107...


「ただいまー! はあーっ、お腹すいたー!」

 努めて明るい声色でそう言ったなまえを何ら疑う様子もなく、おかえりと今日は沖矢の姿のままで、赤井は愛しい恋人を優しく抱きしめるみたいに出迎えた。わっ、今日は昴くん特製のカレーかな? なんて。スパイスの香りから無邪気な推理を披露してみせると、彼もうっすらと微笑みながら、ええ、と何とも紳士的な返事をしてくれる。聞けばどうやら既に阿笠邸にもお裾分けに行ったらしく、なまえは灰原や子どもたちの様子を気にかけて饒舌に彼に話をしながら、空腹を装ってそのまま一緒にダイニングへと入っていった。

 それにしても、なんてひどいくらい平和な時間なのだろう。目眩さえする。なまえは内心そんなことを思い、その実、彼に隠れてずきずきと猛烈に痛み続ける頭を必死になってもたげていた。

 一見してふたりは和やかなムードではあったが、なまえは正直、ここ最近で最もきついと感じるほどの自身の体調の悪さに気がついていた。それでも、懸命に笑顔を作ることは絶やさず、鞄を無造作にキッチンのカウンターの上に置いて炊事場で手を綺麗に洗い流しながら、食事はいつも通りきちんと食べようとまるで覚悟でも決めるみたいに心の中で思う。そして、赤井と適当な会話をしつつお揃いのプレートで配膳を手伝い、向かい合わせで座る頃にはもうしっかりと気持ちの持ち直しができていて。結局、持つべきものは根性だなと体育会系でもないくせにそう思っている自分が呆れるほど馬鹿に思えて、つい変な自嘲が漏れ出した。今日の昼休憩の際、所長に褒められた笑顔のこともあって、人を騙すことに自信がついていたというのも一理としてある。だから、そんな太鼓判を押された笑みをなまえは堂々と浮かべて、体調不良を隠しながら彼に「いつも通り」を送り届けるようにその態度を取り繕い続けるのだ。


「じゃあ、遠慮なく。いっただきまーす! わー、美味しそう!」


 手を重ねて祈り、スプーンに持ち替えて早々に口に運ぶ。本当は味もよくわからない。それでも、彼を安心させるために何度も「美味しい」と繰り返して、なまえは赤井をたくさん褒めちぎった。それから、楽しい会話としてすぐ引き合いに出したのは、例のマカデミー賞のこと。おそらくその発表は、この工藤家にとっても、そして日本の映画史にとっても、最高に歴史的な一日となることだろう。昼間、ワイドショーでテロップが出ていたそんな文言を引用しながら優作の話をし、なまえはカレーを食べながら『緋色の捜査官』という映画について知っていることを彼に話してみせる。一貫してべらべらと、らしくもなく。ずっと、ひとりよがりに。

 赤井はなまえがその話をしている間中、尋ねられたことを受動的に答える以外は一言も口を挟まなかった。ただ頷いて、時折、相槌。合間で見せるのはわずかな微笑みくらいだが、その笑みも少なくなってきたなと感じたなまえは途端に恐怖と危機感を覚え、何とか彼を笑わせようと頭の中をひっくり返してでも工藤家にまつわる愉快な話題を必死になって探してしまう。しかし、その必死さが仇となったのかもしれない。

 なぜなら、彼が思わぬ反応を見せたのはそのあとすぐのことだったからだ。

 赤井はスプーンを机の上に置いて、突然、なまえに言い放ったのだ。まるでこちらを容赦なく撃ち抜くみたいな、鋭い言葉で。


「もういい」
「え……?」
「取り繕うのはもうやめろ。見ていられない」


 そう言われた瞬間、今まで起こった様々な出来事がぐるぐると駆け巡ってしまい、なまえは電池が切れた玩具のように途端に何も考えられなくなってしまった。見ていられない。その言葉が、彼女の痛々しい態度を指しているということは一目瞭然で、やはり彼は最初から気がついていたのだと思い知る。それも当然か。ここ最近の自分は永遠に空回りしっぱなしで。心に降り積もる、虚しさしか溜めていないのだから。

 さすがに涙はもう出なかった。でも、自分の目の奥がとても冷えていくのがわかる。なまえは持っていた食器を静かに置いて呆然とし、安室に再会した日とまったく同じようにテーブルの中央を光のない目で見つめてしばらくじっと座っていた。そして、絞り出すように紡ぐのは。なぜか今になってよぎってしまった、景光との思い出。


