110...
コナンがなまえとのモニタリング場に決めたのは、窓から阿笠邸が望める方角に面した最も奥まった二階の一室であった。普段は物置として使用している小規模なその部屋には数台のパソコンと、事前に家中に仕掛けておいたすべての隠しカメラから撮影された映像が一挙に表示できるように複数のモニターが設置され、既に煌々とした怪しげな光を放っている。沖矢に扮した優作以外の在宅を悟られることがないように決して電気はつけず、当分はこの暗闇の中でモニターを見つめる作業を続けなければならないらしい。
なまえはコナンから小型のインカムを手渡され、それを耳につけているようにと言われた。彼も同じタイプのものをつけているようだが、現在リビングにいる優作がじっとマカデミー賞を見ている音声は一応小音ながらなまえにも聞こえていて、作戦に一切の関与をしない自分が一体、その他に何の音を聞く必要があるのかとつい訝しんでしまう。
だが、コナンはそんな姉を見透かしたように笑った。
「俺のは父さんとバーボンの会話を一語一句聞き漏らさないようにするためのものなんだけど、なまえので聞こえるのは赤井さんに取りつけた発信機から一方的に送られてくる音声だから」
「え?」
「って言っても、発信機っつーよりは通話ができない電話って思ってもらった方がイメージはしやすいかもな」
コナンはそう言って、面食らって呆然とするなまえに対し、それを作った博士の受け売りとしてインカムの性能について語り出す。
「盗聴を妨害しつつ、離れた場所にいてもできるだけクリアに音が聞こえるものをって、昨日の夜、ここに来る前に博士になまえ用を特注しておいたんだよ。まあ、制作の時間的に通話の機能は削らざるを得なかったらしいけど、音質に関する自信はあるみてーだったから、音は確かだと思うぜ」
「……」
「向こうのことは全面的に赤井さんに任せてるんだけど、ジョディ先生たちの行動も把握しておきたいしな」
「じゃあ、これは新ちゃんが……」
「いや、何か大きな動きがあったときになまえが教えてくれたらそれでいいよ。何より、その方がオメーも安心できるだろ? まるで赤井さんと一緒にいるみたいでさ」
そんな優しい配慮に、なまえは思わず言葉を失くす。まるで彼には何もかもお見通し。やけに嫌なフラグばかりを立てるような言葉を残して来葉峠に行ってしまった赤井のことを、なまえがどれだけ心配しているかということも。
「秀一と、一緒、か……」
「胸元につけるって言ってたから、心臓の音まで聞こえちまうかもな!」
軽い冗談を言ってからりと笑う弟の声を聞きながら、なまえは手のひらほどに収まるそれをじっと見つめて赤井のことを考えた。それは確かにコナンに言われた通り、離れていてもまるで彼とともに闘っているような気がして自分の心を強くさせるのは事実。そして、何よりも秀一の身に危険が迫っているかどうかを確認できる唯一のアイテムに思えて。まるで彼と繋がった糸をぎゅっと握りしめるみたいに、いつか祈ったことと、同じことを祈った。
どうか、彼に災厄が降りかかりませんように、と。
「ありがとう、新ちゃん」
なまえはコナンに礼を言うと、わずかに頭を傾けながらそのインカムを自身の右耳につける。すると、赤井に取りつけられた集音機から、さっそく微かながら誰かの話し声と車内特有のロードノイズのような音が聞こえてきて。それがジョディと他の捜査官の声であるらしいということに気がつくと、なまえの気持ちも一気に引き締まった。どうやら向こうは、既に決着の地へのドライブを始めているらしい。
そう思った瞬間のことであった。何の前触れもなく工藤邸全体に染むようなチャイムが突如として鳴り響き、こちらもまた、いよいよその幕が開けることを鐘の音が知らせたのである。
「なまえ」
「ん?」
「頑張ろうな!」
同じことを同じ日に、しかも、同じ人から言われるとは。けれど、さすがに二度目はもう何を頑張るかなんてなまえ自身にもわかっていて、彼女は覚悟を決めるようにその拳を握り締める。
この状況に絶対負けないこと。そして、すべてが終わったときに、みんなで笑えるように。
「うん、頑張ろうね!」
こうして、緋色の真相がついに明らかになる時がきたのであった。

case110. 化けの皮
宅配業者を装って堂々とこの工藤邸の正面玄関から入室した安室は、通された応接間をぐるりと一瞥し、監視されているという気配をひしひしと感じ取っていた。それは何もこの部屋だけに留まる話ではなく、この家に入ってきたときから感じていた公安警察の彼ならではの気づきである。ざっと見た感じだが、玄関に二台、廊下に三台、そして通されたこの部屋には五台ものカメラが仕掛けられているらしく、それが逆にこの家に住む沖矢昴とFBIが内通していることを証明する紛れもない事実になっていると強く確信した。まさか、これで見つからないとでも思ったのだろうか。だとしたら、相当自分は見くびられているものだなと、彼はひとりでほくそ笑む。どういう意図でカメラを仕掛けているかは謎だが、こちらの勝ちはもう決まったも同然。「沖矢昴=赤井秀一」という定理はもう解けているのだから。
