108...
コナンは電話口で詳しい状況を説明することもなく、今からそっちに向かうからなまえとともに自分の話を聞いて欲しい、と余裕なく赤井に言ったかと思うと、荒々しく一方的にその電話を切った。その様子から察するに、以前、彼がアルバムの話をするために赤井を呼び出したとき以上の何かが自分たちの身の周りで起こったと見て、まず間違いないだろう。そして、それがおそらくバーボン絡みの事案であるということも赤井には悠に想像がついていて、とうとう迎え撃つべき日が、しかもこのタイミングで来てしまったかと思うと途端に忌々しく運命というものを呪った。赤井、安室、そしてなまえ。この三人のうち最後に笑うのは、どうか自分と彼女だけでありたい。
今、赤井の手元にある真実のパズルは誰よりも先にすべて完成していた。安室透という偽名を使って、突如、目の前に現れたバーボン。彼が本当は日本の公安警察に所属する降谷零という人物で、その身分を隠して五年ほど前から組織に潜入しているということ。また、彼はなまえの高校時代の友人のひとりで、その想いは多少歪んでいるとはいえ、当時から並々ならぬ執着心を持って一途に彼女を愛しているということ。そして、彼女の大切なもうひとりの友人が、同じく公安から組織に潜入していた「スコッチ」という男だったということ。
彼の自殺を、赤井が止められなかったということ。
赤井はとっさに「ライ」としての顔をしていた頃のことを思い出す。スコッチ、バーボン、ライは揃って命じられる任務が多く、三人でともに行動することはもはや日常茶飯事であった。もともと冷徹で皮肉屋だったバーボンとは何かと対立することも頻発し、後に大きな確執も生んでしまうほどであったが、そんな中、スコッチはふたりの間で上手く仲裁役に立ち回り、バーボンとライの衝突を避ける緩衝材としての役割を果たすことがよくあった。こんなことを組織の人間に対して使う言葉ではないとは思いながらも、赤井はその当時から彼のことを「随分と人当たりがいい奴だな」とあまり嫌いには思っていなかった。しかし、その優しさが彼の首を締める引き金となり、NOCだとバレたスコッチは胸ポケットにしまっていた自身の情報に繋がる携帯電話ごと撃ち抜いて廃ビルの屋上で生き絶えた。今から思えば、そんな彼の性格はなまえがよく話して聞かせてくれた友人像とも一致する。
先ほど見てしまった写真の中で。スコッチになる前の年若い彼がやはりその時分から他の誰よりも周りに気を配り、優しい表情を向けていたことが、赤井には強烈な印象として焼け残る。孤独に怯えるなまえのためにも、どうか今も彼が生きていて欲しかった。
ともかく、今は江戸川コナンの指示通り、まずは彼の話を聞くための準備を整えるとしよう。赤井はそう思い直し、彼女が引っ込んでしまったと思われる二階の部屋まで行ってその扉を遠慮がちにノックした。
「なまえ。そこにいるよな?」
「……」
「今からあのボウヤがここに来るらしい。お前にも同席して聞いて欲しい話があるそうだが、出られそうか」
その言葉にはもちろん「泣いていないか」という意味が含まれていた。ダイニングを出る際はその頬に流れていなかった涙も、ひとりになった途端、決壊するように溢れてくることもあるだろう。彼女の見栄っ張りな性格を知っていれば、そう推理立てて考えた方がおかしくはない。
そうして、しばらくは耳が痛いくらいの沈黙が続いていた。しかし、やや間を置いてからその扉がうっすらと開き、そこから依然として心が空っぽになったままの無表情の彼女が顔を覗かせる。その頬は濡れてもいないし、目も赤くはない。赤井は多少、そのことに安堵していた。
「コナンくんが来るって、何かあったんですか?」
「ああ。どうやらそうらしい」
「わかりました。すぐリビングに降りますから、下でちょっと待って……」
そう言って、一度ドアを閉めようとするので。赤井はとっさにその隙間に足を入れて、彼女を逃さないようその細腕を捕まえる。
「その前に」
「え?」
「さっきはすまなかった。少々、大人気なかった」
赤井からの突然の謝罪は、さすがのなまえも驚いているようであった。実は、彼は部屋をノックする前から、許してくれるかどうかは自信がないながらも素直に謝ることだけは心に決めていたのである。見ていられないと発言して、深く傷つけてしまったこと。彼女の一連の痛々しい行動は何もかもお見通しだった自分には裏目だったとはいえ、一応はこちらを気にしての虚勢。なまえなりの懸命な処世術だったというのに。それをわかっていて、あまりに本心を見せてくれないことに業を煮やして一蹴してしまった自分に、大きな非があることはわかっていた。
