104...


 ようやく納得いく形でなまえと安室の関係性を突き止めたコナンは、いよいよバーボンが仕掛けてくるかもしれない秘策について、彼なりに先回りして考えを巡らせていた。おそらく安室ほどの推理力を以ってすれば、工藤邸に住みついた大学院生・沖矢昴が、赤井秀一かもしれないということにはもう既に感づき始めているはず。だからこそ、自分の正体をベルツリー急行で明かしてもなお退陣はせず、情報をかき集めるために未だ堂々と喫茶ポアロの店員を装っていることにも頷ける。なら、次の彼の行動は。是が非でも「沖矢=赤井」の方程式を証明するために、早々に何かを仕掛けてくる可能性が高いということは容易く考えられることであった。

 きっとバーボンの最終的な目標は、赤井の抹殺となまえの奪還。そのための布石としてはまず、赤井の死の偽装に使われた死体が、何者であったのかについて探りを入れてくることだろう。ここは子どもとして敵の目を欺きやすいコナンが、未だ身内にもその生死を明かしていない赤井に立ち代わって、ジョディをはじめとしたFBI捜査官達にその情報を外部に漏らさないよう釘を刺しておく必要がありそうだと思う。

 組織の末端構成員だった、楠田陸道。その男のことを、バーボンにだけは絶対に探らせてはいけない。

 そんなことを考え込みながら、コナンは住居スペースである三階から、探偵事務所のある二階へと階段を下りた。すると、事務所のドアを開けた先にいたのは、珍しく蘭ひとりきり。彼女は怒ったようにぶつくさと文句を言いながら、ひたすら誰かに電話をかけ続けているようである。


「蘭姉ちゃん、どうしたの?」
「あっ、コナンくん! あのね、実はお母さんが仕事先で突然具合が悪くなっちゃって。盲腸みたいなんだけど、急遽これから手術なんだって! さっきからずっとお父さんに電話やメールを入れてるんだけど、全然連絡がつかなくて……もう待ってられないから、私たちだけで先に病院に行こう!」


 そう言うと、蘭は手早く小五郎に置手紙を書き記す。「携帯の電源ぐらい入れときなさいよ」という、激しい怒りさえ伺えるような文面で。

 どうせあのオヤジのことだ。日曜のこの時間なら、競馬か麻雀かパチンコだろう。バーボンとの決戦に向けて考え事をしていたコナンもさすがにそれどころではなくなり、突然告げられた妃の容体を心配しながら蘭とともにおもてに出た。そしてすぐさま通りかかったタクシーを拾って、ふたりして後部座席に乗り込む。


「すみません! 杯戸中央病院まで、お願いします!」


 蘭が運転手に告げた目的地が意図せずタイムリーな場所で、コナンは一瞬、心臓がドキリとしてしまった。それは蘭の母である妃英理がこれから手術を迎える病院であると同時に、かつてCIAから組織に潜入していた水無怜奈を入院させていた関係上、後に赤井の死体偽装トリックに使った楠田が患者を装って接近してきた病院でもあったからだ。

 一瞬、頭をよぎった嫌な予感は、不安げな蘭に握られた手によって再び吹き飛んでしまった。大丈夫。今は妃の安否のことだけを考えよう。そんな風に思いながら、コナンは励ますように蘭の手を握り返すのである。



case104. ゼロ


 なんとか無事に妃の虫垂炎の手術は済み、彼女の意識も覚醒したところで蘭はようやくその枕元で安堵の表情を浮かべた。よかった、とわずかばかり泣きそうな顔でほっと一息つくところを見ると、やはり、急な身内の入院や手術は、たとえその病状が命に関わるほどのことになる可能性が低いとわかっていても不安になる気持ちがよくわかる。コナンは蘭と妃に向かって「よかったね!」とやわらかに声をかけ、子どもの身として無邪気に再びふたりを励ました。

 しかし、そんな和やかな雰囲気をぶち壊しにするかのように病室に入ってきた男こそ、天下の名探偵・毛利小五郎である。英理ぃぃぃぃ! と絶叫しながら入って来たところを見ると、旦那としてかなり心配しているのは確かな様子。だが、両親の復縁を望んでいる蘭の期待もむなしく、彼が携帯の電源を切ってまでパチンコ店に行っていたことがバレて喧嘩になり、早々に病室から追い出されることになるまで、悲しいかなあまり時間はかからなかったのだ。


「出てけーっ! このヘボ探偵ーっ!」


 妃はヒステリー気味にそう叫びながら、手当たり次第、物を投げつけて小五郎を外へと追いやった。ただ、外に出たのは彼ひとりではなく、つい癖のように披露してしまった推理のせいで小五郎がパチンコに行っていたことを見事に言い当ててしまったコナンも同様。妃から投げつけられる大量の物品を回避するためという意味合いでも小五郎と一緒に病室から出ると、ふたりしてこれからどうするのか考えあぐねるのである。


「ったく。せっかく心配してきてやったのに、ぷりぷりしやがって」


 しかし、突然、背後から聞き馴染みのある声がかかったのはその折のことであった。


「あれ? 毛利先生じゃないですか?」
「!?」
「こんなところで何してるんですか?」


 そうやって人当たりのいい笑みを浮かべながら声をかけてきたのは、コナンがこの病院にやって来る前に対策を考えていた当の相手であるバーボンこと、安室透。彼は普段通り人懐こい雰囲気で小五郎に近づくと、わざとらしいほどにこやかに会話をし始める。そして、妃のことを聞くや否や、彼女のことを心配するような言葉も口するから白々しい。彼の様子はどこからどう見ても誰かに会いに来た見舞い客にしか見えず、今この場で彼の存在が異様だと思えるのはその正体を知っている江戸川コナンだけだった。