最初からついていた部屋のテレビは、近頃、ワイドショーでも頻繁に取り上げられているマカデミー賞の中継が映っていた。どうやら自分が来る前、のうのうと沖矢がここでその中継を見ていたのだろうと察することができる。
確かに、この家の家主である工藤優作が最優秀脚本賞を受賞するかもしれないとあれだけ大々的に報道されていれば気になるのかもしれないが、決戦とも呼ぶべきこの状況下では、天下の映画の大祭典も安室には到底ふさわしいようには思えず、画面に映る俳優たちの笑顔ですら、ざわざわと落ち着かない感じがしてやかましい。
適当に座っていてくださいと言い残した沖矢が飲み物を持って来るまで、安室はソファに腰掛けて、玄関先になまえのバイクがなかったことを訝しんでいた。彼女が今日休暇を取っているということはもちろん事前に調査済みだが、どこへ出かけたかというところまでは、悔しいことに把握できていない。その休みの申請は随分前から提出されていたものであるらしいのだが、今回の直接対決を機に降谷零として風見になまえの追跡を命じる前から、彼女は不自然なほど消息不明なのである。
いや、あるいは意図的に、安室の前から「隠された」と言ってもいいかもしれない。他でもない、あの男に。
「お待たせしました」
その当人として疑いをかけられている沖矢は、涼しい顔をしてティーセットをふたつ持って現れた。安室はまず初手として、彼に揺さぶりをかける意味でも彼女に関する質問を投げかける。
「今日は工藤なまえさんはご不在ですか?」
「ああ、なまえさんのお知り合いでしたか。残念ですが彼女なら、友人の家に行くと言って早々にバイクで出かけてしまいましたよ。何でも一緒にマカデミー賞を見るとかで」
「なるほど。最初から尾行もこちらにつけさせないほど、どこかで大切に匿っているということですね」
「? 何の話ですか?」
「いえ。まあ、いいでしょう」
何にせよ、なまえがこの家にいない方が安室にとっても好都合であることには違いない。今は不用意に彼女と顔を合わせるよりも、彼の正体を暴くのが先決だろう。
少し怪訝な顔をしてティーカップを配っている沖矢に対し、安室は得意げな口調を崩さず、あくまでこちらが有利だといった様子で話を切り込んでいく。
「ところで、ミステリーはお好きですか?」
「ええ、まあ」
「まずはその話から。まあ、単純な死体すり替えトリックですけどね」
「ほう? ミステリーの定番ですね」
まるで素知らぬ顔をして興味深そうに話に乗ってくるだけの彼の態度が気に入らず、安室は文字通りその化けの皮を剥がすために、忌々しい物語の序章からさっそく口火を切る。
来葉峠で発見された男性遺体について。
「ある男が来葉峠で頭を拳銃で撃たれ、その男の車ごと焼かれたんですが。かろうじて焼け残った右手から採取された指紋が、生前、その男が手に取ったというある少年の携帯電話に付着していた指紋と一致し、死んだ男の身元が証明されました。……でも、妙なんです」
「妙とは?」
「その携帯に残っていた指紋ですよ。その男は左利き。なのに、なぜか携帯に付着していたのは右手の指紋だった。変だと思いませんか?」
沖矢はやや間を置いて、少し考える素ぶりを見せる。そして、たとえ一般人でもこのヒントで考えられる範囲の答えのみを彼にこう返すのだ。
「携帯を取ったとき、聞き手が偶然、何かでふさがっていたからなんじゃ?」
しかし、その返答を安室は不敵に笑ってみせた。保身として、正体を明かさないためにも沖矢がそう言うより他にないとはわかっているが、苦しい言い訳だとある意味、無様にも思える。銀の弾丸として組織から恐れられていたあの赤井秀一が。もはやその程度か、と。
残念ながら、こちらはもう既に彼がなまえにつけたと思われる右首筋へのキスマークで、沖矢が左利きであるということは掴んでいた。だからこそ自分は宣戦布告の意味でも、あの日、燃えるような夕焼けの中で、対照的になまえの左首筋にその痕を残したのだ。彼女への執着心と同時に、お前の正体はもうわかっているぞと、彼を牽制するために。
今日はカップの取っ手も右側に置いてわざわざ利き手をごまかしているようではあるが、それすらも安室には見苦しく思えた。だからこそ彼は意味深に、まるで沖矢に見せつけるように。テーブルに置かれたミルクポットを「右手」で取る。
