自分の意見も、可愛い我儘も、たまに見せてくれた無邪気な笑みも、何もなく。ほぼ感情の起伏がないと言っていいだろう。まるで人形のように無表情と見間違えるほどうっすらと微笑んでいるだけの、単なる女。それは明らかに、赤井が好きになった工藤なまえの姿ではなかった。
風呂上がりの彼女をリビングのソファに呼び寄せて、まるで娘に接するかのようにその細い髪を拭いてやる。それだけで、以前なら耳まで真っ赤に染めるほど照れていたはずのなまえは、今やもう薄い反応で。ただ無音をごまかすためにつけていたテレビ番組を、光のない目でぼうっと眺めているだけだった。その様子に赤井は堪らず、その頼りないほど細い腰に手を回し、彼女のこめかみにキスをする。
だが、それでも。悲しいことに、嫌がる素ぶりも、逆に恥ずかしがる素ぶりも見せず。それを指摘することができない赤井は切なげに微笑んで、なまえに気を使わせないように優しい声音で話しかけた。
「随分、眠そうに見えるが?」
「いや、そういうわけでは……」
「眠ければここで寝たっていい。責任を持って、俺が部屋まで連れて行ってやる」
「大丈夫です」
大丈夫。それは日本人がよく使う常套句的な言葉ではあるが、赤井にはまったく大丈夫な様子には見えなかった。冷静を装ったなまえにそう返された彼は、めげずに今度は別の角度から切り込もうとしてみる。
「なまえ」
「はい」
赤井は恋人の名を愛しげに呼ぶと、硬い無表情のままのなまえの頭を手で抱えるように倒して自分の肩に預けさせた。恋人なら、いつでもこれくらいは甘えて欲しいものである。辛いときは辛いと言って、泣きたいときはこの胸の中で遠慮なく泣けばいい。そう身を以って教え込ませるように、自分も彼女の頭に寄り添った。
しかし、じわじわと移ってくる熱に違和を覚えたのは、その後すぐのことであった。赤井は身を離して首を傾げ、すぐさま彼女の額を手のひらで覆う。
「……お前、熱くないか?」
「えっ」
「熱があるんじゃないのか? ちょっとそこで待ってろ」
彼はそう言って立ち上がり、もう慣れたように薬箱の中から体温計を取り出す。そして、甲斐甲斐しくそれを彼女の脇に挟ませると、ソファの下で跪いて検温が終わるのをじっと待っていた。
結果は思った通り。体温は三十七度六分。平熱に比べると、少しだけ高い。
「微熱だな。他に症状はあるか? 頭が痛いとか、喉が痛むとか」
「いえ。でも、そういえば最近ちょっと熱っぽいかも」
「夕食は普通に摂れていたよな? これから熱が上がってくるかもしれないから、大事を取って明日の仕事は休めるように連絡を入れておけ」
いいな? 赤井はそう断定的に発すると、体温計をケースにしまい、テーブルの上に乱雑に置く。しかし、その様子を見ていたなまえから平然と返ってきたのは、驚くべき返答だった。
「いえ、休みません」
「……」
「だって、残ってる仕事もあるし。それに、働いていないと今は余計なことを考えてしまうから」
余計なこと。それが何を意味しているのかなんて、赤井には聞かなくても嫌と言うほどよくわかる。
安室透のことなんだろう? どうしてそこまで奴のことを考える必要がある? 数多の嘘でなまえを苦しめるだけの相手に、慈悲なんてかけてやる必要性は最初から微塵もないはずなのに。
お前の恋人は、俺しかいないのに。
「……忘れさせてやるよ、その、余計なこと」
「……」
「だから、もうそんな顔するな」
まるで懇願のような、強い口調だった。赤井はそう言うと、軽く熱のあるなまえの頬に触れて、かがんだ姿勢のままソファにゆるやかに体重をかけていく。次第にふたりの距離が近づき、熱に浮かされたようにぼんやりとした互いの顔が視界いっぱいに映って。交際してからもう何度目かになるキスを、切なくも交わそうとした。
しかし、その唇が重なってしまう前にけたたましく鳴り響いたのは、沖矢昴の名義になっている、今の彼の携帯電話である。