「……昔、友達が私に聞いてくれたんです。『死んだ人間を見るなんて怖くないのか?』って」
「……」
「別に怖くはなかったんですけど、そのときはまだ私も医学生でちゃんとその質問に答えることができなくて。即答できなかったことが肯定の意として捉えられたのかも知れませんが、そのとき彼は優しくこう言ってくれたんです。『怖いときは怖がればいいし、泣きたいときは泣けばいいんだよ』って。『なまえはそういうの、下手なんだから』って」
「……」


 自分でも、突然なぜそんな話を始めてしまったのかはよくわからなかった。ただ、赤井にそのことを聞いて欲しくて。ごちゃごちゃになった自分の感情を整理するように、思いついた言葉をつらつらとその口元から滑らせていく。

 それはなまえが一時帰国をした際、三人で成人したことを祝って初めて揃って行った個室居酒屋でのことだった。降谷がトイレに立った隙に、蕩けたような表情を浮かべた景光がそう言って、からかうみたいにふにゃりと笑って。でも、そうやって真摯に気遣ってくれる彼の言葉がまるで染み入るように胸の深いところまで入って来るので、優しい彼に「本当に怖くないんだな?」とまるで念を押すかのごとく問いかけられると、なまえは結局、何も言い返すことができなくなってしまった。

 今、思えば、自分はその質問に何でもいいから答えて彼を安心させるべきだったのかもしれない。嘘でもいいから「やっぱり怖い」と泣きついて、遠慮なくその肩を貸してもらえばよかったのかもしれない。でも、なぜだかもうすべてが遅いと思ってしまう。ヒロと零が生きている世界。高校のときのように三人でいつまでも一緒に笑っている世界。それがもう、一生来ないような不安が六年前からずっと無慈悲にも背後につきまとってくるのだ。毎日、毎日。飽きもせず。


「でもね、私。どうすれば自分がそんなに素直になれるのか、大切な友人たちを失っても未だによくわからないんです。本当は怖くもないし、泣きたくもないはずなのに。笑っていたいから、多少無理してでもそうしているだけなのに。ここ最近は、その笑顔がずっと自分を粉々にすり減らしていくだけのように感じてならなくて、心がいつまでも空っぽのままで生きてるみたいな」
「なまえ……」
「ごめんなさい。ちょっとひとりにして」


 なまえはそう言うと、一滴も涙もこぼさずに無表情で部屋から出て行った。彼は追えない。空っぽの彼女に、自分では何も与えてやれないことがただただ歯がゆくて、ひたすら悔やんでいたからだ。



case107. 降り積もる虚しさと空っぽの心


 冷めてしまった料理をもう食べる気にはならず、赤井はその皿を下げてキッチンのカウンターに腰掛けると、代わりにロックグラスに真円の氷とバーボンを入れた。以前のように追いかけて籠城した彼女の部屋に立ち入り、この胸にきつく抱きしめてやることも、その頭では何度だって考えた。けれど、結局そうしなかったのは、あまりの自分の不甲斐なさと、「ひとりにして」というここ最近では見られなかった本心からの彼女の願いを尊重したいと思ったから。赤井は今しがた見たばかりの心を空っぽにした彼女の横顔を思い出し、苦々しさを感じながら呷るようにバーボンに口をつける。

 ここ最近のなまえの異変は、当然、彼には最初からすべてお見通しだった。痛々しい笑顔で懸命に自分に話しかけてくれる様子を見て、守りたいと思うと同時に、曲がりなりにも恋人であるはずの自分に対してまで虚勢を張り続けていることを寂しいとも思った。自分にだけは本心を見せて欲しかった。嫌いになんてなれるわけがないから、抱く必要のない虚栄心など捨て去って、すべてをさらけ出して欲しかったのだ。まあ、結局はそれを彼女から引き出せなかったことが、自分の不甲斐なさを物語る要因になってしまっていることを赤井は今も心苦しく思うばかりである。