「もしくは、右手で、取らざるを得なかったか」
「……ほう? それはなぜ?」
「その携帯はね……、その男が手に取る前に別の男が拾っていて、その拾った男が右利きだったからですよ」
「別の男……」
「ええ。実際には三人の男に、その携帯を拾わせようとしていたようですけどね」
そう。その証拠は、あの花見のとき。少々危険を冒してFBIの女に取りつけた盗聴機から得ることができた有益な情報であった。あのとき、掏摸を殺した犯人の女が自分のことを「脂性だ」と口にしなければ、その情報にはたどり着けなかったかもしれない。そう思うと、やはり神はこちらに向いているとも思える。
あの事件が起きる前、変装とはいえなまえと時間を共有できたこと。そして、安室のことを胸が焦がれるほど好きだったと打ち明けられたことを思い出して、彼はまた性懲りもなくその胸を激しく焦がしてしまう。そして、今、目の前にいるこの男が、まさしくこの家で、なまえと一緒に暮らしているという事実を考えただけで、自分の心が猛烈な嫉妬で黒に染まっていくのがわかった。それも、この男を殺してしまいたいほどに。
少し冷静になるためにもミルクを入れた紅茶に口をつけて、安室は自身の頭の中を現実へと再び引き戻した。そして、ここで初めて沖矢にきちんとした形で問題提起をする。
「さて。ここでクエスチョン」
「……」
「最初に拾わせようとしたのは、脂性の太った男。次に、首にギプスをつけた痩せた男。そして最後に、ペースメーカーを埋め込まれた老人。……この三人の中で指紋が残っていたのはひとりだけ。誰だと思います?」
その問題は、まるでクイズのようで。消去法で考えれば小学生でも解けるほど実に簡単なものであった。
「二番目の痩せた男ですね」
当然、沖矢は即答した。
最初の男は脂性。せっかく携帯電話を落として拾わせたとしても、脂のついたそれを残りのふたりに拾わせるわけにもいかず、次の調査前に指紋ごと綺麗に拭き取ってしまったと考えられる。だから除外。そして、三番目の老人はペースメーカー。携帯の電波で不具合が起こる可能性を嫌って、おそらく拾いもしなかったのだろう。沖矢は解答の理由についてそんな説明をきちんとつけ加えた。
「でも、痩せた男の後に問題の殺された男も、その携帯を手にしていたんですよね? だったら、その男の指紋も……」
「つかない工夫をしていたとしたら? ……おそらくその男はこうなることを見越して、あらかじめ指先にコーティングをしていたんですよ。透明な、接着剤のようなもので。入念に両手の指先をね」
そこまで完全に見抜かれていることを知り、別室の小部屋でコナンはバーボンという男のことを改めて恐ろしく思っていた。やはり、あの花見のときにジョディが口を滑らせてしまった缶コーヒーの話を聞いて、洞察力の高い彼には指先のコーティングのことまで気づかれてしまったのだろう。
あのとき、不自然に近づいてきたあの男の正体にいち早く自分が気づいていれば。赤井生存の発覚は免れ、ここまでの窮地には陥っていなかったかもしれない。
一方、そうしてモニター越しに冷や汗を浮かべているコナンの横で、なまえは赤井の胸についた発信機から送られてくる来春峠組の会話を右耳で聞きながら、回らない頭でじっとその状況を整理し続けていた。優作と赤井。ふたりをきちんと見守っていなくてはならないはずなのに、なぜかとても息苦しくて。頭が割れそうなほど痛むということは、熱が相当上がってきているらしいということが自分でもわかる。たくさん考えなくてはいけないことがあるのに頭が追いつかず、ひらすらにもどかしい。
テレビで放送されているマカデミー賞は、いよいよ主演女優賞を発表しているところであった。裏方仕事ではない花形の発表は、さすがにコアな映画ファンのみの関心には留まらない様子で、受賞者の名前が発表された瞬間は、まるで渦のように大きな歓声と拍手が同時にどっと巻き起こる。そんな中を、透き通るような水色のドレスを身にまとった女優が、まるで信じられないといった顔をして登壇していく姿はとても美しく映えていた。
「なるほど。なかなか興味深いミステリーですが。その撃たれたふりをした男、その後どうやってその場から立ち去ったんですか?」
「それを答える前に、テレビを消してくれませんか? 大事な話をしているんですから」
いくら世界が注目している授賞式とはいえ、必死に獲物を追い詰めている最中の安室にとっては、かなり気を削ぐものであるらしかった。しかし、沖矢がそれを許さない。「いいじゃないですか。気になるんですよ、マカデミー賞」なんて、挙げ句の果てに自分が背を向けていたテレビの方にまで気にして見始める始末で、安室はため息が出るほど不愉快だった。