なら、素直に謝った方がいいに決まっている。何もかも、取り返しがつかなくなる前に。
するとなまえは決してもう取り繕わず、本心から疲れたような顔をしてちょっとだけ笑ってくれた。そして、腕を掴まえた赤井の手に自分のもう片方の手を添えて、穏やかに払うように離れる。しかし、それは冷たい拒絶の意味ではなく、離れ際、手だけは恋人であることをまだ証明してくれるみたいに彼女の方から甘く繋いでくれたから赤井は少し驚いた。
「気にしてないといえば嘘になりますけど、私の方も、秀一に素顔をさらけ出せなかったことは悪かったなと思っていたので」
「……」
「だから、おあいこですね?」
そう言って、許してくれた彼女のことが堪らなく愛しくて。赤井は繋がれた手を引いてその華奢な体を抱きしめると、まるでその身に体温を刻みつけるように腕に込める力を強めた。わかるか? こんなにも、焦がれるくらいお前のことを愛しているということが。この手を離したくない。永遠に俺のものであり続けてくれればいい。そうしたら、持てる限りの愛でその空っぽになった心を埋めてやる。もういいよと呆れて笑われるくらい甘く、溺れるほどに。
けれど、残酷なことにその時間は有限だった。工藤邸に鳴り響いたチャイムを皮切りに赤井はなまえから離れると、そのまま彼女の手を引いて歩き出す。
「きっとあのボウヤだ。行こう」
「はい」
最後に笑うのは、一体、誰なのだろうか。
case108. 終焉に向けて
今日は身内ではなく、あくまで客としてコナンを出迎えるかのように、なまえは来客用のティーセットを取り出して三つ分の紅茶を注ぐと、赤井と横並びでリビングのソファに腰掛けた。そして、自分のカップにまるで目印のごとくレモンを浮かべ、その波面に映る自分の顔をじっと見つめて普段通りだと安堵する。でないと、コナンが来てから一気に変わってしまったこの緊張感がこちらにまで移ってしまいそうで。姉として、彼の話を聞く前から何でもないと笑ってやることで弟を安心させることぐらいしか今はできることがなかった。
こんな夜遅くにひとりで工藤邸にやって来たコナンの顔に、大きな焦りが浮かんでいることは確かだった。伊達に十七年間、彼の姉をやっていないし、たとえそこに血の繋がりはないにしても、彼がどれほどの危機感を持ってここに来たのかなんてその顔を見れば一目瞭然。そして、その話の内容も、もう大筋は読めている。
そもそも赤井だけではなく、なまえにまで話があるという時点から、彼女はわずかな不自然さを感じていた。一般人である姉をなるべく巻き込まないようにコナンは彼女に必要最低限しか組織の話をしなかったし、少し前も赤井を呼び出してふたりで何かをこそこそ話し合っていたはず。故に、なまえは赤井の思惑同様、今からコナンがしようとしている話がバーボンのことなのだろうとあらかじめ見当をつけていて、そして彼にまつわるどんな話が来ても決して動揺しないよう、気持ちを落ち着かせるために紅茶を一口含んでみせる。悪い予感が、当たらなければいいけれど。
緊張を移すほどの長い沈黙の後。案の定、コナンの口から一言目に出たのは「バーボン」という単語であった。なまえも赤井も途端にぴたりと動きを止めて、まるで覚悟を決めるようにその話に耳を傾ける。
「バーボンに……来葉峠での赤井さんの死体すり替えトリックがバレたと思う」
それは誰もが最も危惧していたことでもあり、なまえと赤井にとっては、半ばそうかもしれないという可能性を察して予感していたことでもあった。コナンはそうなるに至った経緯を詳しくふたりに説明する。
始まりは、昨夜。杯戸公園の階段から渋谷夏子というひとりの小学校教諭が突き落とされたことが話の基点となる。彼女はもともとFBI捜査官であるジョディの友人であり、そして、探偵としての安室透にとっては毎夜つきまとわれているストーカー被害を相談していた依頼人でもあった。その事件自体は組織とは無関係なところで起こったものではあったが、犯人を絞り込む際、渋谷に雇われた探偵として平然と顔を出したバーボンは、捜査に協力していたジョディと、彼女とともに行動していたアンドレ・キャメル捜査官に対して、彼らの神経をあえて逆撫るかのごとく挑発の言葉を連発。そして事件解決後、渋谷の容体が急変したという連絡を受けて病室に急行したジョディとコナンは、病院の一階ロビーにて安室を始めとした組織の人間に強く苛立っていたキャメルを単独で待たせてしまう。それが、奴らの狙いとも知らずに。
