106...
青白い月光が雲間から顔を覗かせる美しい夜。こんな日は、やけに感傷的な気分に浸って、つい、いろいろなことを思い出してしまう。毛利探偵事務所のトイレ内で事件があった後、江戸川コナンが犯人に誘拐されたことを機にばったりと彼女に再会したときも。ナイトカップルなんて恥ずかしい名前のチケットを買って、雨上がりに一緒に東都水族館に入ったときも。自分の嘘を真実にするために、潮騒穏やかな浜辺で永遠のようなキスを交わしたときも。どれもこれもわずかに思い出しただけで胸が苦しくなるくらい切なくて、美しい夜の出来事ばかりだった。
今日の安室はバーボンとしてベルモットを伴い、月明かりの下、杯戸公園の傍に停めた自身の車の中で目的の人物が来るのを今か今かと待っていた。カチカチと明滅するハザードランプはこちらの存在を誇張し過ぎてしまうが故につけてはおらず、車のエンジンすら停止させて、まるで暗い闇の中で獲物でも狙うかのようにじっと息を潜めている。そうまでして安室が慎重に待ち続けている人物。それは、彼がこの状況から一発逆転の本塁打を放つために絶対に必要不可欠だと見越していた、とあるひとりの女である。
彼の手元の携帯電話には、煌々と夜闇を切り裂くように一枚の写真が表示されていた。短い髪に、活発そうな顔。目尻の撥ね上がった猫っぽい目と、鮮やかなピンク色のジャケットが似合うその女こそが、今回のキーパーソン。安室はふっと不敵に笑うとその写真から目を離し、代わりにまだ未練がましく愛車のコラムスイッチに引っかけたままにしていた厄除けのお守りに手を伸ばす。あの日、これをくれた工藤なまえなら、もう既に安室の変装を見抜いてしまっていることだろう。そして意図せずお揃いになってしまったことを嫌悪し、容赦なくその記憶ごとお守りを捨ててしまったかもしれない。だが、安室はまるでひとりよがりのようにそれをぎゅっと握りしめて、いるかどうかすら不確かな自分の神様に祈るのだ。
また高校時代のときのような、とびきり愛しい笑顔のなまえに会えますように、と。
「で、ここで誰を待ってるわけ?」
無音無風の車内に嫌気がさしてきたベルモットは、まるで業を煮やしたかのように安室にそう尋ねた。すると彼はうっすらと微笑み、表示させていた携帯電話の写真を彼女にも見せる。
「渋谷夏子。二十八歳。小学校教師」
「……誰よ、それ?」
「僕の依頼人であり、かつ、僕が探し求めている最後のピースを、埋める手助けをしてくれそうな人物ですよ」
そう、彼女こそ。赤井秀一の生死を暴き、工藤なまえを手元に引き戻すための最後のピースを持つ女。安室はその手筈のために、ここで彼女をとある目的から待ち構えていたのだった。
渋谷夏子は、先日、探偵としての安室に対し、ストーカー被害の対策を求めてきた重要な依頼人であった。もちろんそれは偶然などではなく、利用価値があると判断した瞬間から彼女に近づき、探偵だと身分を明かして何か困り事はないかと優しく尋ね、依頼人になるように仕向けた末の結果である。まあ、それを受ける前の段階から彼女にストーカーがいるという話は調査を代行してくれた風見を介して知っていたし、それを逆手に取って渋谷を「踏み台」にする計画は、普段から公安として非道な違法捜査もやってのける降谷になら、まるで悪魔からひそひそと企みを囁かれるかの如くすぐに思いつくことができた。
そのストーカーが、同じ学校の菅本という教諭であるということは早々に掴んでいたものの、安室は今も、あえてそれを彼女に告げることはしていなかった。なぜなら、彼にとってはストーカー問題を解決することが目的なのではなく、渋谷を使って、その友人から情報を引き出すことが目的だから。彼女がアメリカ留学中に友人関係になったという、FBI捜査官・ジョディ・スターリング。花見会場で接触したあのアメリカ人の女と、その周辺にいる無能なFBI捜査官から、赤井秀一の生存に繋がると思われる情報……特に楠田陸道の話を聞き出すこと。それが安室の真の目的であり、そのためにわざわざ今回、変装の名手であるベルモットを伴っていたのである。