「それで? その男はどうやって?」
「……その男を撃った女とグルだったんでしょうから、おそらくその女の車にこっそり乗り込んで逃げたんでしょう。離れた場所でその様子を見ていた監視役の男の目を盗んでね」
「監視役がいたんですか」
「ええ。監視役の男はまんまと騙されたってわけですよ。何しろ撃たれた男は、頭から血を吹いて倒れたんですから」
頭から血を。沖矢はまるで初耳のように呟くが、安室にはそれが嘘だとわかっている。いつまでその白々しい態度で押し進めるかは知らないが、それももう時間の問題だろう。逆にこちらを苛立たせることが目的かもしれず、安室は依然として淡々と話を進める。
「だが、それもフェイク。撃たれた男は、いつも黒いニット帽をかぶっていましたから。この近所にはMI6も顔負けの発明品を作っている博士がいるそうじゃないですか? 彼に頼めば、空砲に合わせて血のりが吹き出す仕掛けぐらい、簡単に作れそうだ」
安室はそう言いながら、窓から灯りがつく隣家の阿笠邸を皮肉に見つめた。そこに住んでいる天才的な博士が、間違いなくこの件に一枚も二枚も噛んでいるということはわかっている。なぜなら、彼が作ったと思われる発明品は、何も血のりを入れたニット帽だけではないはずだから。そう思いながら、彼はそっと沖矢の首元に冷えた視線を移した。
「じゃあ、そのグルの女に『頭に向けて空砲を撃ってくれ』と頼んでいたんですね」
「いや、頭を撃てと命じたのは監視役の男。予想していたんですよ。監視役の男が拳銃でとどめを刺す際に必ずそうすると」
それは紛れもなくジンのことであった。まだ組織に報告はしていないが、この事実を知ればあの男なら血眼になって赤井を探し出して処分することであろう。それこそ次は、自らが赤井の頭に弾丸を撃ち込んで。
しかし、残念だ。彼のその願いも叶わず、その前にこちらで赤井は始末する。これは旧友と呼ぶべきふたりのためなのだと、安室は強くそう信じきっていた。
「なかなかやるじゃないですか、その男。まるでスパイ小説の主人公のようだ」
優作は沖矢としてながら、自身の『緋色の捜査官』にちなんでその人物を称賛してみせた。しかし、そのジョークに気づかない安室はすぐにそれを否定する。なぜなら、この計画を考えたのは赤井ではないから。
「この計画を企てたのは別の人物。その証拠に、その男は撃たれた刹那にこう呟いている」
そして彼は今まで様々な事件でともに遭遇し、その度に解決に導いてきた不思議な少年・江戸川コナンについて思い浮かべながら、死に際の赤井が本気で言っていたとベルモットが評した言葉をその口で呟く。
まさかここまでとはな、と。
「まさかここまでとはな……ですか? 私には、自分の不運を嘆いているようにしか聞こえませんが」
「ええ、当たり前に捉えるとね。だがこれにある言葉を加えると、その意味は一変する……」
安室がコナンのことを考えているのと同じタイミングで、コナンもまたモニターを鋭く睨みながらその状況を固唾を飲んで見守っていた。とっさに彼が思い出すのは、渋谷夏子の事件の際に「悪い奴らの敵だよね?」と尋ねた後の、突き放すような冷たい安室の表情。誤解していると否定してきたあの強い目。そして。
彼が「ゼロ」と呼ばれる公安警察の男だということ。
「まさかここまで『読んでいた』とはな」
「……」
「そう。この計画を企てた、ある少年を賞賛する言葉だったというわけですよ」
そこまで話すと、安室はようやくひと息ついた。ここまで来れば、残りは目の前の男の正体を暴くだけ。追い詰めるためのチェックメイトまではあともう少し。
今の安室はなまえと再会したときと同じく、絶対零度の挑戦的な目をしていた。勝気で、傲慢で。その目は並みの相手なら逃げ出すほどの威圧を与え、すくみ上がらせる冷徹な目つきである。それは、組織に潜入するうちにバーボンとして身につけた彼なりの処世術。
いや、いっそう冷えてしまったのは。あの日、大切な友を亡くしてしまってからか。
しかし、その目を沖矢もとい、優作は「若いな」と思うようにじっくりと見つめ返す。そして、その心のうちに秘めたる想いを隠しながら、彼もその挑戦を真っ向から受け止めるために、隠れたマスクの中で口元に弧を描くのだ。
「なるほど。面白い」
その場にいた全員に、まるで前半戦が終わったかのような疲労感があった。特になまえはそれが顕著で、モニター越しに安室を見つめながら、傍にいるコナンの気を散らさないように熱のせいで上がった呼吸を必死になって隠している。
朦朧とする意識の中で、思うのは。
「零……」
好きだった頃とは変わり果ててしまった目つきをした安室透に、また、降谷零を重ねてしまうということ。馬鹿みたいに。