 あのボウヤにも「なまえのことを頼む」と懇願されるように言われていたのに。らしくもなく焦って、傷つけてしまった。

 繊細なカッティンググラスの中で琥珀色の海をくるくると泳ぐ氷を眺めながら、先ほどなまえがしてくれた彼女の友人の話を思い出す。確証はないが、以前組織の仲間としてともに従事していたバーボンという人物が、彼女にそれを言ったとはどうも赤井には思えなかった。もしも彼が最初からそれだけ素直になまえに寄り添えていたとしたら、今になって安室透などという偽名を使って彼女の前に現れてはいないだろう。故に、赤井はそれをなまえに言った人物が、もうひとりの友人の方だと半ば確信的に察する。そして、その人物と自分の考えが近いことを受けて、名の知らぬ彼もまた、彼女の見栄っ張りな性格に相当な手を焼いていたのだろうなと思えた。

 赤井はもう既にコナンからのリークで、安室透という人物がゼロと呼ばれる日本の公安警察に所属する「降谷零」であるという事実をその手に掴んでいた。それは「零」と寝言で口にした彼女の言葉とともに、彼らが友人関係であったことを指し示す証拠にもなるだろう。あとは、その情報をいつ奴にふっかけて牽制するか頃合いを見計らうだけだが、おそらくその好機が近いということは予感的にわかっていた。そしてそれが、なまえと自分を別つ可能性を孕んでいるということも彼は同時に十分すぎるほど理解している。

 赤井はもちろん、安室から亀裂として深い溝を与えられたとしても絶対に彼女を手放すつもりなどなかった。だが、カウンターの上に置き去りになったままのなまえの鞄が、意図せずその運命を傾かせ始める。

 鞄の外ポケットには、雨の日だけ彼女が用いている通勤定期入りの青いパスケースが入っていた。今日の降水確率は零パーセントで雨天とは程遠かったはずなのに、なぜ彼女はこれを持って出かけたのだろう。入れっぱなしにしていたと言われてしまえばそれまでだが、なぜだかやけに気になって。つい職業病的に訝しんでいると、赤井はその隙間に何か紙のようなものが挟まってることに気がつく。今まで同居している関係上、そのパスケースを何度も見かけたことはあったが、そんなものが挟まっているところは未だかつて見たことがなかった。

 とっさに、なぜかそれを見るべきではないと思った。しかし、赤井は自分をも殺してしまうかもしれない強い好奇心に抗うことができず、いけないことと思いながらも、それに手を伸ばしてしまう。まるで悪魔の誘いとして運命のいたずらに導かれてしまうかのように。

 それは、どうやら一枚の写真らしかった。綺麗に折りたたまれているそれを暴くように開いていくと、そこに写っていたのは。


「……っ!」


 その写真は、あまりにも美しすぎる思い出をふいに切り取ったかのような、学生らしい青春の甘酸っぱさが色濃く写ったものであった。なまえの高校時代の写真。制服を着た今よりも少し幼い彼女が、両脇の男子生徒に優しく見守られながら中央で困ったように笑っている。まさしく三人の仲睦まじい距離感をたった一枚で集約してしまうほど素晴らしい写真であり、それを見れば何の説明も受けていなくとも、彼らがなまえと音信不通になっている友人たちであるということは瞭然たる事実であった。

 実はなまえは長野に出向いたとき、一緒に食事をした高明との別れ際、彼から「景光に出会ったら君からこれを返してくれないか」という依頼とともに、その写真を受け取っていたのであった。自分のものはアルバム自体見つからないこともあり、彼女は懐かしさからその写真をパスケースの中にしまって肌身離さず大切に持ち歩いていたのである。彼らの安否を祈るための願掛けにも似た思いで。

 世界にたった三枚しかないというその写真。卒業式の日にそのあまりの眩しさから高明が思わず撮影をし、その後、現像した景光が兄以外の誰にも見せずに大切に警察手帳にしまっていた、幸せだった頃の三人の姿。

 赤井はその写真をずっと見たかったはずなのに、らしくもなくそれを見るなり我を忘れるほど絶句してしまっていた。その理由は、右側で愛しそうに彼女を見つめる降谷零にではない。驚いたのは、左側でほがらかに笑っていた黒髪の少年の方。その人物が、たとえ横顔だけでもはっきりと誰かを判別できるほど自分に見覚えがあるとは、赤井は夢にも思っていなかったのだ。


「……この、男は」


 空虚にそう呟いた瞬間、またも切り裂くようにテーブルの上に置いていた彼の携帯電話がけたたましく鳴り響く。その相手は江戸川コナン。渋谷夏子の事件を解決した後、思わぬ窮地に陥ってしまった状況を説明するために急いで赤井に連絡を入れてきたのだった。

 緋色の真相がついに暴かれるときがきた合図として。

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