無視すればよかったのに、後数センチのところでつい動きを止めてしまったからには、もうその電話には出ざるを得なかった。彼は「悪い」と一言謝って。着信相手を無言で確認すれば、意外にもかけてきていたのは、工藤新一の仮の姿でもある江戸川コナン。こんな時間に姉のなまえにではなく、沖矢を宛てにして電話をかけてくるということは、よっぽど何かがあったのだと思っていいだろう。赤井はそう思い、喉につけたままになっていた変声機のスイッチを一応入れて応答する。
「やあ、コナンくん? どうしたんだい?」
その会話をなまえは傍で聞きながら、相変わらずぼうっとしていた。ただ、熱があるのか、と。のんきにそう思うだけ。
今の彼女にはもう、別に、何もかもがどうだってよかった。考えるのがひたすら億劫なのだ。ひとりきりになりたい。眠りたい。ずっと、幸せな夢だけを見て。
「ああ……、わかった。支度に時間がかかるから、少しそこで待っていてくれるかい? 車を回したらまた連絡するよ」
沖矢の声でそう言ったところを見ると、どうやら彼はこれから出かけるらしかった。なまえは失礼ながら、わずかにほっとする。ひとりなら、表情が上手く作れないことを気にしなくてもいいから。
「コナンくん、ですか?」
電話を切った彼に、さっそくそう問いかける。
「ああ。悪いが、今から少し出る。本当なら、風邪気味のお前を置いて出かける真似なんてしたくはないんだが、あのボウヤの方も何やら切羽詰まっている様子で少々気がかりだった。何か組織関連のことで動きがあったのかもしれない」
「そうですか……もう夜も遅いし、コナンくんのこと、帰りもちゃんと送っていってあげてくださいね。蘭ちゃんが心配するといけないから」
「わかった。約束しよう」
そう言って、彼は出かけるために、一度解いていた沖矢昴の変装を再び施しに行くようであった。なまえは思わず、リビングを出ようとする彼を呼び止める。
「ねえ、秀一」
振り返った赤井は、久しぶりになまえから話しかけられたことに対して少し驚いていた。しかし、その後、とびきり優しく笑って「何だ?」と問う。その優しさがなまえの胸をじくじくと痛めつけるとも知らずに。
「……ごめんね」
上手く笑えなくて。そう続けられればよかったのに、今のなまえにはただ謝ることが精一杯で、性懲りもなくまた泣きそうになってしまっていた。心の中があの日からずっとぐちゃぐちゃのままで。安室のことで、いっぱいで。自分でも、どうしていいのかわからない。
すると、赤井はいつもの通り。すべてを見透かしたようにくしゃくしゃと彼女の頭を撫でて視線を合わせる。
「すぐ戻るから、いい子にしてろ」
まるで愛玩犬に言うような台詞ではあったが、なまえの気に触ることはなかった。むしろ、彼なりの愛情がとてもよく感じられて、そのことがまた申し訳なくなる。
静かにドアが閉まる音がした後、ひとりになった部屋でなまえは自嘲気味に笑っていた。そして、思うのだ。
秀一に愛想尽かされるのも時間の問題だな、と。
case103. それぞれが確信に迫るとき
いつも通り沖矢に変装した赤井はわざと毛利探偵事務所を避けて付近の路地まで車を回し、そこで待っていた江戸川コナンを助手席へと乗せた。時刻はもう午後九時を過ぎていたため、手短な方がいいだろうと米花町をぐるりと一周するドライブコースを提案する。にしても、こんな時間まで小学一年生が出歩いていても大丈夫なのか? と、まるで鎌をかけるように言う余裕すら、まだ赤井の方にはあって。コナンは内心「もう絶対俺の正体バレてるだろ」と思いながら一応ごまかしの苦笑いを繰り返していた。
「で、どうしたんだ? こんな時間に呼び出したりして」
するとコナンは、あっ、と短く声を上げる。呼び出した理由なんて、ひとつしかない。それは灰原に話を聞いてから、ずっと気になっていたこと。
「えっと……なまえ姉ちゃんのことなんだけど、元気かなって。新一兄ちゃんがすごく心配してて……」
