109...
「ハーイ、完成ねっ!」
バーボンとの大事な決戦前だというのに、語尾にハートマークでもついているのではないかと疑うくらい能天気な言葉がリビング上空を飛んでいく。その甘ったるい声の主は、かつて日本中にその名を轟かせた大女優、工藤有希子。紛うことなき、なまえと新一の母である。
そして、そんな彼女に「完成」と言われた瞬間、その手で不思議そうに頬を撫でながら鏡の中の自分をまるで逐一確認するようにまじまじと覗き込むのはご存知の通り沖矢昴……ではなく、彼の変装を施された工藤優作。こちらも紛うことなき、なまえと新一の父であった。
「ほう、なかなか上手いじゃないか!」
「そう? きっとシュウちゃんで慣れちゃったのね!」
「恐縮です」
「シュウちゃん……?」
そう言って、娘の恋人を娘よりも親しげなあだなで呼ぶ母に、なまえは心底呆れたような顔をして眉根を寄せた。毎週一回、赤井の変装をチェックするためになまえ不在中もこの工藤邸に頻繁に訪れていた有希子ではあるが、あまりに親しすぎてふたりを見ていると逆に複雑な気持ちになってくる。さすがに母に嫉妬しているというわけではないものの、なまえですら未だに赤井に対して敬語になることもしばしばあるというのに、この差は一体、何なのだろうかと。おそらく有希子のパーソナルスペースは常人よりも圧倒的に狭い作りになっているのだと合点して、いつものことながらまるで異星人でも相手にしているような気になってしまい、しつこいほど長引く風邪のせいもあってなまえは頭が痛かった。
そんな彼女はさておき。一応、これが初対面でもある赤井と優作はというと、特に赤井の方が世界的大作家に敬意を表して一線を画しているようにも見えたが、当の優作はそのことにあまり頓着はしていない様子であった。しかし、なまえは有希子が以前話していた通り、優作もまた、なまえと赤井の交際を推奨しているらしいということを聞いていたので、些かそのことも気にかかってしまう。ねえ、父さん。本当にそう思ってる? と。バーボンとの大事な決戦前だというのに、ここは母譲りの能天気さを真似てそう尋ねてみたいくらいだったのだが、やはりどう考えても聞けず。そこまで優作の反応が気になるとは、自分は思った以上にファザコンなのかもしれないと思えてなまえはわずかにショックだった。そういえば、この家に久しぶりに彼が帰って来た瞬間、本当は年甲斐もなく飛びつきたいほど嬉しかったのも、ファザコンに磨きをかけている要素のひとつのような気がする。
ともあれ、優作が最優秀脚本賞を取ったら、一度、家族水入らずでお祝いをしようという計画をひそやかに立てていたはずだったのに。
「まさか、マカデミー賞よりも先に家族みんなが揃うなんて……」
「ホント。前祝いって感じよね!」
「頑張ってね、母さん。父さんの代わりなんだから」
「任せなさい! これでも私は女優よ!」
有希子はバチリと音がするくらいのウインクをしてそう言うと、娘に向かって得意げにVサインを作ってみせた。それにはなまえも少々笑いながら、この底なしの明るさこそが母なのだと思う。そして、そんな彼女に対して呆れてしまうことも確かに多いけれど、優作同様、改めて大好きだなと口には出さずに思うのであった。
新一の作戦は、こういうものであった。
赤井の変装の出来を見るために既に一時帰国をしていた有希子。そして、明日のマカデミー賞を控えた優作。このふたりの身内をまずはこちら側のメインとしてキャスティングしておき、早々にこの工藤邸に呼び出す。そして、そこで有希子が優作に沖矢昴の変装を施し、彼の代わりにすぐさま渡米。そのままマカデミー賞の授賞式に出席するという、何ともとんでもない発想の作戦だった。もちろん、有希子はその姿で映画界の大祭典に挑むわけではない。当然ながら優作の変装をして、である。
一方、沖矢に扮した優作は博士の作ったマスク型変声機を使いながら、堂々と正面からやって来ると思われるバーボンと対峙。コナンとなまえはその様子を別室で同時にモニタリングするという計画である。その理由は決戦までの時間的問題で、どうしてもつけ焼き刃的な事情しか優作に伝えられていない今の状況下では、彼のみでバーボンとの会話をすべてカバーできない恐れがあるからである。答えにくい質問が来た場合は、コナンが蝶ネクタイ型変声機を使って優作の代わりに遠隔から沖矢の声で話す。会話のタイミングの切り替えは、変声機として使うマスクのカモフラージュ的な意味でも、声の違いがほとんどわからない咳を利用して、その回数で優作からコナンへと合図を送るという寸法だ。
