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「やっほー、なまえ! これ、この前のお礼にって目暮警部からの差し入れ。甘味堂の栗どら焼き。並んだわよ?」

 そう言って前回よりも質量の増した紙袋をどさりと豪快に来客用の机の上に置く美和子に苦笑しながら、なまえはありがたくもそれを受け取った。目暮が言う「この前のお礼」というのは、おそらくあの花見のときに起こった事件のこと。あのときはコナンから電話で現場に呼び出されたとはいえ、警察関係者よりも早く死体の状況を確認し、犯人像までプロファイリングまでしてみせたことはその後の捜査の前進に大きな影響を与えたことは言うまでもない。そして、迅速な事件解決は、当然、一課の長でもある目暮の鼻を高くする。


「本当は今日もここへは高木くんと一緒に来るつもりにはしてたんだけど、杯戸中央病院で女性の毒殺事件があったらしくて」
「ああ、こっちにもその情報は入ってる。遺体の送致はまだみたいだけど」
「私も頼んでた捜査資料をなまえからもらったら、一応、現場には向かうつもりにしてるんだけど……。でも、高木くんによれば、毛利さんやコナンくんがいるっていう話だから事件解決は早いかもね」
「言えてる」


 なまえはついその脳裏に、無邪気な弟の顔を思い浮かべてしまった。なぜ組織関連を想起させる杯戸中央病院という場所に彼がいたのかは知らないが、つくづく事件に巻き込まれる体質だなと身内ながら呆れてしまう。これじゃ、はたして事件が彼を呼ぶのか、それとも彼が事件を呼んでいるのか。異常なほどの事件遭遇率を思うと、たとえ洞察力の高い姉の目でも、その真相はよくわからない。

 なまえは受け取ったどら焼きの代わりにとばかりに美和子から頼まれていた捜査資料を手渡すと、そうだ、と思い出して一路、事務所のロッカーへと舞い戻る。そして、そこから贈答用にと華やかな化粧箱入りした信州蕎麦を持ってくると、彼女にお土産と称してそれを差し出した。思いがけない話から発展した美和子の調査で、長年忘れていた景光の兄・高明のことを思い出し、彼女がその居場所を突き止めてくれたおかげで先日の長野行きを決められた。つまり、美和子がいなければ、なまえは今も「運命の鍵」を握っていた高明には出会えていなかったわけで、これはそのお礼の意味も兼ねていたのである。

 察しのいい美和子はさっそくそのお土産の意味を理解したようで、とても喜んだ表情を見せてくれた。なまえは一瞬それを嬉しく思ったが、しかし、実際に彼女が歓喜していたポイントは別にあったことを知ると愕然とする。


「嬉しい! だって蕎麦って茹でるだけでいいんだもん!」
「え?」
「さっそく今日の夕飯にしちゃおっと。高木くん、麺類好きだし」


 そう言った彼女が嬉々として蕎麦を抱きしめている光景を見て、なまえは口に出さずに思う。なるほど。今日は高木の家に泊まりということか。


「で。やっと長野に行ってきたんだ? どうだった? 諸伏警部には会えたの?」
「うん、会えたよ。でも、私の知りたかったことは結局何もわからなかった」
「そう……、残念だったわね」


 その話を聞いた美和子は、まるで自分のことのように肩を落とす。そんな心優しい友人のためになまえは必死で笑顔を作りながら、その場でじっと長野での出来事を回想し始めた。

 確かに、景光のことはわからず仕舞いとなってしまったが、このタイミングで高明に出会えたことはなまえにとって非常に大きな意義があった。過去に蓋をする決意ができたことも、このまま赤井とともに生きようと思えたことも。すべては彼が、まるで過去の景光と生き写しみたいに同じ目で笑って、優しく背中を押してくれたから。だから、なまえは以前よりも一歩、確実に前に進むことができたのである。永遠に美しいままの、過去と決別するために。

 でも、それを台無しにしたのは。長野から帰ってきてしばらく経った、燃えるように赤い夕焼けの、あの日。今でも思い出すだけで身がすくむほどの冷たい目をした、もうひとりの友人である降谷にそっくりの安室透。

 彼が壊した。私の決意まで。

 そんななまえの思いつめた表情を不審に思った美和子は、怪訝な顔つきで彼女のことを覗き込んだ。そして、刑事の勘を武器にそのわずかな違和感の隅を突くように、心配そうに尋ねるのである。


「なまえ、なんか顔色悪くない?」
「えっ」
「最近ちゃんと寝られてる?」


 美和子のその発言には、一瞬、言葉に詰まってしまったものの、最近の自分の体調が悪いことははっきりと自覚ができるほど明らかな事実であった。あの日以来、厄介な微熱はずっとこの身に宿っているらしく、毎日、倒れるように眠っても一向に改善の余地は見られない。

 なぜなら、それは心因性のものだとわかっているから。安室によってつけられてしまった心の傷が癒えるまでは、まるで呪いのようにともにあり続けていくしか自分に道はないのだろう。なまえはそう思い、わずかに咳払いをして、またもうっすらと虚栄の笑みを見せながら美和子に言葉を返すのである。