「だから何なのよ、そのピースって」
一方のベルモットは、安室の勿体つけるような態度を鬱陶しがって珍しく噛みつくみたいにそう言った。しかし、それでも彼はまだ口を割らない。今日のところは計画の前哨戦として、渋谷のことを紹介するためにベルモットをこの場へ誘ったのではあるが、その説明をするのはまた後でいいだろう。
だが、そのときのことであった。突然、どさりとした不審な音が聞こえてきて、車内にいたふたりは瞬時に顔を見合わせて何事かと訝しむ。そして、反射的にその周辺を見渡すと、杯戸公園に繋がる階段の上から何かが落ちてきたらしく、最下層の路上では比較的大きなものが、まるで死んだようにそこに横たわっていた。
それはどう見ても人影。血を流した人間の姿である。
「今、誰かが階段から……」
ベルモットがそう言うと、安室は助手席側の窓に手をついてとっさに階段の上を見上げた。そこには人型のシルエットが慌てて走り去って行く姿が見え、彼は一瞬、渋谷のことも忘れて弾かれるように車を降りる。当然、ベルモットも何か不測の事件があったことは察していて、巻き込まれるのはごめんだとばかりに、安室を止めにいくために車を降りて彼の元へと急いで駆け寄った。
「ちょっと行くわよ。こんなことで人目を引くわけには……」
しかし、ベルモットはその倒れ込んだ人物の顔を見て、はっと息を飲む。
「この女……」
そこに倒れていたのは、ちょうど、彼女が安室から写真を見せられたばかりの人物。名は確か、渋谷夏子。その人であったのである。
「ええ、どうやらパズルは完成しそうですよ」
安室は自分が手出しをせずとも、彼女が何らかの事件に巻き込まれてしまったことを嬉々としてベルモットに語った。そして、新たな記憶として焼きつくほど美しい夜空を見上げる。
どうやら、月はこちらに味方をしているらしい。

case106. 最後のピース
穏やかな東都監察医務院での、昼。今日は緊急を要する解剖も入っていなかったので、なまえは職員や他の監察医とともに揃って昼休憩を取り、昼食である栄養補助食品をもそもそと冬支度のリスのように食べていた。本当は相変わらず食欲もないし胃に何かを入れる気分ではないが、これは最低限死なないように惰性で栄養を摂る行為にしかすぎない。もし休憩時間にひとりであれば、サプリメントで簡単に済ませてしまうところでもある。まあ、さすがにそれだと不審がる人の目もあるので、こうした多人数での食事の際は妥協して食べることを一緒に楽しんでいるように装うだけだった。
そう、人の目。なまえは近頃、それを異様に気にしている。
赤井が珍しく弱気なことを言ったあの夜から、自分が無理矢理にでも食べなければ彼が心配するのではないかと強迫的に思い、なまえは毎晩、必死に笑顔を貼りつけて彼と食事を楽しんでいる、ふりをしている。ふり、というと聞こえは悪いが、今の彼女にはそうした虚栄で自分の心のバランスを保つしかなす術がないように感じていたのだった。一向に下がらない微熱も、改善しない体調も。すべてはこの欺瞞が、いつか何もかもを覆い隠してくれる日がくると信じて。毎日、その顔に頼りない笑みを灯し続けているのである。
しかし、その件については日頃からあんなに目ざとそうな赤井であるはずなのに、彼はあの日を境に、恐ろしいほどの沈黙を保ち続け、なまえに対してその態度の違和感を指摘してくるようなことはなかった。もはや彼がその虚栄に気づいているかどうかすらもわからないほどで、なまえはそれを都合よくも思ったし、同時に居心地悪くも思う。「この先、俺たちの間には何か深い溝のような亀裂が走る気がする」という、不穏な彼の予感。それが一体、何を予期しての言葉だったのか。なまえは今もずっと、安室のことと一緒に出せない答えを考え続けている。