なまえは表立てない立場上、ふたりのやり取りを歯がゆくもモニタリングするだけになってしまうのだが、彼女の第一義的な目的は絶対にバーボンに見つからないこと。事前に話し合って決めた設定では、彼女は仕事を休みにしているが友人宅に行っていて家にはいないとして押し通し、既にその交通手段であるバイクは博士のガレージに隠匿済みという徹底ぶりである。
こうした計画は一見して回りくどく、突拍子もないような作戦に思えるだろう。しかし、話を聞けば聞くほど、誰しもがそうするより他にないと思わざるを得ないほど、その作戦は実に巧妙に考え尽くされていた。優作にわざわざ帰国してもらわずとも単に有希子が沖矢になりすませばいいのでは、という案ももちろん新一には思い浮かんだことであろうが、そうすると彼女の拙い返答ぶりから別人だとバレる可能性もあるし。そして何より、バーボンが博士の発明品であるチョーカー型変声機というものについて調べていて、発売と同時に販売中止になったことまで知っていれば、沖矢の首元をめくって確認するために彼の代名詞的存在であるハイネックに指をかけてくる可能性が高い。有希子の変装術は確かに巧みではあるが、ベルモットのように体格まできっちりとカバーできるかと問われればそこまで技術は及ばないだろう。よって、沖矢の代役がもし有希子であれば、その首の細さから女性だと暴かれ、逆に彼女が危うい立場に陥ることは免れない。
その点、優作ならバーボンとの会話にも物怖じせず、場面に応じて機転も効かせられる。男性の首元であれば、そこをめくられても気にする必要もない。だから、リスクを犯してまで有希子に沖矢昴を演じてもらうよりも、彼女には優作の補填をするために授賞式に出席してもらった方が最善であると新一は判断したのだ。たとえそこでスピーチを求められたとしても、妻であるからこそ自然な応答が可能だろうし、変声機のついた首元も正装のウイングカラーシャツで難なく隠すことができ、そこをわざわざめくるような無礼な人物はマガデミー賞にはいない。
そして、肝心の赤井はというと。彼は工藤邸に残る他の四人とは違って、最初からまったく別の行動を取る手筈になっていた。最後の最後で、直接その手でなまえを守れないことを悔しく思っているようではあったが、それ以上に彼には向かわねばならない場所がある。
それは言わずものがな、あの因縁の地。自らの死を偽装した来葉峠であった。
「なまえ姉ちゃん」
それまで家族の会話には一切入っていなかったコナンが、神妙に姉を呼び止めた。なまえは振り向きざま一瞬くらりとした目眩を感じつつ、平然を装って彼と視線を合わせるために、その場にしゃがみ込む。依然として、体調はあまり芳しくないらしい。
「ん、何?」
「……」
「どうしたの? 押し黙っちゃって」
十七年間変わらないなまえのその優しい表情に、コナンは彼女のこれからを思うと心がいたたまれなくなってしまった。作戦を告げるために工藤邸に来る前から、この一件が片づいた暁には、なまえが最も傷つく立場にあるということを彼はその推理力で十分すぎるほど見抜いていたからである。
本当は、ここにいるなまえ以外の全員がもう既にその事実を知っている。安室がなまえのことを音信不通にしている過去の友人のひとりだということを。そして、そんな男に彼女を渡すわけにはいかないのだと、全員が普段通りを装いながらも、それぞれ鋭い緊張感でその心をぎゅっと張り詰めさせていたのであった。
ベルツリー急行が灰原を守るための作戦であったとするならば、今回は表向きに赤井を守ることはもちろん、その裏で各個人がなまえのことをバーボンから死守するために動く作戦と言ってもいいだろう。両親を呼び出すときにコナンが電話で彼らに軽い説明をした際、優作が自身の『緋色の捜査官』にちなんで「まさしくなまえを守るための緋色の作戦だな」と笑ってくれたことが、コナンにはとても心強くて。それを思い出しながら、同じく姉を励ますみたいに彼は意を決して口を開いた。
「その……頑張ろうねって言いたくて」