「うん、まあ。ちょっと風邪気味かな。微熱があって、ずっと下がらなくて」
「駄目じゃない、気をつけないと! 病院には行ってみた? 一応、医師免許持ってるんでしょ?」


 そういうの、医者の不養生って言うのよ。当然のごとく病院に行っていないことを見透かした美和子にそう言われたが、なまえは静かに首を横に振った。


「大丈夫だよ。ただの風邪だろうし、ほっといたらそのうち治ると思うから」


 そう。これは結局のところ、薬や注射などの対処療法で治るものではない。時間でしか解決できないことなのだ。やっと消えてしまった左首筋の痕のように、時間をかけてじわじわとこの身から消えていくのを待っているしかない。

 あの燃えるように赤い夕焼けの中で、安室にされたこと。「奪い返す」と告げられた宣戦布告と、バーボンとしての今後の彼の動向。それらすべてを自分で考えないようにしない限り、なまえは永遠に囚われの迷宮の中で彷徨い続けることになるのである。

 しかし、当然そんなことなどまったく知りもしない美和子は、なおも怪訝そうに尋ねた。


「もしかして。長野で変な風邪、もらってきたんじゃないの?」


 真顔で尋ねられたその質問には、いくら活力のないなまえでもさすがにちょっと笑ってしまいそうになった。だって、それはあまりにも的外れだったから。


「いや、風邪をもらったのは長野から帰ってからだよ」
「?」


 美和子は意味がわからないとでも言いたげに、手を上げて事務所へと引き返すなまえの背中をただ頼りなく見つめるだけだった。



case105. 永遠なる迷宮の中で


 バイクで仕事から帰宅したなまえは、いつも通り車庫に愛車を停めてその鍵を引っこ抜いた。手のひらに収まりきるほどの大きさをしたそれには昔からキーホルダーの類はつけていなかったが、最近になって、あの満開の桜が咲き誇る神社で購入した厄除けのお守りを大事につけている自分がいる。それはもともと赤井に渡そうと思ってなまえが買ったものではあったが、彼に「自分の厄はお前に災いが降りかかることだ」と言われて逆に突き返されてしまったことが記憶に新しい。よく考えてみれば、安室と遭遇してしまった日はバイクを修理に出していてこのお守りを持っていなかったので、彼という災いを防ぐことができなかったのかもしれないなと思うと、じくじくと胸が痛んだ。

 しかし、このお守りを持つということは、同時にその安室ともお揃いを持つという意味合いを含んでいることに、当然ながらなまえは気がついていた。あの花見の日。変装した彼であるとはまったく気づかずに、善意から手渡してしまった同じ厄除けのお守り。まあ、向こうはこちらのことを嫌っているようだし、もう既に捨ててしまったのかもしれないけれど。でも、そう思いつつも彼はどこかでまだ持っているのだろうと思ってしまっている理由は、何を隠そう、自分もこのお守りを捨てられていないからであった。

 そんな鍵を握りしめて家に入ると、どこかの部屋から赤井の話し声が聞こえてきた。なまえはその声のする方へと導かれるまま向かい、それがリビングであることを突き止めると、うっすらとドアを開けて顔を覗かせる。すると、そこには赤井ひとりきりで来客はなく、誰かと電話で話をしているようだった。


「ああ、わかった。俺の方も調べてみるよ」


 じゃあ、また。そう言って、ちょうど途切れた何者かとの電話。彼はポケットに携帯電話をしまうとくるりと振り返り、顔を覗かせていたなまえに気づいて笑みを見せる。


「おかえり、なまえ。今日は遅かったな」
「ただいま。電話、大丈夫だった?」


 私が帰ってきたから慌てて切ったんじゃないの? という意味でそう尋ねると、彼はかわすように首を横に振って、彼女を甘く腕の中に招く。その抱擁はまるで「お前の気にするようなことじゃないさ」と言われている気がしてわずかな疎外感も覚えたが、心が薄くなってしまっていた今のなまえには大して興味も湧かず、わざわざ蒸し返して尋ねることはしなかった。


「腹が減ってるだろう? 夕食はどうする?」
「食欲ないから、いい」
「昨日もそう言っていなかったか。最近、お前、ちょっと痩せたろ」


 特にやましい気持ちはなく、赤井は腕の中にいたなまえの腰回りに触れて心配そうにそう言った。せめて、こっそりと夜食にフルーツを食べていたあの頃くらいには戻って欲しい。彼は人知れず、そんなことを願う。

 一方、痩せたと言われたなまえの方はというと、そういえばこのパンツのウエストがちょっとだけ緩くなったかも、とのんびりと思い当たることを口にしていた。赤井はその様子を、目を細めて切なげに眺める。そして、この甘い生活を絶対に逃してやるものかと改めて強く思った。