「ああ、まあ。少し風邪気味みたいだが」
「そうなんだ……」
ちらりと視線を移した助手席で、珍しくコナンは緊張しているように見えた。赤井はその様子に眉をひそめ、理由を聞き出すために単刀直入に尋ねる。
「それで。本題は?」
「え……」
「なまえの、何が気になっている?」
赤井は見透かすように微笑んで、眼鏡の向こうにある目を少しだけ開眼させた。その瞳で睨まれたコナンは、一瞬、息を飲む。
けれど、この仮説が本当かどうかは今後を予期しておく重要なパズルピースとして、あらかじめ絶対に確かめておく必要性がコナンにはあった。すべてはなまえを安室から守るために。弟の彼は固くそう信じ、気持ちを持ち直して、赤井に今日伝えようと思っていた「お願い」について口にする。
「赤井さん。あのね……お願いがあるんだ」
「……」
「なまえ姉ちゃんの高校時代のアルバム、持ってきてくれないかな。もちろん、絶対に内緒で」
さすがの赤井も、その願いに関しては当然ながら予期していなかった。しかし、コナンと自分が同じ見解を持って、そのアルバムを手に入れたがっているのだとしたら。再びバーボンを一蹴するために、安室となまえを結びつける線が彼らにはどうしても必要であるとの共通認識を互いに持っているということがわかる。
だが、当然、赤井はその願いを聞けない。なぜなら、そんなアルバムはあの家にないから。
「……悪いが、それはできない約束だ」
「え、どうして……!?」
「俺が以前、今の君と同じようにアルバムを見たいと彼女にせがんだことがあってな。そのとき、なまえは確かにこう言っていたよ。家できちんと保管していたはずなのに、そのアルバムだけが失くなったと」
「それって……」
「『留学中、誰かに盗まれた』とな」
「っ!?」
「しかし、ボウヤが俺と同じことを推理して彼女のアルバムを見たがっているのだとしたら、こちらの確信は以前にも増していよいよ濃くなったよ。我々はどうやら、同じ結論に達しているらしい」
「ああ……、間違いない。なまえと安室さんは」
高校時代の友人だった。そう考えれば、何もかもに説明がつく。安室がなまえに固執する理由も。なまえが安室のことを忘れられない理由も。
「奴が組織に入ってきた時期も重ね合わせて考えてみると、ちょうどなまえから聞いている音信不通になったという時期とも示し合わせたように重なるよ。奴が俺に対して異常に憎悪している理由もこれでひとつだけじゃないとわかったしな」
「? それって……?」
「その話はともかく。安室透という男は、もう何もかもをかなぐり捨てるつもりで、近々俺に何らかの策を持って立ち向かってくるに違いない。精神的になまえを追い詰めて疲弊した彼女を人質に、何かを仕掛けてくるかもしれないし。当分の間は、あいつにも監視が必要だな」
「赤井さん……」
「何だ?」
コナンの瞳は揺らいでいた。それはもう既に、弟の目をしている。
「頼む……頼むから……あいつのこと、ずっと傍で守ってやってくれないかな? 俺は何もできないから、だから、頼むよ……赤井さん……っ!」
悲痛に歪むコナンの表情を見ていた赤井は、ふっと笑った。そして、自分が何者なのかをすっかり忘れている名探偵に向けて、皮肉を言うように声をかけるのである。
「……というのが、新一兄ちゃんからの伝言かい? コナンくん?」
「え? あ、ああ、うん。そうそう! あはは……」
車は停まる。信号が変わるまでの間、赤井はまるで小さな彼を励ますようにどさりとその頭に自身の大きな手を乗せた。そして、たった一言こう言うのだ。
「任せろ」
か、格好いい……。さすがのコナンでも真剣に当てられてしまうくらい強くそう思った。男としてこれ以上頼り甲斐がある人物が他にいるだろうか。そう考えると、姉はとんでもない男に惚れられたらしい。
この問題に片がついたら、絶対になまえと添い遂げて欲しいなと思いつつ。車は颯爽と米花町を駆け抜ける。