しかし、その甲斐虚しく。なまえにはその言葉の意味がよくわからなかった。突然、頑張ろうと言われても。なまえは特にこの作戦上、何もしないことになっているので、弟が何を指して頑張ろうと言っているのかいまいちよく理解できない。
「何よ、それ?」
「いや。本当にちょっと言いたくなっただけ」
「? コナンくんこそ頑張ってね」
昴くんになりすました父さんを介してとはいえ、バーボンと直接話すこともあるのだから、と。そうして、姉弟ふたりが互いに励まし合う仲睦まじい雰囲気が、傍にいた他の三人にも勇気を与えて。ともに守らねばならないと、改めてそれぞれが心を強く持ち直した。
特に、赤井はなまえに対しての想いが他の三人と異なる分、守りたいと思う気持ちも人一倍強かった。しかし、自分では直接バーボンの手から彼女を守ることができない分、もどかしい気持ちを携えながらも、最後の時間をともに過ごすためになまえに近づく。そして、彼女の腕を取ってまるでお姫様でも扱うように丁重に気遣いながら立ち上がらせると、断りを入れるみたいに軽くコナンに微笑んでこう言った。
「悪いな、ボウヤ。少しなまえを借りるぞ」
「えっ」
「少し話そう。ふたりきりで」
赤井にそう言われれば、なまえもコナンも抗えず。有希子のにやにやした表情と、優作の気まずそうな咳払いに見送られながら、ふたりは静かにリビンクから出ることになったのである。
case109. 緋色の作戦
赤井に連れてこられたのは、おそらくこの工藤邸内で最も彼と同じ時間を過ごしたと思われるダイニングキッチンであった。そこへ入るなり、なまえは「何か飲み物でも入れようか」と気安く提案してみたのだが、反してすぐに断られる。そのことから察するに、どうやら彼の出発の時刻が割に差し迫っているのだろうということがわかって、なまえはとっさに胸に手を置き、赤井の無事を懸命に祈った。
赤井には多少の準備が必要であった。なぜならこれから、ジョディを始めとしたFBI捜査官たちに、ついに自分が生きていると明かすことになるのだから。
沖矢との直接対決にバーボンがこの家を訪れることはもうわかっていたが、彼は是が非でもその対決の勝率を上げるために、赤井と繋がりの深いなまえと、FBI捜査官であるジョディ、キャメル両名を他の仲間に監視・拘束させる手に出るだろうということは当然すぐに察せられた。しかし、なまえはもちろん外出を控えているので問題はないものの、赤井の生存すら知らないジョディたちに「身を隠していろ」と理由なく通達することはそもそもできないのが現状である。
特にジョディの方は、渋谷夏子の事件を機に、これまでの複合的な見地から、来葉峠での一件について大きな疑問を抱き始めているはずであった。そして、そのことを探るために彼女が今日、来葉峠に赴くこともコナンは既に読んでいたのである。それは、ジョディの身柄を確保したいと考えているバーボンの仲間にとっては、まさしく願ったり叶ったりの状況で。奴らは絶対にそのタイミングを突いてくるに決まっていると、全員が半ば確信的に踏んでいたのである。
だからこそ、赤井自身がそこへ出向く必要があるのだ。沖矢昴が赤井秀一と同時に存在することで別人であることを証明し、かつ、仲間を守るために。
「なんだか、昨日の今日で状況が一変しちゃったね」
なまえは寂しそうにそう言うと、赤井は目を細めて、愛しそうに彼女の髪をその指で梳いた。
「予兆はあったさ。いつか、お前が泣いて帰って来たときとか」
「……」
やはりあれが予兆だったのか、と。なまえは赤井から言われた言葉にそう思いながら、思い出すだけでずきりと胸が痛む安室のことを考えてしまう。彼が善か悪か。それが今日ではっきりとわかる。そんな予感がしていた。
一方の赤井はなまえの顔色が暗くなったのを見て、やはりかと寂しそうに微笑んでいた。大人しく素直に安室のことを憎んでいればいいのに。そんな切ない顔をして、あの男のことを考え込まないで欲しい。じゃないと、まるでこちらに勝機がないように思えてしまうから。
「なあ、なまえ」
「はい?」
「俺が無事にここに帰って来たら、お前に聞いて欲しい話があるんだが」
突然、そんなことを言い放った赤井は、とても真剣な顔つきをしていた。なまえにはそれが少し怖くて。場を和ませるように「今、言ってよ」とおどけてみる。けれど、彼の決意は相当固いらしく、頑なに首を横に振るだけでそれ以上何も言わない。