 その頭で想起するのは、今しがた連絡を受けた江戸川コナンからの電話の内容。

 安室透がなまえの高校時代の友人であるということは、コナンとの見解の一致により、暗黙でふたりの共通認識となっていた。しかし、そのコナンから今日届いた新しい情報は、赤井となまえの仲をより窮地へと追い込むものだったのである。

 安室が「ゼロ」と呼ばれる、日本の公安警察に所属しているかもしれない。コナンから受け取ったのは、そんな何とも苦々しい話であったのだ。

 以前に一度。その可能性を鑑みて一応、調べてみたことはあったのだが、そのときはダミーと思わしき不必要な情報しか出てこず、結局のところ赤井はその正体を掴めずにいた。だが、今回はそのときと状況が少し異なる。詳しく調べてみないことにはまだわからないが、安室が公安から組織に潜入していると考えれば考えるほど、腑に落ちる点は多い。かつて警察官を目指していたというその友人たちに憧れて、なまえが監察医という仕事を選んだという話も。赤井が組織に所属していたときの、バーボンの行動も。そのどれもこれもが、今思えば、思わせぶりな伏線だったように見えてくるのだ。

 赤井は思い出す。数年前、廃ビルの屋上で胸ポケットに入れた携帯電話ごと弾丸で撃ち抜いて死んだ「スコッチ」というコードネームを与えられていたあの男も、確か、公安警察からの潜入捜査官だったということを。元来、彼とバーボンは非常に仲がよく、それは組織内で出会って任務をともに遂行していくうちに馬が合ったからだと赤井は思っていたが、今から考えると、彼が死んだときのバーボンの目は、公安としての仲間を見殺しにされた強い恨みの意が込められていたのかもしれない。

 そして、安室が本当に公安であったとするのなら。その事実をなまえが知ってしまったとき、そのときが自分たちの恋人関係にとって、最も重大な脅威に繋がる地点となるような気がした。状況的には、安室が公安であった方がいいとは思いながら、赤井はずるくも、彼が完全な悪であればいいとも思ってしまう。そのくらい、彼はなまえを手放したくはない。


「なあ、なまえ」
「?」
「これは俺の勘なんだが」


 なまえの顔はきょとんとしていた。赤井はその目を熱の込もった視線で見つめて、切なく告げる。


「この先、俺たちの間には何か深い溝のような亀裂が走る気がする」
「え……?」
「そして、もしそのときがきたら。俺はお前をまた傷つけてしまうかもしれない」


 安室がなまえの友人であり、公安警察だとわかって黙っていることを。そして、その事実を、自分のエゴで隠してしまっていることを。

 まだ確証を得られていない段階とはいえ、赤井には安室が公安かどうかを調べることなど、もはや造作もことになっていた。そのヒントは、以前、なまえの寝言から聞いたことのある「零」という名前。そして、先ほどコナンから聞いたばかりの「ゼロ」という彼のあだな。そのふたつの条件が揃っていれば、因果関係を調べて割り出すことなど実に容易い。だからこそ、それを知ってしまったとき、なまえを失うことに繋がるかもしれないと予感して、らしくもなく恐れてしまうのだ。

 しかし、そんなことなど微塵も知らないなまえはそれを聞いて、珍しく赤井の弱気ともとれる発言に驚いていた。そしてその弱気の意味が、安室に関係することなどとはやはり露ほどとも思わず。ただ今の自分の薄い態度が、逆に赤井に気を使わせてしまった結果なのではないかと思い当たり、途端に気が焦る。

 彼にこんな顔をさせるべきではないということは、なまえにはよくわかっていた。だから、彼女は今さら必死になって嘘で塗り固めるように自らの態度を取り繕い始めるのである。それは自分さえも騙してしまうほどに。


「どうしたの? いきなりそんな弱気なこと言って。全然、秀一らしくないよ?」
「……なまえ?」
「でも、確かに最近、私があんまり元気なかったから。気を使わせちゃってごめんね? 今から超!元気出すからっ! だから、そんなこと言わないで、ね?」


 なまえは長野から帰ってきた直後と何ら違わぬ明るい声色で、赤井にそう言った。その様子は確かに彼の見たかったなまえのようにも一瞬思えるが、突然の反応の蘇りぶりはさすがに違和感しか与えない。だが、当の彼女はその態度を一様に改めることもなく、目に見えて元気いっぱいという雰囲気を醸し出すように自らべらべらと話し続けるのである。


「やっぱりご飯も食べるよ! 夕食のメニュー何だったの? せっかくだから、お揃いのユルリックマのプレートで秀一と一緒に食べたいな。もし、もう済んでたらバーボン一杯分だけでも傍にいてくれたらいいから。私が特別にお酌してあげる!」


 そう言って笑う彼女が、赤井にはもういたたまれない。自分の腕の中からするりと抜け出て、キッチンへと向かおうとするなまえがまるで腫れ物のように思えて手も出せなかった。

 絶対に失いたくはない。だが、自分の中で確かに過ってしまった嫌な予感を、彼はいつまでも拭いきれなかったのだ。

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