 なぜこのタイミングで黒ずくめの組織の仲間がこの杯戸中央病院にいるんだ、とコナンは余裕なく思った。さすがに動揺を隠すことができず、自分の瞳がぐらぐらと揺れているのがわかる。

 もし、彼が。赤井の死の直前に、楠田陸道がこめかみを撃って拳銃自殺したことを知ってしまえば。そして、以前の花見のときにジョディがしてしまった思い出話から感づいて、指紋のトリックにも気づいてしまったとしたら。そう考えると、赤井の危機に加え、なまえまでもが安室に盗られてしまうかもしれない。そんなこと、彼には耐えられなかった。


「お前はなんでここに?」
「ああ、知り合いが入院しているって聞いて見舞いに来たんですが、いつの間にかいなくなったみたいで……コナンくんは前にもここに来たことがあるって看護師さんたちが言ってたけど、知ってるかな?」
「え?」
「楠田陸道って男」


 やはり来るのはその名前か。コナンはさっきまでの動揺を微塵も悟られないように、逆に意識して真顔を作り出す。そして、子どもっぽい舌足らずな口調で、少しかがんで聞いてきた安室にこう返すのだ。


「誰それ? 知らないよ」
「実はその男にお金を貸していて返して欲しいんだけど、本当に知らないかい?」
「うん」


 そう言い切るコナンに対して、彼は見透かしたように笑う。


「すごいね、君は」
「え?」


 すると安室は何を思ったか、たまたま通りかかった見舞客らしいふたりの中年女性に声をかけた。そして、今しがたコナンに尋ねた質問とまったく同じことを彼女らにも尋ねるのである。


「あの、ちょっとすみません。楠田陸道っていう入院患者を知りませんか?」
「楠田陸道さん? さあ、どんな方? 歳は?」
「その人の写真とかあるかしら?」
「あ、いえ。もういいです」
「そう?」


 拍子抜けしたような女性たちがその場から立ち去ると、次に安室は小五郎に向き直る。


「毛利先生ならどうです? 突然名前を出されて『知ってるか?』って聞かれたら」
「んー、そりゃまあ。今のオバサンたちみたいに……」
「そう。大抵の人は自分の記憶に絶対的な自信はないんです。だから普通は『ノー』と言う前に、その尋ね人の名前以外の情報を知りたがる」
「……」
「だから君はすごいよ、コナンくん。名前だけで、知らない人だと確信できるんだから」


 安室が挑戦的にコナンを捉えるその目は、完全に嘘つきを見る目だった。いや、コナンが嘘をついていることをわかっているのにあえてその指摘せず、揺さぶりをかけるためだけの非道な目。それは灰原がよく使う「組織の匂い」という言葉の意味を十分に感じさせるもので、コナンは固く拳を握り締める。

 どうする。赤井さんとなまえを守るために、今、俺にできることは何だ。

 そんな中、ふたりの間で交わされる好戦的な視線に、幸か不幸か気づかなかった小五郎は、鼻を鳴らして安室に師匠としての助言をつけ加えるのである。


「ふんっ! ガキの言うことを真に受けるなよ。会ったことがなくても名前を知らない奴はザラにいるし、あだなとかでしか知らない奴もいるからよォ」


 あだな。その単語が安室の耳に届いたとき、彼の背後ではひとりの少年がエレベーターホールにてその階層をカウントダウンをしている声が同時に聞こえてきた。

 三、二、一……。


「ゼローッ!」
「!?」


 ゼロ。それは、安室が本当に所属している組織の俗称。そして、かつて諸伏から呼ばれていた自らのあだなでもあるその単語に思わず反応してしまった彼は、その両方の意味で知っている者が数少ないはずの名前を呼ばれたと勘違いして鼓動を早め、即座に振り向いて見知らぬ少年をまじまじと見つめた。エレベーターが来たことを彼が母親に知らせ、手を引いて乗り込み、消えていくまで。

 少年の声は声変わりをする前の幼少時代によく聞いた諸伏の声に似ていたようにも思えた。「ゼローッ!」と遠くから、満面の笑みで自分を呼んでくれる記憶とあまりに重なってしまったのは、小五郎が「あだな」という言葉を用いたせいだと思いたい。

 しかし、その動揺を見逃さなかったのは、当然、その場に居合わせたコナンの存在だった。


「ん? どうかしたか?」
「ああ、いえ。僕のあだなもゼロだったので、呼ばれたのかと」
「なんでゼロ? 確か名前は『透』だったよな?」
「透けてるってことは、何もないってこと。だから、ゼロ。子どものつけるあだなの法則なんて、そんなものですよ」


 まるで取り繕うようにそう言う安室の様子を見て、コナンは神妙な顔つきのまま、ひとつの可能性について思い当たっていた。ゼロとは「存在しない組織であれ」としてつけられた、とある組織のコードネーム。日本の安全と秩序を維持するために存在する公安警察の俗称。

 それが、ゼロ。

 もし、安室が公安に所属していてそこから組織に潜入しているスパイだとすれば、今の状況をすべて覆して、友好的な協力関係にまで持ち込めると思う。だが、まだその確証はない。


「……」


 ともかくこの事実は、帰宅後に赤井と共有しよう。そう思い、コナンは眼鏡のレンズ越しにゼロとのあだなを持つという、安室透の横顔を睨みつけるのであった。

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