結局、渋谷の容態が急変したという話は嘘。そのことに気づいて戻ったときには、キャメルが偽のジョディに安心しきって情報を漏らしてしまった後だった。彼女に変装していたのがベルモットとも知らずに。
流してしまった重大な情報はたったひとつ。楠田陸道が、拳銃自殺したことである。
「その話をベルモットから聞いたバーボンなら、来葉峠での死体のすり替えトリックに楠田って人の死体を使ったことを瞬時に見抜いたと思ってまず間違いはないよ。そして、同時期に突然現れた沖矢昴が赤井さんだということに見当をつけて、すぐにでもここに乗り込んで来る可能性がある……」
そこまで言い切ると、コナンはずっと見せていた怖い顔を一挙に緩めてなまえの方に向き直る。そして急に怖いくらい穏やかな顔つきに変えて、姉に優しく尋ねるのだ。
「ところで、なまえ姉ちゃんは明日お休みなの?」
弟のあまりの変貌ぶりに些か面食らってしまったなまえであったが、ともあれ彼女は難なくその質問の返事をする。
「ええ。マカデミー賞が見たいと思って有給に……」
「じゃあ、今からもう一歩もこの家からは出ないで」
「え……?」
「バーボンが……組織の人間が、なまえ姉ちゃんを人質に取って何かを仕掛けてくるかもしれないから……!」
きっぱりとそう言い切ったコナンの顔は、再び鬼気迫る表情をしていた。いや、その目にはわずかに恐怖を抱いていると見てもいいだろう。彼は大切な姉が組織と関わることを絶対に良しとはしない。なるべく暗い闇とはほど遠い、優しい世界で生きていて欲しい。そんなことを願っているからだ。
すると、隣から同調の声が飛ぶ。
「同感だな。相手はあのバーボン。それも、向こうはベルツリー急行で自分が組織の一員であることをこちら側に明かしてしまい、もはや何も失うものもない。ここへ乗り込んで来るとすれば、おそらく捨て身の覚悟で来るに決まっている。奴の探り屋的な性格から、俺の弱点がなまえであることは既にわかっているだろうし、なまえを拉致して俺に尋問を仕掛けるなんてすぐに思いつきそうなことだ」
「そんな……」
なまえはその話を信じられないといった様子で聞いていた。いや、けれど。あの目をした安室ならやりかねない。信じたくはないけれど、完全に敵意を剥き出しにした、あの目なら。
そんななまえの気持ちの揺れに、当然、赤井は隣でいち早く気がついていた。体が少し震えているようで、肩が触れ合っているにもかかわらず、それを気にする余裕もないらしい。まあそれも、泣くほど恐怖心を植えつけるようなことを安室にされてしまった彼女なら無理もないだろう。本来、なまえをここまで深く組織との対決に巻き込んでしまったことは赤井にとっても大きな誤算である。
故に、彼はなまえを安心させるためにとびきり優しい笑顔を向けて励ますように言った。彼女のことは是が非でも守る。そのときが来るまで。
「心配するな、あくまで最悪のケースさ。それに、お前がこの家にいる限りは俺の手の届く領域として奴に手出しはさせはない。問題はないよ」
それにはコナンも頷いた。安室がこの家に乗り込んで来たところで、なまえに会わせるわけにはいかないという思いは同じだったからである。
「奴はひとりでここに乗り込んで来る気だろう。ベルツリー急行で組織の裏切り者であるあの茶髪の彼女を殺さずに捕まえようとしていたところを見ると、おそらくバーボンは彼女を生け捕りにすることで組織の中でより上層部に上り詰めるための布石としたかったから。しかし、その思惑が外れたことで、今回も同じように俺を捕らえて手柄を上げるつもりだろうからな。……まあ、俺の生死に限って言えば、あの茶髪の彼女とは違って問わないつもりだろうが」
「……」
「で?」
突然、赤井はずずいと前のめりになり、小さな探偵に微笑みかける。
「ここにボウヤが来たということは何かとっておきの策があるんだろう? さっそく聞かせてくれないか? 血に飢えた狼を、返り討ちにする方法を」
なまえにはその様子が、まるで面白がっているように見えた。それに、策と言われても。これまで聞いた話から複合的に考えて、この状況はどう考えてもこちらに不利に回っている。ここから窮地を脱するのは、いくら弟の頭脳を持ってしても至難の技だろう。
しかし、コナンはあろうことか笑い返したのだ。それも同じく、まるで面白がっているように。
「……作戦ならあるよ。ひとつだけ」
「!」
時間が惜しいから、もう配役は手配済みなんだけどね。そう言って、彼は子どもらしい表情で一息つく。配役? 手配済み? どういうことだろう、となまえが尋ねる前にコナンはその作戦についてゆっくりと口を開いた。
「いい? 僕の計画はこうだよ……」