本当なら、そんな言い方は縁起でもないような気がして嫌だった。無事にとか、帰って来たらとか。まるで碌でもないフラグを立てるような言葉がつらつらと並んでいるように思えたからだ。だからあえて、もっと話をくだけたものにするために。あえて違う方面からその話の内容について彼に聞き出そうと試みる。
「それって。もしかして『結婚しよう』とかじゃないよね?」
「……さあ、どうだかな」
それは否定でも肯定でもない、曖昧な返事であった。彼の秘密主義は、何も今に始まったことではない。なので、もう大人しく聞き出すことは諦めて、その話の内容について勝手に考えを巡らせようとしたとき。赤井は何を思ったか、急になまえの腰を抱いて顔同士をぐいと近づける。キスされてしまう。とっさにそう思ったが、実際は鼻先が触れ合うほどの距離で寸止められ、そのあまりに突然の行動はなまえを驚かせるには十分すぎるものであった。
「!?」
「これから戦場に赴く戦士に、お前から餞別のキスをくれないか?」
「え?」
「一度くらい、俺からじゃなくてお前から欲しい」
赤井はまるで試すかのような、不敵な笑みを浮かべていた。確かに言われてみれば、今までなまえの方から彼にキスをしたことなどはない。精々、手を繋いだり、添い寝を頼んだり、飛びつくみたいに抱きしめたりするのが精一杯だった。それを、世間一般では良好な交際関係とは呼ばないのかもしれない。
そうして悶々といろんなことを考えているうちに、一向に踏ん切りがつかないまま無情にも時間だけが経過していった。このままではさすがにまずいとなまえは思うと、一度だけこくりと素直に頷き、少し頭が動いただけで唇が触れ合うような距離までじりじりと詰め寄る。しかし、肝心の行動に移すことはできずにずっと至近距離で難しい顔をしていれば、赤井はとうとう吹き出すように笑って、こんなことを言い出した。
「Time over」
「えっ!? んんっ……!」
ここまで来て、結局、赤井から。そのキスは熱くて、甘くて。蕩けるような本気の大人のキスだった。無遠慮に入ってくる彼の雄々しい舌が、まるでその感触を体に刻みつけるように甘く口内をうねって犯し、なまえは何も考えられず必死で追いつくのが精一杯になる。舌先同士がぐずぐずに触れ合う行為が、とてつもなく淫猥な行為に思えてならない。隣の部屋には両親もいるというのに、意図しない鼻にかかったような吐息まで漏れ出してしまうから焦ってしまう。しかし、その焦りでさえ赤井にとってはまるでご褒美で。もっともっととせがむみたいに、角度を変えながら激しさを増していった。
腰を抱いていた手がいつの間にか脇腹をなぞって上に移動し、逃さないようにその手でなまえの頬を包み込む。とっさに薄目を開けて見た赤井の顔は、想像していたよりも随分と余裕がないように見えて。なまえは「どうしてそんな顔をしているの?」と、言葉にできずに考えてしまう。それもそのはず。赤井にとってこのキスは、何よりも特別。なまえと自分の最後のキスになるかもしれないと思っていたからである。
安室透が降谷零であるとわかったとき。自分と降谷、どちらを選ぶかは完全になまえの自由意思であった。だからこそ彼は不安だったのだ。今、ここで自分の証を彼女に嫌というほど刻みつけておかないと、彼の元へ行ってしまいそうで。
離れがたい気持ちを押し殺して彼女を解放したとき、互いの唇を繋ぐみたいに伝い落ちる甘い銀の糸がその激しさを物語っていた。離れたなまえの表情はこれまで見たことがないくらいふやけていて、今まで数えるほどしか経験のないキスのくせに、すっかり快楽を感じ始めている証拠を得たような気がして嬉しくなる。もうどうでもいいから抱きたい。このまま、自分の緋色に染め上げてしまいたい。そんな欲に駆られるものの、横目に見た時刻はもう既に行かなくてはならない時間を差していて思わず舌打ちすら出そうになった。
赤井は余裕ぶって残念そうに笑ってみせると、くしゃくしゃとその小さな頭を撫でる。
「行って来る。体調悪いんだから安静にしてろ」
赤井はそう言うと、彼女を残して平然と部屋から立ち去った。なまえは途端に腰が砕けたようにその場に座り込み、上気する自分の頬に触れる。
なんで秀一にはわかっちゃうんだろう。なまえはそう思いながら、そして部屋の中でひとり、溢すように呟くのだ。今ので絶対、熱上がっちゃったよなあ、と。