休憩室のテレビでは、ごちゃごちゃと下世話に騒がしい昼間のワイドショー番組が映っていた。トップニュースとして取りざたされるのは、当然、映画ファンのみならず今年は日本人がこぞって注目している「マカデミー賞」の話題である。
「ついにですね、マカデミー賞の発表!」
「工藤くんは確か休むんだったよな?」
「ええ! 当日はオンタイムで父の勇姿が見たいので」
「あはは、いい娘! ま、最有力候補だって言われてるし本当に取ると思うなあ。世界的大作家、工藤優作が初めて手がけた映画の脚本なわけだし」
テレビの中も含めて一緒にいた同僚たちもざわざわと優作の話をするのを、なまえはとても誇らしく思いながら聞いていた。血は繋がっていないが、母の有希子、弟の新一とともに優作は世界で最も大好きな人のひとりで。そして、誰にも話したことはないが、きっと自分が人生で一番最初に心を開けた人物だと思う。孤児院の図書室で初めて会ったとき「お父さんになりにきたんだよ」という発言にはびっくりしたけれど、運命とはこういうことを言うのだと、そのとき彼に本気で教わったような気がした。優作がいなければ、今の自分はここにはいない。
そんな淡い記憶ごと思い出してかすかに笑っているうちに、所長がなまえの方を見て、気がついたように声をかける。
「そういえば、工藤くん。休暇を取った後、しばらく経ってからは雰囲気が随分、暗いように見えたけど。最近はまた少し明るくなったね」
「えっ」
「人間、明るい方がいいよ。特に我々のような職種は」
所長は本気でそう思っているらしく、まるで安堵しているようににこにことしてみせた。なまえはとっさに目線を下げて、顔ごと伏せる。彼には照れていると見えたことだろう。でも、本当はそうじゃない。
なまえはそう言われて、内心、まったく違うことを考えていたのだ。自分は周りもきちんと騙せてるんだ、と。こんな、死んだような笑顔で。
そう思うと、彼女はいたたまれなくなって。だから、いっそうわざと明るい笑顔を作って「ありがとうございます!」と清々しいまでに微笑みを返した。散々食い散らかしたようにトークテーマにされた優作の話は、番組が次の話題に移ったことによりぴたりと消える。
「続いてのニュースです。昨夜未明、東京都杯戸町にある杯戸公園の階段から女性が何者かによって突き落とされるという事件が発生しました。女性は近くの小学校に勤める小学校教諭、渋谷夏子さん、二十八歳。渋谷さんは全身を強く打ち、現在も意識不明の重体です。警察では殺人未遂の容疑で捜査を進めており……」
物騒だね、と誰かが言った。なまえは特にその事件のことを気にも留めず、食べていた栄養補助食品を半分以上残してパッケージごと白衣のポケットにしまう。そして「ちょっと一件、電話してきまーす」と軽く言い、席を立って、裏口から抜け出した。
もちろんかけるのは旧友。それも降谷にかける自信はないから、景光の番号にだけ。
どうしても、今すぐに彼に話を聞いて欲しかった。この行き場のない思いを受け止めて優しく肩を貸してくれるのは、今のところ、景光しかなまえには思いつかなくて。けれど、その番号へ発信しても、やはり聞こえてくるのは無情なフレーズのみ。
おかけになった電話番号は、現在使われておりません。突き放すように流れるだけの機械的なアナウンスを本当かどうか確かめるみたいに、何度も。何度も。休憩時間が終わるまで、なまえは何度もかけ続けた。狂ったように発信ボタンを押すその横顔は、決して、明るいものなどではない。